困った様に笑う姿があの人と重なる。ふわり、と柔らかな面持ちがより一層、あの人を思い起こさせた。姿形も雰囲気も何もかも全く異なっているというのに、怖いほどに同じ笑顔をする。けれど、その同じ笑顔の中でひとつ違うのは、目の前の彼女の微笑みの奥に見えるものが悲痛と悲しみだということだった。懐かしむような、何かを求めるような眼差しは、視線が交われば忽ち悲哀へと変わっていく。誰かと重ねて見ていると取れるそれに複雑な気持ちを抱くのは言うまでもない。それと同時に、あの人を彷彿とさせるその笑みを見たくはなかった。無意識の内にそれが現れていたのだろうか、彼女と二人きりになる事は無いに等しく、だからなのか、この状況に眉根を顰めてしまったのだ。
「お一人、ですか…?」
「おかえりなさい。つい先ほど皆さん出掛けてしまいました」
「そう、ですか。珍しいですね」
僅かに言葉を詰まらせた八戒に微笑んで直ぐに視線を窓の外に投げた彼女に、買出しを終え一人先に宿へと戻ってきた八戒は微かに同様を見せる。考えていた人と二人きりという状況は流石の八戒も狼狽えるのか、それでも悟られぬ様に平静を装い作った笑顔のまま不自然の無い動座でテーブルへと荷物を置いた。しかし、最初の笑み以降は視線を窓から動かそうとしない彼女にはただの杞憂だったらしく、一向に見向きもしない様子に何とも言えぬ面持ちになりながら八戒はひとつ息を漏らす。それから、改めて彼女の姿を捉え、やはりあの人とは違うのだと認識する。むしろそこで重ねてしまっていた事を軽く後悔するくらいだ。邪気は勿論のこと、人間味すら感じられない程に清廉な気は凛として、浮世離れした雰囲気は此処との違和感を覚える。彼女の周りだけ切り取られたような、一歩踏み出せば異なる世に変わる感覚と言えば良いのか、天上界の住人は皆がこういうものなのか、と八戒は一人ごちる。
窓辺に腰を下ろし、膝の上で体を丸めるジープの背を撫でる彼女を気にしつつも荷物を片付ける八戒が如何に音を立てようが彼女の意識が窓の外から移ることはなかった。いっそ清清しい程に見向きもされない事実にこれから先の不安が否めない八戒の溜め息が零れ部屋に広がる。そうしてやっと視線を動かした彼女の、夜の月を思わせる金の瞳が向けられている事に気付いた八戒が顔を上げれば、湖面色の双眸を捉える金晴眼に仄暗い色が混じり微かに細められた。不安げな、悲しみをも見せる瞳に息を呑んだ八戒に気付き誤魔化そうと微笑んだその表情は、八戒の想うあの人に似すぎている。ごめんなさい、と今にも聞こえてきそうな様子で唇を噛み締める彼女に瞠目し一歩踏み出し手を伸ばしたが、肩を竦めて身を引かれてしまえば降ろさざるを得ない。心配を見せ小さく鳴いたジープの首元をゆっくりと撫でる彼女の指が僅かに震え、何かに耐える面持ちに胸が痛む。何故そのような態度ばかり見せるのか、思い当たる節の無い八戒は言い表せられない気持ちにもう一度、深く息を吐いた。らしくなく高ぶる感情を落ち着ける為の行為は、彼女にとって良いものではなかったが。
「わたしも、少し出てきますね」
「え……」
「ごめんなさい」
小さく呟いて横をすり抜ける華奢な背中に声を掛ける間も無く聞こえた扉の閉まる音と廊下を走る音に眉を顰める。肩に止まるジープが首に擦り寄るのに気を回せず、本当にらしくない、とベッドに腰を下ろした。全てを見透かしているかの様な静かな瞳を見るのは少しだけ苦手だ。何も口にしていないと云うのに何かを訴えかけてくる。自身にだけは異なった視線を向ける意図が掴めず、僅かに引いた曖昧な態度が目に付く。どうして自分なのか、八戒は訝しげに顔を歪めた。
半ば逃げる様にして宿屋を出て少し離れた木に背中を預け、幹伝いに座り込んだ。目を閉じても重なる二人に顔を覆って息を吐き、それと同時に八戒にとってしまう態度を思い返し自身に悪態を吐く。どれだけ違うと言い聞かせても、声が、表情が、ふとした時の仕草があの人と重なり嫌でも思い出し、目の前にいると錯覚してしまう。心の内に深く根付いた大きな存在が、ゆっくりと息をしていた。魂は巡る、それは再開という甘美な響きを孕み、しかし二度と交わることの無い想いを顕に突き付ける。残酷なまでに刺さる現実は自分を不安定にした。会いたかった愛しい人、会いたくなかったもう二度と愛してくれない人。思わず縋り付いて甘えたくなる優しい笑みが痛い。
「このままじゃ…いけないのに」
深く考えれば考えるほど頭の中が散らかっていく感覚に大きな息を吐く。敏い八戒は自分だけに向けられる異なった視線や態度に気付いているだろう。また、それに対して彼が良く思っていないこともまた、言うまでも無い。抱えた膝に顔を埋め身を縮めた肩を、風がゆるりと撫でた。
「……天蓬」
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