見えなくてもとなりに

優しく名前を呼ぶ声も、愛おしむような瞳も、絶対の安心をくれる体温も何もかも、手の届かない場所に行ってしまった。もう、思い出でしか感じる事が出来なくなってしまった。もう、傍にいてくれない。



大破した天蓬の部屋、少し前まで彼と共に過ごした場所は見るも無惨な状態ではあるが、それでも、大切な場所に変わりはなかった。転がった机の下、愛用していたカエルの灰皿に入る亀裂を見詰め、唇を噛み締める。泣いているんですか、なんて声が聞こえた気がして振り返るけれど彼がいる筈もなく、誰もいない廊下が静かにあるだけだ。怖いくらいに、部屋が広く感じる。




「これじゃあ片付けが大変だよ……天蓬」




声は震え、掠れていた。床に落ちていた白衣を拾い上げ抱き締める。まだほんの少し残る煙草の匂いに涙腺はいとも簡単に緩み、涙が溢れて頬を伝った。いつもなら返ってくる筈の優しい声と言葉はいくら待てど聞こえず、彼の名前を呼ぶ自身の声が虚しく響くだけ。なんでいなくなってしまったの。どうして帰って来てくれないの。また一緒に暮らそうって言ったじゃない。



「迎えにくるって、約束…したのに…」



零れる涙で抱えていた白衣の色が変わっていく。一度流れてしまえば涙は止まる事を知らず、止めど無く溢れる滴は白衣を濡らし、言いようのない気持ちで心を満たした。生まれて初めて声を上げて泣いた。こんなにも辛くて寂しくて、悲しいことが他に有るだろうか。自分の全てを一瞬にして失うことがこんな気持ちにさせるなんて、知りたく無かった。これだけは、天蓬自身から教えてもらいたくなかった。一生知らないで、いたかった。

鈍い頭と重い身体を引き摺りソファへと雪崩込む。いつもここにいた。ここで話して、勉強して、沢山触れ合った。身体を丸めていれば髪を梳いてくれて、軽く口付けられるのだ。けれど、いくら身体を丸めていてもその優しい手は降ってこない。どうして、とそればかりが口をついて出る。白衣を手にしたまま身体を起こして部屋の隅に目を向け、残された自分のスペースに瞬いた。天蓬がくれた勉強道具も、下界で買ってきてくれたぬいぐるみも飾りも全部がそのまま、荒れた部屋の一部となっている。暫く眺めていたが、不意に微かな音が聞こえて、僅かな期待を抱きながら音の方へと直ぐに向かった。大好きだったお風呂、洗濯物がそのままの脱衣所には誰の姿も見当たらない。石鹸の落ちた音だろうか、浴槽に手を掛け額を寄せた。

湯が張るのはまだですよ。

後ろから声が掛けられ振り向けば彼が笑いながら立っている。そんな日が恋しい。そう思いながら振り返ってみても天蓬はいない、そんな事実が耐えられなかった。冷えた床が、痛い。不確かな足取りで風呂場を後にし部屋に戻れば、現実を突き付けられる。本を読みながら煙草を吹かす天蓬の姿は、無かった。




「迎えにきてよ…天蓬。待ってるんだよ…」




手にしたままの白衣が形を変える。風が抜けた。目の前に見える寝室への扉が緩く開き、気付けば自然と吸い寄せられる様に足が進んだ。僅かに作られていた、私一人が寝られるスペースは崩れ、今は見えない。空気が遮断されていたからか、古書の匂いに混じって色濃く残る天蓬の香りに恋しさが募り、止まっていた涙がまた溢れた。本に埋もれたベッドに無理矢理に場所を作り、身を滑り込ませる。ここで待っていてばきっと天蓬は帰ってきてくれる。死を信じたくない私はそうして目を閉じた。遅くなってすみません、なんていつもみたいに困った様に笑って、抱き着けば抱き返してくれて、膝に乗せてくれながら下界の話を聞かせてくれるのだ。ゆっくりお風呂に浸かってうっかり寝てしまう。寝る前に沢山キスをしてもらって、彼の温もりと香りに包まれながら夢を見る。そんな毎日が戻ってくる筈だと、きつく目を瞑った。早く、声を聞かせて。あなたを忘れてしまう前に。









どこからか入り込んできた風が一枚の花弁を運び、眠る彼女の頬へと落とした。淡い桃色のそれは優しい色には似つかわしくない記憶を内包していた。何処を辿り、なぜ此処へ辿り着いたのかは常人が知る由もなく、花弁のみが真実を知る。誰も知らずとも良いのだろう。ただ、彼らの軌跡が、彼女に伝わればそれで。




「な、に……」




花弁が運んだ記憶、天蓬達に何があったのかを唯一知る、たった一つの小さな媒介。強く握り締め静かに涙を流す彼女は抱き込んでいた白衣に顔を埋め、伝わる記憶に嗚咽を漏らした。これすらも嘘だと、頭を振り声無く叫ぶ。信じたくなどなかったのだろう、拒絶を顕に彼女は只管に天蓬を想った。僅かな希望すらも抱けなくなった現実に虚ろな瞳は居もしない彼の幻影を見る。手を伸ばせば届きそうなほどに近いそれに彼女の細い手は、決して届くことはなかった。どれだけ伸ばしても彼が彼女の手を取ることは無い。彼女の声も届かない彼は、黙ったまま一度だけ微笑み、背を向けて行ってしまう。



行かないで。



ただ一言、絞り出した言葉すら彼の耳には届かない。
桜吹雪の中に、彼は消えた。




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