いち、にい、さん



車についてるデジタル時計は午前1時を表示していた。それは暗闇の中でぼんやりと光る緑色の光。どうして何故、俺は懐かしくなって遠い昔の記憶を辿る。

遡り行き着いた先にあったのは、俺がまだ小学生であった、遠い夏の日の記憶である。夏休みのお盆の時期になると俺の家では毎年決まってクソ田舎のクソジジイの家に帰った。帰省ラッシュの渋滞を嫌う父さんは必ず夜中のうちに出発して夜の高速を走り続けた。そして明け方、ジジイの待つ家に帰るのだ。
小学生のガキにとって夜なんてのは未知の世界だ。いつもならば寝る支度をするその時間に、出発の準備でバタつく母さんの姿を見るだけでわくわくしたのを覚えている。その後ろを跳び跳ねついて回り、そろそろ落ち着きなさいとたしなめられる頃、絶妙なタイミングで玄関のドアが開く音がする。父さんが仕事から帰ってきたのだ。だからその音は俺にとって、これから始まる特別な夜を知らせる特別な音だった。

特別な夜の車内は快適だ。
後部座席を全て倒して一つの小さな部屋のようにする。そのままでは寝づらいので決まって母さんが薄くて軽い布団を敷きつめてくれるのだ。更にそこにクッションやらタオルケットやらを持ち込む。タオルケットはやはり母さんが出発の前の日にきちんと干しておいてくれるので毎回フカフカでお日様の匂いがした。その甘い匂いと肌触り、眠気を誘うぬくもり。
退屈もしたけれどそれさえ幸福だった。父さんと母さんが座る座席のまん中に身を乗り出し、俺たちの車に呑み込まれるみたいにして闇に消える白線を見送った。
白線の行方を気にしながら、他愛もない会話もした。この日のためにダビングしたCDにあわせて出鱈目に歌った。腹が空けば母さんが作ったおにぎりを食べたし、ひとり窓に張り付いて何処か遠くの異国に拐われている映画の主人公になったりもした。タオルケットに包まって星空を見上げれば砂漠で遭難した冒険家にもなれる。その夜俺は何にでもなれる気がして何をしても許されるのだと信じていた、そして確かにそういう安心感があった。何故なら特別な夜の車内では何をしたってそこにいるだけで、自分が2人にどれ程愛されているのかがわかったのだから。


「なあ、ついたよ」

午前1時、約束のパーキングにたどり着いた俺はとても上手に車を停めた。つい一月前に免許を取ったばかりの大学生にしては上出来だ。トイレと自販機しかないそこは、暗闇の中でぽっかり口を開けている怪物のようだった。羽虫の集る電灯と電波塔の隙間から見える山は黒々としていて不気味だ。これが緑色の塊だなんて俺は信じられない。少なくとも今は。

「おい、生きてるかお前」

返事がなかったので、後部座席の暗闇に向かってもう一度呼び掛けた。知らない男がひとり、横たわっている。
勿論全く知らない訳じゃない。でなきゃただのホラーだ。その場合俺は大声を上げてウヒャァアとかいいながら世にも奇妙な、みたいな反応をしなきゃならない。
ここにつれて行けと言ったのはこの男だ。遡ること本日10時半頃、2限の講義を受けるべく俺はいつもの坂道をダラダラ歩いていた。坂の上に大学があるのだ。そこに見知らぬ車がよってきて、すぐに窓が開いて、自分と同じくらいの年の男が顔を出した。

「アンタ運転できるか」
「はあ?ええ、まあ」

男はそうか。と呟いて。
「なら乗れ。運転しろ、行きたい場所がある」

すぐに男の着るスーツの腹部から血が滲み出ているのに気づいた。そして血濡れの右手には拳銃が握られていて、銃口は確かに俺の眉間へと向かっていた。
しかし逃げられなかった訳じゃない。本気で抵抗すれば楽勝だった、多分。男は見るからにフラフラだったし、俺は腕にも足にも自信があった。
それなのに俺はホイホイと、言われるままに車に乗り込んで、何時間も見知らぬ、もしかしたら俺を殺すかもしれない男のために車をぶっ飛ばし、言われるままの目的地を目指した。

日が落ちるまでは、車内はとても静かだった。車体が風を切る音と、後部座席の男の浅い息遣いだけが響いていた。血なまぐさい車内とは対照的に、空は気持ちの良い秋晴れだった。
けれど夜になってから、俺は一度車を停めて、コンビニでおにぎりを買って、それからお茶を飲んだ。一応、二人ぶん買った。

