(こんなに苦しいならいっそ)


幼い頃から、なんとなく充たされない感覚があった。充たされないというより、何か足りないといった方が正しいかもしれない。でもそれがなんなのかわからなかった。剣道をやっていればそれはいくらか紛れる気がしたのでのめり込んだ。
んで、大学の剣道部で日本一を達成して、大手企業に就職して、また自分は空っぽになった。

だけどその満たされない何かが、毎日の生活のマンネリからくるもので、退屈した自分が無自覚に求めていたものが今の状況を呼び寄せたなら、ちょっと反省が必要なんじゃないかと思う。
しかしいくらなんでも、こんな刺激を求めていた訳ではないのだ。いきなり他人に足払いをかけられて、駅のホームに転がってるなんて。もっと良い刺激が世の中にはあるはずだ。


(なんだコレ)


なんだかよくわからないが、自分があまりよろしいとは言えない状況にあることだけはわかった。
とりあえず背中と後頭部が尋常じゃなく痛い。んで、更に言えば周りの視線も痛たい。つーかそこの女子高生写メ撮ってんじゃねえぞ、SMプレイって言ってた奴なんだそれちょっと出てこい。

ふと視線を上げれば、そこには見ず知らずのガキ(…高校生だろ多分)がヤンキー座りでこちらを見下ろしていた。キレイな顔に似合わない、妙に様になったヤンキー座りをしながら、なぜかとてつもなく…怒っているようだ。

ハテ?、と首を傾げて考えてみる。この分だと、このガキは自分に対して何やら気に入らないことがあるらしいが、全くと言っていいほど心当たりがない。

…ので、ふと頭に浮かんだ言葉を呟いてみることにする。


「オヤジ狩りか?」
「あ?」
「お前」
「ハア!?違うに決まってんだろ!寝言言うのも大概にしろ!」
「だろうな、俺はまだオヤジじゃねえ」
「そこじゃねーよ!この腐れま…いや、今は違うかああもうイライラする!」


野郎は嫌いだが俺は紳士だからそんな卑劣なことしねえ!
そうドーンと言いはるガキは、今時の高校生には珍しい男気だが、はっきり言っていきなり自分をはり倒している時点で、説得力がない。


とりあえず起き上がる。待ってみても、ガキは何も話そうとしないので、なんとなく自分から口を開いた。急に倒されたことよりも気になることがあって、話題は自然にそっちに向く。


「どっかで会ったことあんのか、おまえ?」

ん―ああ。

歯切れ悪く、少年は答えた。さっきまでの威勢は何処へやらだ。巻かれた眉の先をへにょん、と下げてどこか哀しそうな顔をする。なんとなく、とてつもなく酷いことを言ってしまったようで落ち着かない。自分自身、何やらさっきからジリジリと焦燥感のようなものに苛まれてる気がするし、警鐘のように頭の奥が痛んで仕方ない。

ガキはそのまま、気を紛らわすように、何かポケットを探るような仕草をした。それは当然初めて見る仕草で、ポケットにあるものといえば携帯とか定期とか、他にも色々あるだろうに、何故か直感的に口走っていた。

「煙草はやめとけよ。」


………沈黙。


「え?」
「あ?」

(今何いった俺)

二人同時に硬直した。

「ハハ…何言ってんすか俺高校生…」
「そうですよね、すいません」

お互い今更な敬語で、明らかに動揺している。イヤイヤ、なんだこの空気。確かに見当はずれなことは言ったが…言ったのか?あまりにも普通に浮かんだ言葉過ぎて、自分の方に非があるとは思えなかった。

不安が滲み出る声音でガキは呟く。
「どこまで覚えてんだよゾロ」
「ゾロ?」

その時だ、

「×××くん」

呼ばれたその名前に聞き覚えはない。が、違和感だけはあった。(違うだろ、なにが違う?わかんねえ)腹の底から冷えていくような感覚が気持ち悪い。

「美幸ちゃん」

一瞬だけ意味深な視線を寄越して、案外あっさりとガキは離れていった。

ごめんね、待った?ううん、そんなことないよ、あの人だあれ?なんか格好いいね、知ってる人?まさか、知らないよ、何でホームに座ってるの?…さあ?酔っ払いじゃん?


聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。テメェのせいだろ、ふざけんな。なんだ、じゃん?って。隣のやつは彼女なんだろうか。女の方はチラチラこちらを振り返っていたが、さっきまでうるさかったガキは、こっちを見ようともしない。

(気に入らねえ…)

「サン…」

呼び止めようとしていた。でも言いかけて止める。さっき名前は×××だと呼ばれているのを聞いたじゃねえか。なのに口をついてでようとするのは違う名前だ。ぼんやりと、自分はあの名前を呼んでやったことが数えるくらいしかなかったことを知っていて、それがどんなに愛しいことかわかっていた。


ガヤガヤと、ホームは降りてきた乗客と乗り込む乗客でごった返す。車内の人混みに紛れる2人の後ろ姿を見送りながら、同じ電車に乗るのもどうかと思って、また並び直すことにした。

一瞬ドア側を向いていた彼女と、ガキの背中越しに視線が合う。にこりと微笑んでやれば、顔を真っ赤にしてはにかんだ。発車の放送が流れる、ホームにほとんど人はいない。当たり前だ、ほとんど電車に乗り込んだのだから。あのガキと一緒に。

プシューと耳障りで派手な音を響かせてドアが閉まっていく、とっさに腕を伸ばす、彼女が驚いたように目を見開いた。





電車は走り去って、強い風が巻き起こった。風圧でバサバサと、頭一つ分低いところにあるガキの細い黒髪が宙を舞う。…ついさっき、電車からホームに引きずり下ろした、ガキだ。


…………。
…………。


2人静かに最後まで電車を見送る。手を取って抱き寄せられた体制のまま、ガキは覗きこむように見上げて話しかけてきた。

「おい」
「あ?」
「お前美幸ちゃんたぶらかしただろ、真っ赤だったじゃんか」
「ありゃあいつが媚び売ってきたからだ…ああいう女はめんどくせえからやめとけ」
「お前が言うな」
「うるせえな、あと餞別代わり」
「餞別?」
「お前借りるからな」
「…お優しいこって」

ふはは、と呑気にグル眉のガキは笑った。不安なくせに、余裕ぶって勝ち気に上がる薄い唇を懐かしく思って、つられるように笑った。何笑ってんだと、軽く脚でどつかれる。

「んで、返す気あんの?」
「ねえな」


時刻は19時33分。
頭痛も消えたし、まあ、とりあえず飯食いに行くか。



(続きます)

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