七十五日後や如何に
水上に彼女がいる。そう言い出したのは一体誰だっただろうか。
今となっては発端の人物の特定は難しく、例え見付かったとして歩き出した噂というのは、大抵が止めること叶わない。人の噂も七十五日という言葉の通り、皆が飽きることを待つか、はたまた現在の噂よりも食い付き甲斐のあるものを流すかといったところだが、たかだかそれだけの内容の為に労力を割く気にはなれず、悩むことなく前者を選んだ水上はざわめきの中で我関せずの姿勢を貫いていた。
思春期の男女は、概ね人の恋愛事情が気になる生き物というのが水上の認識である。誰々が誰々に気が有る、誰と誰が付き合っている、他校の生徒といるのを見た、等とそういったもので盛り上がれるのだ。確かに、仲の良い友人がそうなった場合は祝福してやろうという気が水上にもあるので話を聞いたりと首を突っ込むこともあろうが、話しをしたことも無い人はと言われれば全くもって興味は微塵も湧かない。
好奇の視線を投げる同級生に気付かないふりをした水上はひとつ欠伸を零した。
今回の噂に心当たりがない、わけではないところも水上が黙している理由でもある。以前、一度だけ綺が水上を待つ為に学校へ顔を出したことがあった。連絡先を交換していなかったことから、確実に会うには仕方がないとは言え、あの容姿から中々に目立った。十中八九、あの時だろうと思い返す水上の眉間に皺が寄る。その後の水上の耳に上手く入らなかっただけで、実際は裏で細々と回っていたらしい、というのは王子の言葉だ。面白いことになっていると端整な顔を喜色に染めるものだから、盛大に嫌な顔をしてやったのは水上の記憶に新しい。
水上は、自分が異性に好まれるとは全く思っていない。同じ隊にいる、何を考えているか分からないが優しく愛想が良く柔和な後輩の容貌を脳裏に浮かべ、ああいうのが女子に受けるものであり、水上には無縁だと決めつけていた。ところがどうだ、女子という生き物は常に想像の範疇をいとも簡単に軽々と超えて行く。なんと、水上に対して恋慕を抱く者が一定数いると、これまた王子が言っていたし、村上や穂刈など中の良い連中も心当たりがあるといった様子だった。自分で言うことではないが、酔狂な人間がいるものだと水上は素直に驚いた。勿論、人から好意を寄せられていることは喜べたし、生駒ではないがこれがモテ期かなどと浮かれたりもした。
そういった女生徒たちの間でよく燃えた噂が、騒ぎたいだけの人種の耳に入り今となって水上に、というのが事の真相だ。ボーダー隊員というだけで人の注目を集めることに加わり彼女の有無というのは話題作りにはもってこい、ということである。
何も忘れた頃にやって来なくとも、と綺が訪れた時期と照らし合わせ、そろそろ考査の結果が出る頃などとカレンダーを見る水上の前に誰かが座る。他の組に行っていた穂刈が水上を見た。
「無いのか、写真は。彼女の」
「本気で言うとる?」
「冗談だ」
「ほんま、寂しいおひとり様に対してなんちゅー噂やねん」
「でも、腕を組んで歩いていたって」
「村上ぃ、お前もか」
柔らかな面持ちで、言うことは鋭い村上に悪気が無いことは分かっている。不思議そうに首を傾げる村上に、水上は大きな溜め息を吐く。村上の言葉には何も間違いがなく、確かに腕を組んでいた水上はそれ以上言えず閉口した。何を言っても面白がられるに決まっている。ここに王子が居なくて良かったと、水上は切に思った。
「てことあったんよ」
「やば、うける」
「うけんな」
「てか、え〜ごめん。手ぇ繋ぐくらいにしとけば良きだった?」
「そうやないねんな〜」
隣で新作に舌鼓を打つ綺を見る。水上の手にも同じ店のカップが握られているが、中身は面白味も何もないカフェラテだ。壁際のふたり席で額を突き合わせ、騒がしくならないように声を潜める。気を抜くと自然と声の大きくなる綺の場合、外で話しながら飲むことが常だが、水上からの話を聞いた以上、外で見られでもすればまた水上が困るだろうと綺は店内を選んだ。それに気付かない水上ではなく、綺があれこれ考えるものでもないが好意は素直に受け取ることにして、こうしてテーブルに頬杖をついている。
正面に座る綺はホイップクリームとの格闘を繰り広げていたが、諦めてスプーンに頼ることにしたらしい。蓋を開けようとする綺を制し、水上が代わりに開けてやる。その爪ではあらぬところに引っ掛けて大惨事になりそうだという心配からだった。嬉しそうに受け取りスプーンを刺すのを見とめ、水上はカップに口をつける。コーヒーに混ざるミルクではない、何か柔らかいものが内側を満たしていく感覚がした。
「あれだけで噂になんだね」
「……噂やのうて本当にしとくか?」
「あははははは」
「何わろてんねん」
「だって、あたし上サマの好みのタイプじゃないっしょ」
爆笑とは予想外の返しに呆気に取られる水上に、あっけらかんと綺が言う。それは、何の淀みも蟠るものもない綺の本心だと、水上は直ぐに見抜いた。確かに水上の発言は冗談であり、綺に対してであれば大丈夫だろうといった甘えからの言葉だ。思惑の通り、綺は困惑することも本気にすることもなく、水上の求めていた反応を返した。それは良かった、だがしかし、その先の返しは流石の水上も予想はしていなかったのだ。否、しようと思えばできたことをしなかったのである。
水上は水上なりに綺に対して情を掛けていたし、好意を持って接していた。だというのに、綺の物言いは水上の思いがまるで届いていないと感じとれた。ここまで手をかける水上が綺に対して全く、微塵も、微生物ほどにも好意を抱いていないと本当に思っているのかと、何も気付いていない綺が水上は恐ろしくなった。
きょとり、と見詰めてくるヘーゼルに、水上は返す言葉を見付けられなかった。勝手に期待して、勝手に落胆して、なんと身勝手なことか。水上の人となりを全て理解していない綺に求めるものではなかったのだ。
舞い上がっていたのは水上の方なのかもしれない。
「上サマにはさぁ、黒髪で清楚系な、えっとあれ、やまとなでしこだっけ? そーいう子が似合うって」
ほとんど氷しか残っていない中身をストローでかき混ぜながら綺が笑う。口にする全てが綺とは真逆で水上はつい笑いそうになった。誤魔化すように口を付けた水上のカップにも中身はほとんど残っていなかった。
「確かにお前とはちゃうなぁ」
「でしょ」
「けど、お前も悪くないで」
「他の子と競ったら負けるっしょ、絶対」
綺が数度瞬き、怪訝そうに水上をねめつけることも気にせず中身を飲み干した水上はカップを潰して席を立つ。
タイプではないからと土俵にすら乗らない綺を、これからどう引き摺り上げるか、今の水上の頭にはこれからの展開が着々と読まれていた。
せめて与えた分の好意には気付けと、後ろをついて来る綺の額を小突いた。