アンドロメダの祝福

額に触れる感触と落ち着いた声で届いた言葉が頭から離れることなく、いつまでもついて回る。膝の上で丸くなっている小さな背中を無意識の内に撫でながら微かに息を吐いた。一人しかいないリビングに思いの外大きく響いたそれは彼女の大きな耳を動かすには充分すぎて、顔を上げそのまま鼻先を手の平に押し付けたのだろう感覚に視線を下へと向ける。ごめんね、と零した声は存外に小さく、普段と様子の違ったことを悟った賢い彼女は1つ鼻を鳴らしてからその額をこちらの腹部に擦り付け、どうしたのとでも問うかのように見上げてきた。 「ステラはいい子だね……」 小さな身体を抱き上げ頬を寄せる。大人しくされるがままの様子に甘え柔らかさを堪能していたが、暫くすれば本来の考えに引き戻され今一度溜め息を漏らした。こればかりは友人を頼ることが憚られ連絡を取っていなかったが、今からでも遅くはないかと携帯に手を伸ばしたところで、迷っている気配を察したらしい膝の上の存在が咎めるみたく一度だけ鳴いて見上げてくる。指先が触れただけの端末に目を向け唇を引き結ぶ。自分の問題は自分で。そう言われたような気がした。とはいえ彼に会わなければ何も始まらないので家で悩んでいても意味が無い。どうにかして連絡を取れればと思うも電話番号もアドレスも知らないのだから八方塞とはこのことである。 どうしたものかと考えていたがバイトの時間に気付き家を出たのだが、まさかその日に彼がバイト先に訪れるなど、今の私は知る由もなかった。 まだ寒さの続く時期と云うことと女の子の一大イベントが控えている今月は客足もそこそこなのが現実だった。何も無い穏やかな時間をレジ前で持ち込んだ雑誌を読んで過ごすという、本当に給与が発生しても良いのか不安になってしまうくらいにはやる事のない現状に欠伸を噛み殺す。おじいちゃんたちはこちらに全部任せて奥に引っ込んでしまっているので一人の空間が物悲しく、少し寂しくもあった。という柄でもないことを考えるのはここ暫く心を悩ませる彼の言葉と行動の所為だろう。らしくないことばかり考えてしまって良くない。 アンニュイって平仮名で書くと可愛い感じする、と頭の中で友人が言っているような気がしてほんの少しだけ楽になった気がした。一人でいると余計なことばかり考えてしまうので、早々に誰かしら来てくれはしないだろうかと目の前の扉を見詰めていた矢先に立ち止まった人に、丸めていた背を正す。暖簾に隠れ顔は見えないが男性だろう。 「いらっしゃいま……せ」 「こんにちは、先輩」 そうにこやかに言う、ここ暫く心を乱させている張本人である彼に狼狽えてしまったのは悪くないだろう。一瞬だけ目を泳がせるも直ぐに営業用の笑みを貼り付ける。こうでもしなければ自分を保つことが出来ず、少しでも気を抜いてしまえばあの日の事を思い出して顔が赤くなりそうになる。その心境を知ってか知らずか、いつもと変わりのない態度で涼しげに微笑んでいた彼が、これまたいつもの様におつかいの品を指差していく。細めではあるが節のある男性の手をした、いつも優しく頬に触れ髪を梳く温かいそれが、と思った所で慌てて頭を振り考えを霧散させた。顔に出てしまっていたのだろう、動きを止めた彼を見上げれば嬉しそうな、それでいて少し困ったような表情で口元に手を当てている。ほんのりと朱に染まった真白の肌に思わず瞬く。そうやって表に出してくれることににやけそうになる唇を必死に噛み締め見詰めていれば、ややあって彼が口を開いた。少しだけ傾げられた首の動きに合わせ揺れた絹を思わせる滑らかな髪が、蛍光灯の光に当たり淡く煌いたように見えるのは惚れた故のフィルターなのかもしれないな、とぼんやり思った。 「意識、してくださってるんですね」 「いや、あれは…しない方がアレというか、その…」 「そう、ですか」 「ていうかズルいよ」 だんだんと小さくなる言葉は届いただろうか、顔を見ることが出来ずただ黙々と品を詰めていく狭い視界に影が出来たかと思えば彼の手が頭頂部に優しく乗せられ、今すぐ触りたくなりました、などとさも当然のように言われてしまえばますます顔が上げられなくなってしまう。仕事中だからという言葉は、愛しげに髪を梳く指の前では飲み込むしかない。一通り触れた手が離れていくことにほんの少しの寂しさを覚えながら会計を済ませ、ようやっと彼の目を見た。不思議そうに見下ろしてくるその眼差しが心地よく、頬を緩ませていた背に声を掛けられ驚きに肩を跳ねさせ振り返れば、深い笑みを浮かべたおばあちゃんが立っている。見てご覧と時計を示す指を追って気付いた上がりの時間に瞬いてから彼へと視線を戻す。言葉無く待っていると伝え笑んだ彼が持つ袋にドライアイスを1つ追加した。 日が落ちるのは早く既に暗く薄らと星の光る空を見上げマフラーを引き上げる。唇の端から漏れて流れていく白い息を横目に、店先の長椅子に腰を降ろしていたその人に駆け寄り、彼が立ち上がるよりも先に冷えたその頬にカイロを押し当てた。驚きに瞬いた彼の深い茶の瞳に目を細め満足気な声を零せば、仕方ないなとでも云うように苦笑した彼がカイロ越しの手に頬を寄せた。不意打ちだ、と仕掛けたこちらを的確に照れさせたことに顔を赤らめ、外すタイミングを失った手をとった彼に促されるまま帰路に着く。手袋をしていない素肌が触れて温もりを分け合うことが嬉しいだなんて、そう思い少しだけ彼の方へ身体を寄せた。カイロは鞄の中へ戻しお役目御免である。大きな手が包む様にするそれが心地好く大事な事を忘れていたのを思い出し、手を引いて注意を向けさせ、柔らかな視線が落ちてくる感覚に1つ気合を入れてしっかりと見詰め返した。 空気の違いを感じた敏い彼が表情を僅かに固いものにする。短く吐き出された息が後ろに流れて消えていく。ひゅ、と吸った空気が肺を冷やし脳内をクリアにしていったのが分かった。彼は先に答えをだしてくれた、だからもう、応えるだけ。 「私は柳くんよりも年上で」 「はい」 「何も取り柄とかなくて、星が好きな普通の高校生で」 「はい」 「それなのに、」 1つ1つの言葉にしっかり頷いてくれる彼に泣きそうになる。繋がれた手と頬が熱くて、どうにかなってしまいそうだ。 「柳くんは私を好きになってくれた。ありがとう、とても嬉しかった」 「そういう先輩が、好きなんです」 「…私も、柳くんが好きです」 もう、何を言っているのか自分でもよく分かっていなかった。けれど、言わなければいけないことは言えた。気恥ずかしさに俯きそうになるのを耐え、ぐ、と歯を食いしばる。何も言わない目の前の彼の手が離れ、外気に曝され冷えていく。そのまま伸びてきた腕が身体に回り、彼のいつもの言動からは想像出来ない強さで抱きすくめられ、彼で視界が埋まった。安心した様に息を吐くその背中に手を回し返しコートを掴んだ。少しだけ身体を離して暫く見詰めて、彼が身を屈めたのに気付き応えるように背伸びを1つ。 頭上では、冬の澄んだ空気に輝く星が数を増やしていた。
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