何もない小さな世界に
花咲き乱れ、その姿を堂々と主張する水面の一角、鮮やかなまでに翠色の花弁は異質でありながらも何の違和感もなく自然な程に鎮座し、たゆたい、その名の通り微睡みに身を預けている様であった。その様子をどれほど見続けているだろうか、数日や数週間などで数えられる話では無かったな、と観世音は座しながら頬杖をつき、徐に花へと視線を投げ薄ら笑う。何が起こっても不思議ではないこの場所にまた新たなものが始まるのだろう。その時が来るのを待ち遠しく思い目を細めた。
それからどれだけの時が流れたか、例の花を眺め片手間に自身の気を注いでいた、日課と称しても可笑しくは無いこの行為も終わりを迎える。観世音は仕事など最初から頭に無い様子でただひたすらに凝視し、咎めに来た二郎神が口を噤む程に真剣な双眸は何かを待ち望んでいる様であった。不意に肌を刺す神気が花へと集まり、目を見張る二郎神とは裏腹に期待に満ちた眼差しのまま、観世音は口角を上げる。息を飲む中、閉じられていた花弁が開き、大輪のその姿を見せた。透き通る翠の花弁は輝き滴を伝わせ淡く仄かな光を纏う。徐々に収縮していく光は凝縮された神気を覆い姿形を形成していく。柔らかな曲線を描くそれは女性の形をしていた。観世音は身を預けていた座から立ち上がり、花の上に座り込むそれに手を差し伸べる。慈愛の篭る眼差し、緩く弧を描く唇、満足気な面持ちに二郎神は痛み始める側頭部に手をやった。聞くまでも無く事態の原因は目の前の観世音であることは明白な上に、これまた予想外のことを言い出すのだろう。しかし、伝わる真剣な空気に、二郎神は言葉一つ出す事が出来なかった。
完全に人の、女性の形をとったそれは長く淡い白緑の髪と、異端の証である金晴眼を有していた。大きな瞳は煌々とし、何度も瞬きながら周囲を認知しようと視線を泳がせている。我に返った二郎神は慌てながら観世音に事の次第を尋ね答えを待った。果てしなく得意げな観世音は、腰に手をやり不敵に笑う。
「俺の子だ」
「チェンジで」
「二郎神のくせに生意気な」
「だって貴方、花すらまともに育てられたことがないのですぞ!」
「現にこうして育てたじゃねぇか」
「…金眼は異端の証。お忘れではないでしょう」
「そりゃあこいつは神でも、天界人でも妖怪でもねえ。天地の気と俺の気を注ぎ練り込んだ花の結晶なんだからよ」
「花の、結晶…」
「可愛いだろ?」
ぼんやりとした眼差しのそれを見遣り、二郎神は訝しげに面を歪める。言葉も出ないと云ったところだ。からからと笑い二郎神を振り返った観世音はそれの頭を優しい手付きで撫でた。何を言っても無駄であると悟った二郎神は鈍く痛む頭を押さえたまま、深い溜息を吐いた。不思議そうに二人を見る金の瞳のそれは首を傾げ、どうかしたのかと言うかのように観世音の腕に触れる。それに気付いた観世音は声を上げて笑い、両脇の下に手を差し込み持ち上げた。きょとり、と丸くなる鮮やかな瞳は真っ直ぐに向けられ、逸らされることのないそれに薄く笑い、観世音は目を細め額を重ねる。その様子を視界の隅に捉えながら、されるがままの、細く華奢な体躯のそれに衣服を用意してやらねば、と考える自身も毒されているのだろうなと二郎神は乾いた笑みを漏らす。観世音に用意させれば衣服と言えぬものを着せるだろうて、それだけは可哀想である。先手を打たねばなるまいと考える二郎神はその場を後にした。
静寂の支配する空間、ただ見詰めあうだけの観世音とそれは言葉無しに意思の疎通をしているのか、二人の視線が逸らされることは無い。少しして、ふわり、と目元を緩め微笑んだそれに観世音は目を見張ったが、すぐに表情を崩して頷き、抱えたままの体を立たせてやる。まだおぼつかぬ足取りではあるが、そう時間の経たぬうちに他と変わりなく行動出来るようになるはずだった。もし無理なのであればこちらが教えれば良いだけの事である、と定位置に戻りながら観世音は思った。物珍しげに視線を巡らせ様々なものに興味を示す姿は微笑ましく、我が子であるが故もあり自然と頬が緩むのか締りのない顔で頬杖をつきそれを眺める観世音に、衣服を手に戻ってきた二郎神の声が掛けられるも、さぞどうでも良さ気な返事を返すだけだった。そのことに何か言うことも気にする事もなく用意した服を宛がう二郎神は一つ頷いたが、意図に気付いた観世音は抗議を唱え身を乗り出した。
「俺の娘にそんなダサいの着せれるか!」
「まともなものを用意するとは思えません」
「俺と揃いに決まってんだろ」
「……」
「んだよその目は」
「いえ、別に」
とは云え今はこれを着せる他はなく、渋々ながらも着るように促せば、数度瞬くも理解したのか袖を通し始めるそれに二郎神は感心した様に顎に手をやった。
「知能があるのですな」
「数日もすりゃあ年相応になるだろ。女性であることも教えてやったからな、優しい俺は」
「一言余計ですぞ、観世音菩薩」
何でも有りな観世音にぬかりはなかった。自身の興味のあることは全力であるからして、特に今回の事はあの観世音が長い月日をかけて気を注いだのだから中途半端なことはしないだろう。何か考えがあってのことかもしれない、と淡い期待を持ちながら、二郎神はそれの帯を締めてやった。