「アンタさぁ、腹に穴が空いてるんだから、お茶なんか飲んだらそっから漏れちゃうかもな」
「……」
「そんな目で見んならお茶返せバカ」
「別に見てないだろ」

男の車にはCDがなかった。だから途中のパーキングエリアで安売りしてるご当地ソングのディスクを買って、男に聞かせた。男の髪が緑だったので、マリモがモッコリ、とかなんとか。男が少し不機嫌になったので俺は満足した。やはり多少は、銃を向けられたことを根に持っていたようだとその時密かに気づいたが、同じように男がまだ生きていることに安心していることにも気づいた。
(情が移っちまったんだな)
やはり名前を付けるのは良くないんだな、とひとり反省する。男が名乗らないので、俺は勝手に名前をつけていた。心の中だけで、ひっそりその名を呼んでいた。
そして実を言うと、その時にはもう男は自分を殺さないだろうという確信があった。むしろ奇妙な居心地の良さのようなものまで感じ始めていた。そしてその不明瞭な感覚に、覚えがあった。



緑の光が午前1時30分を表示したとき、男に動きがあった。俺はシートベルトを外して、座席の上で体育座りをしていた。男は体を起こして、スーツのポケットから何かを取り出してそれを拳銃に詰めた。やはりあの拳銃、弾は入っていなかったのか。

「なにしてんの」
「見るなよ、トラウマなるぞ。今日は助かった、連れてきてくれてありがとう。俺は今からここで死ぬから、悪いけどお前は車を降りてくれないか。トランクに金がつんであるから、好きなだけ持ってって、それで帰れ」

淡々と、流れるようにそこまで言って、これでもう何も言うことはなくなったと言わんばかりに男は銃口をこめかみに添えた。死ぬ間際だというのに、瞳がギラギラ暗闇で光っている。未練は、ないのだろうか。男は静かに顎で車外を指す。

「早く行け」
「アンタ死んじゃうのか」
「ああ」
「なぜ」
「取り返しのつかないことをした」
「人殺しか?」
「……人を殺さなくても許されないことがこの世には沢山ある。殺すよりずっと残酷なことがあるんだよ、それを俺はした」

男の言っていることは、正直俺にはよくわからなかった。死んでないなら、どうにでもなるだろうと思ったのだ。だって確かに俺の幸せの終わりは死だった。多分死んでなけりゃ、俺の幸せはどうとでもなったからだ。父さんも母さんもジジイも、死んだから終わったんだ。

「なあ、ちょっといいか?」

問いかけると、男はまっすぐ俺を見据えた。怒ったような困惑したような表情をして、それから少し横にずれて俺が座れるだけのスペースをつくった。おかしかった。ただ単純に笑えた。気遣いは嬉しいが、血だらけですけどそこ。でもいいな、思い出した。父さんもよく、運転に疲れた時こうして後部座席に移動して来た。俺は今の男のように、そっと席を譲った。その時とても自然に、この夜があの特別な夜と重なるのを感じた。

今夜。
おにぎりを買って、お茶も飲んだ。CDに合わせて、出鱈目に歌った。他愛もない話をして、車体の下に流れる白線も見送った。白状しよう。俺は確かに、最初から今夜を特別な夜にするつもりだった。多分男と会ったその瞬間から、許す気でいた。男のことを全て許して、そのために必要な特別な夜を作った。

「お前は知らないようだから教えてやるが」
「…なんだと?」
「死ななくても死ぬことはできるよ」

暗闇で身じろいだ、男の顔が困惑一色になった。身を乗り出してわざと距離をつめる。囲い込むように、男側の窓際に手をかけた。逃がすなと、意志が高揚して無意識に口角が上がった。

「言っている意味がわからないんだが」
「コレはそうそうできることじゃないんだ。結構難しい、覚悟がいる。でもお前なら大丈夫だと、俺は思う。むしろお前にして欲しいね俺は。お前がいいから、うん。言っちゃうけどお前、今の名前捨てろよ。それでそれを俺にくれない?」
「待て待て…てめぇ頭おかしくないか」
「ゾロ」
「は?」
「お前の名前、俺が決めた。さっきから、呼んでたんだ」
「…お前の名前は」
「俺はサンジ。もとからサンジだ。悪いが俺は名前は変えられねえ。俺はこの名前を愛してるからな。だから今日まで生きてきた」

「なあ、ゾロ」
囁いて拳銃を握る右手をなぞる。誰の血だろうか。ずっと握りっぱなしで、こびり付き乾いた右手と拳銃がくっついてしまったら嫌だなあと思った。しばらくして掌に、引き金を引こうとする男の指の力が緩むのを感じて、(ヤッタァ)思わず俺は愛しさに目を細めた。








戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -