「なーんでこうなったんだっけ」
「なまえが終わらなかったからだよ」
「違う、私はちゃんと終わらせた」
「じゃあなんで?」
「部長が残ってたの渡し忘れてたから!」


あーもう、いらいらを抑えられずに愚痴を吐くなまえの真後ろで俺は苦笑いを浮かべながら「どんまいどんまい」と慰めたが、火に油状態で更に愚痴の勢いは止まらなくなってしまった。
ダカダカダカと凄まじい音をたててキーボードを叩くなまえ、キーボードに八つ当たりしてる。そんなにガチャガチャやったら間違えるのに、と過った瞬間背中から悲鳴が轟いた。


「ちょっとちょっと、そんなにガチャガチャしたらキーボード壊れるって」
「壊れるキーボードが悪い。私は悪くない。私じゃなくて部長が悪い!」
「兎に角落ち着いて、ホラコーヒー買ってくるからさ」
「ボス微糖」
「はいはい」
「廊下にある自販機札入れても受け付けてくれなかった」
「たまに差別するよねえ」
「自販機の癖に差別しやがって」


そりゃ仕方無い。外部から金入れられてもそれ持っていかれちゃうのにコンビニ以上に働くやつだ、たまには商品落とすのも面倒臭くなるのだろう。俺以上なまえ以上に働いている奴だ、お疲れ様。
俺はその自販機へと行き百円玉を三枚捻りこみ、「あったか〜い」ボス微糖とブラックのボタンを押した。ガコ、ガチャン、と続けて聞こえ、缶にあるボスが「頑張りたまえ」と言わんばかりにパイプをくわえている、ボスが羨ましいよ、俺頑張る。
缶を手に持ち来た道を戻る途中警備員の人と会った。お互い「お疲れ様です」と頭ぺこりして擦れ違う、あの人ずっとここで警備員しているらしい。そう言えば定年退職する年齢が上がるとかなんとか言ってたな、あの人何歳だっけ。


「はい、ボス微糖」
「サンクスサンクス」


どかりと椅子に座りプルタブを起こす。ゆらりと湯気が上がりコーヒーの匂いも漂いちょっと気分も落ち着く。背中のなまえも幾らか落ち着いたみたい、恐るべしあったかコーヒー。
打撃音が静かになったところから冷静になったらしい、カタカタと叩く音(速さは変わらずトップスピード)が静かに響き渡る。赤子におしゃぶり、なまえにボス微糖ってね。
俺ものんべんだらりんとやるわけにもいかないのでそろそろ暗くなった画面を起こして再び向き合った。ねえ、と緩い声が俺を呼ぶ。


「良い上司って天然記念物かもね」
「絶滅危惧種だよ」
「あ、そっちだ」
「絶滅しちゃだめでしょ」
「誰か保護しなきゃだよ」
「保護より増やさなきゃ」
「キレたら減給とか?」
「パワハラにつき三十万相手に支払う」
「セクハラしたらスカイツリーのてっぺんから縄無しバンジージャンプ」
「そりゃ死んじゃうよ」
「当たり前だー」
「社員だったら?」
「同じ」
「うわあ、容赦ない」
「当たり前だー」


そこで話が区切られて辺りにはキーボードを叩く音しか聞こえなくなる。プリントと向き合い、俺も順調に作業を進めていく。俺は何をしているかって?勿論、企画書の訂正。
タカタカと進めている中、再びあの緩い声が背中から。俺も「なぁにー」と緩く(ただだらけてるようにしか聞こえない)返した。


「ねえ、どっちが早く終わるか競争しようよ」
「えっ嫌だよ。間違えて文書ミスしたくない」
「間違えなきゃいいだけ」
「えー」
「負けたら明日のランチを奢る、カッコ千円以内カッコ閉じ」
「やるの決定済み?」
「強請参加はいよーい」


どーん。その合図でお互い無言となり兎に角画面と向き合い再び聞こえてくる音はキーボードを叩く音のみとなった。
そもそもまあ迅速且つ丁寧に、これは社会人の鉄則だがこなすのはどうやったって難しい。理想だが高すぎる壁、だが今それをしようとしているんだから。慣れないことはしないほうがいい、とは思うんだけどね。
キーボードを叩く指と画面に神経を張り巡らすこと数十分、先に勝利の雄叫びをあげたのは、なまえだった。


「勝った無敵!私今ちょー無敵!」
「うわあ…」
「今なら部長にも勝てる自信ある!」
「なら部長の前でそう言ってみてよ」
「負け惜しみ?」


タッチの差で俺も終わり、上書き保存をする。シャットダウンしたなまえは鼻歌歌いながらバッグを持って既に扉の前で待機をしている。
若干の敗北感はあるが、企画書間違えたことで迷惑かけるのと奢るのとじゃ断然奢る方がいい。きちんと終わったし、間違えもなかった、損はするが確実に間違いなく仕上げたのだから問題はない。
でもどんな形であれ勝負事は勝負事。流れでやったとしても負けたくないと奮闘するのは自然の性な訳で…ああ分かったよ、俺が負けだって。


「で、明日はなに食べるの?」
「すき焼き定食お願いします」
「がっつりいくねえ、いくら?」
「九百九十七円」
「うわ、凄いギリギリ。それ食べたかったんでしょ」
「いえす」
「はいはい、明日俺が奢るよ」


暗い廊下歩き外へと出ると、久し振りに外の空気を吸ったような気分となった。思わず鼻から深く息を吸ってしまう。
今の時間帯はサラリーマンばかり、皆残業でくたくたなのに目の前を歩く勝者はそれを感じさせない(寧ろ目立っている)軽やかさで歩いていた。すき焼き定食が楽しみなのか、残業が終わったからなのか、或いは勝ったことなのか、いや多分どれもだろう。俺も隣に並んで歩くとなまえがちらりと見た。俺もちらりと見る。


「そう、若が晴れて見事昇格!」
「うっそお!うわーおめでとう!」
「ねー、昨日喜んでてさー」
「馬超さんが絶滅危惧種になっちゃった」
「若なら良い上司になれるよね」
「なれるなれる、上司の鏡になれる」
「こりゃ毎日お赤飯だ」
「大事にしてあげてね、愚痴はちゃんと聞いてあげてね」
「大事にするし、愚痴は誰かさんに言われてるから言われなれたよ」
「誰だろう」
「誰だろう」


若の昇格、勿論これはビッグニュースだ。言った通り絶滅危惧種になってしまった、これから若はもっと忙しくなるだろうから俺がきちんとしなきゃだよね。
若のことなのについ俺まで嬉しくなってしまった。


「では私はここで」
「じゃ、また明日」
「よろしくお願いします」
「分かってるって」


じゃ、と地下鉄へ続く階段を下りていくなまえを見、完全にその姿が見えなくなると俺も帰路へとつく。
久し振りに見えた星空、罰ゲームなんて緩いものだがなまえといると高校生みたいな付き合いみたいになるから楽しいよね。ふっと顔が綻ぶのが分かり、俺は若にこのことを伝えるためなのか自然と足取りは軽く感じた。



20120229 柳


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