すり抜ける風が髪を浚い、淡い花の香りを振り撒いていく。光に煌めく白禄の、絹糸にも思えるそれを風に遊ばせながらジープの予備タイヤに腰掛け頬杖をついた。絶え間なく変わる景色を流し口を噤む背中に掛けられる悟浄の声に顔だけで振り返ろうとしたが、大きく揺れたジープにバランスを崩しそのまま後ろへと倒れこんでしまった。難なく受け止める悟浄の腕の中、きょとりと瞬きを繰り返しながら彼を見上げる。大丈夫か、と心配そうに見下ろすその表情は少し焦っている様であり、申し訳なささを滲ませつつ謝罪を口にすれば額を突かれた。
「ばーか。お前を支えるくらい平気だっての。怪我はねぇか?」
「お蔭様で大丈夫です」
「そーかい…てかお前ほんとに軽くね?」
「ん…まあ、本体は花ですからね。グラムしかないと思います」
「マジかよ……」
悟浄の膝の上に横抱きにされながら首を傾げていれば、興味を抱いたらしい悟空に持ち上げられてしまう。片手で抱える彼の瞳は驚きに輝き、止めることも間に合わずされるがままの状況に苦笑を漏らして目の前の茶色の頭を撫でた。力の強い彼にとっては持っていないと同じとも言えるだろう、僅かに物足りなさそうな彼に微笑んだ。
少しばかりそうしていたが、運転手である八戒からのストップが掛かったため悟浄の膝の上に戻され身を落ち着ければ、懐かしい煙草の匂いが肺を満たした。けれど、やはり彼とは違う僅かな違和感に口を噤んで息を吐く。兄であり父の様でもあった、優しく抱き上げ笑ってくれる大きな背中の大好きな人を思い出し、次いで頭上の赤髪を見上げた。つまらなさそうに煙草を吹かすその人を見詰め、それから凭れ掛かった。
「お…甘えてんの?」
「背凭れ、ですけど」
「翠チャンの為ならいくらでも」
「悟浄さんのそういうとこ好きですよ」
「さーんきゅ」
ウインクを一つ飛ばす彼に茶化して返せば、頭を撫でる手と笑みが返される。紫煙を吐き出し灰を落とすのをぼんやりと眺め、それから運転席へと目を移す。先程まで感じていた視線と気配はもう無く、その主である八戒の意識は眼前へと向けられていた。ただ静かに注がれる視線と意識はこちらの態度を探るものだろう。正直なところ、知られたくなければ話す気も無いが、頭の回転の速い彼に口で敵う気がしないのは確かだ。怖い、とでも言えば良いだろうか、今この状況で彼と二人で話す勇気も覚悟も持ち合わせてはいなかった。あの人とは全く違う別人だといくら自身に言い聞かせても、同じ容姿が声が仕草が、そして何よりもその魂が、否が応でも意識させる。名前を呼んで頭を撫でて、強く抱き締めてほしい。安心できる温かい腕の中で微睡みに身を委ね、それから深く眠りたかった。身を焦がさんばかりの想いに痛む胸を押さえ、眉根を寄せて息を吐く。けれど、もう二度と叶うことのない願望にしかすぎずその様なものは抱くだけ無駄であると、強く訴え現実を突き付けてくるのは他ならぬ八戒自身だ。暗く重い、決して忘れられぬ過去を背負い歩んでいる彼に、自分のようなものが手を伸ばして良い人ではないことが容易に理解出来た。最愛の女性を胸に抱く彼は自分が求める彼の人では無いこともまた同じ。とはいえ、いくら頭で理解しようと渇望する心は留まることを知らない。反する思いに鈍く痛む気のする側頭部を押さえ目を閉じた。
「おい、大丈夫か?」
「……え?」
「気分悪いんだったら言えよ」
「あ、いえ…少し考え事をしてただけです」
「無理すんなよ」
「はい」
目敏く気付いた悟浄に笑みを返し、その膝から身体を浮かして低位置である予備タイヤへと戻る。少し残念そうにする彼に肩を竦め首を傾げてから外へと視線を投げ唇を引き結んだ。風が身体を撫でる感覚に、いくらか頭が冷えれば良い、と緩く頭を振り小さく足を揺らした。数度ゆっくり瞬けば、涙の零れる感覚はすれど滴が落ちることはない。とうの昔に枯れ果てたそれが、愛しい人のいない月日を数えさせるのだ。どれだけの時間が経てど色褪せることのない記憶は、目を閉じれば昨日の事の様に思い出せる。甘く名を呼ぶ声、頬を優しく包む手、何よりも安心出来る香りも体温も何もかも、記憶の中に息衝いて、自分を生かしていた。
「翠ってよく考え込んでるけど何かあんの?」
「何か、って?」
「んーー心配事とか?ほら、俺らこんなんだし」
「悟空達は大丈夫って思ってるよ」
身体ごと振り返り大きな双眸を向けてくる悟空の言葉に対する驚きを悟られない様に表情を繕い微笑みを浮かべ彼の頭を撫でる。誤魔化しに気付く悟空ではなかろうて、最後に強く頭を撫で前を向くよう促せば、笑顔を見せて満足げな様子で深く座り直した。その背に添うみたく背を寄せたが、微かに動いた八戒の唇に気付き動きを止める。
『僕には、何かあるみたいですけど』
一瞥をくれた三蔵は煙草を吹かすばかりで何も言わず黙したまま一度視線を外へと向ける。それから、やはり口を噤んだままきつい視線を此方へと向け、何よりも雄弁な紫暗色に鈍く輝く双眸で訴えかけてきた。面倒ごとは御免だと。しかし、いくら言われようとどうにもならないのが現状だと身を縮めることしか出来なかった。
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