いつか忘れるのなら



「またパパは寝てしまったのね。今日はお絵かきなの?」
寝かしつけるはずの愛娘よりも先に眠ってしまうのはあのひとにはよくあることだ。その腕を抜け出してこの子がひとり遊びを始めるのも、まぎれもないわたしの愛すべき日常のひとつ。彼によく似た、細くて奇麗な緑の髪を揺らしながら、彼女は小さな桜貝みたいな爪がのっかったひとさし指をしい、唇の前にぴったりとくっつけた。「ごめんね」そう答える代わりに、わずかに体をずらした彼女の隣に静かに座る。幼いのにとても気の利く子だと、親ながら感心せずにはいられない。催促するまでもなく彼女は自分から画用紙を差し出してくる。彼女の絵を見るのがなによりも好きで、それはあのひとも同じ。大人しく繊細な性格にそぐわず、大胆でおおざっぱな絵を描く。どうやら今日もそれは相変わらずで、自然と笑みがこぼれた。画用紙の真ん中には、緑の髪の女の子とカラフルな怪獣がいる。一体どういうシチュエーションなのか。尋ねようとして口を開きかけた、そのときだった。
(たか、お…)
目に飛び込んできた懐かしい名前に心臓が止まりそうになる。怪獣のお腹に、覚えたての拙いひらがなで「たかお」確かにそうかかれてあった。

「これどうしたの?」

その先を、聞きたいけれど聞きたくない。けれどわたしの口は迷いなく動いて、とても自然な、この子の母親らしい笑みさえ浮かべるのだ。この子の前でこんな笑い方をしたのは初めてだった。情けなくて、恥ずかしくて、歪む口元を必死で隠す。
「パパがときどきおひるねのときにいうの。」
「パパが?」
「ねてるけど、泣いちゃって、でもたかおって何回もいうの。きっとゆめのなかでパパのこといじめてるんだ。たかおって、悪いこなんだよきっと。だからこれみせて、パパにげんきになってもらう」

幼い娘はそう言ってわたしを見つめる。何かとても大切なことを伝えたいとき、相手の目を一心に見つめるその癖があのひととそっくりだ。それなのに今、目の前の娘と重なったのは父親であるあのひとの姿ではなく、あの日わたしをまっすぐ見据えた彼の灰色の瞳だなんて。
「違うのよ」
「うん?」
「多分、パパはそのこのことがとても大切なのよ」
「えっ、でも泣いてるんだよ?」
「うん、でもそういうものなの。もっと大きくなったらわかるよ」

不思議そうに首を傾げる彼女を抱き寄せるために伸ばした両手は、あの日彼からあのひとを奪って、あのひとをここへ縛りつけた両手だ。それでもわたしはこの手で彼女を抱きしめるし、だからこそわたしと彼女はこれから、この午後の陽だまりの中で約束をしなければならない。このことはわたしと彼女の2人だけのひみつにすること。優しくて愚かなほど誠実なあのひとは、知った瞬間自分を責めてどうしようもなく傷ついてしまうだろうから、そんなことが決してないように。それはとても哀しい約束だけれど、この幸せのためならわたしは上手に笑って、知らないふりをしていけると思える。




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