人参は褒美にはならない
どこか騒がしい校門前に、水上は気のない目を向ける。ざわめくそこにできた遠巻きな人だかりの中心に見慣れた髪色を認識して思わず足を止めた。眉を寄せた水上の口の端から重い溜め息が漏れていく。
「何しとんの、あいつ」
仕方がないと足を進める水上がさり気なく人だかりの間を抜ける。中心の人物も水上に気付き、表情を明るくして顔を上げた。跳ねた拍子に揺れた赤毛とスカートが水上の視界に留まる。服装検査などする必要もなく見た瞬間にお咎めを受けるだろう装いは綺に良く似合っていた。
軽やかな足取りで駆けてくる綺に、在学校を教えただろうかと水上は記憶を辿る。以前、何かの話の流れで言ったこともあったかもしれないが、本人ですら曖昧な内容をよく覚えていたなと感心した。お世辞にも綺の頭は良いとは言えない。勉強のべの字も聞きたがらない、普段は薄い鞄がふっくらとして重さを増していることに気付き、水上は大まかなことを察した。時期的に足掻かねばならないのだろう。
「上サマみっけ!」
「先に見付けたんはこっちや」
「べんきょ教えて!」
「ほれみろ」
目の前で勢いよく合わさった細い指先を彩るのは鮮やかな黄緑だ。新しいものだとひとつ瞬いた水上は、そのまま視線を綺の旋毛に落とす。身長差の関係であまり見ることのない箇所をしばらく見つめ、華奢な手を徐に掴み歩き出した。いつまでもこの場に留まりたくない気持ちと、断っても聞かないだろうとい諦めを抱き、折れることを選んだ。水上の心境など知らず、顔を上げた綺は満面の笑みで見上げて横に並ぶ。力を緩めた手から抜け出た綺は流れる動作で水上の腕を掴み身を寄せる。この際全て好きにすると良い、水上はそうして明日の自分を憂うだけだった。
「理数がマジやばなんだよね〜」
「全部ちゃうか?」
「ガチやばがそれ」
「うわ……」
教師からのお咎めが危ぶまれているには到底見えない綺は、まるで友人との何気ない雑談を楽しむみたく笑っている。決して笑いごとではないと出かけた言葉を飲み込んだ水上は、代わりに大きく息を吐く。果たして、綺を救うことができるのか、と。
自慢ではないが水上は頭が良い。飛び抜けて勉学が優秀かと言われればそうではなく、正しく抑えることに強いのだ。何をどうすれば良いか、どこを掴み覚えれば良いか、そういうものを察することが上手かった。勿論、地頭も優れているが思考と頭の回転の速さで何をすべきかの最適解を人よりも多く、そして早く出せる。つまり、この場で何を示したいのか、それは、人に教えるには不向きであるということだ。
如何なものかと眉間に皺を寄せる水上に気付いた綺が目を向ける。ゆったり瞬きを繰り返し、そのまま水上の眉間に爪先を突き刺した。本人は皺を解すつもりだったが、ネイルが施されて綺麗に整えられた爪は凶器に等しい。
あ、と声を零し、突き刺さる批難の視線から綺が目を逸らした。顔ごとそっぽを向いた綺を咎める気も起らず横顔を見とめ、水上はひとつだけ溜め息を落とした。追求されないと分かった綺が安心に表情を緩める。
「どこ行く?」
「この前んとこでええんちゃう?」
「デザート美味なとこ!」
「目的忘れとる?」
呆れる水上に返されるのは機嫌の良い笑顔だけだ。綺麗に上向いた睫毛の奥、綺の大きな瞳は勉強の頭文字分もその気は含まれていないように思える。それでも教えて欲しいとわざわざ足を運んだということは、ほんの僅か、一欠片でも手を付けなければいけないと思ったわけであり、水上にはその僅かに期待するしかない。
日頃、頭は良くないと豪語するその実力や如何に。店員の明るい声に促されながら、水上は肩を竦めた。
結果として、水上の想像ほど綺の学力は壊滅的ではなかった。応用問題になると途端に手が止まるものの、基礎的なものはそれなりに身についている。とは言え出されている課題と試験範囲を見る限り、水上の通う学校よりも難易度は格段に低い。これができなければ本当にお手上げなのだろうことが分かる。綺曰く、試験の問題にはこの課題と同じものがいくつか入るらしく、だとすればいくらかは点数が稼げる、と水上は胸を撫で下ろした。何とかして問題と答えを綺の頭に叩き込めさえすれば勝機はある。
冷め始めたフライドポテトを摘まみながら、紙面に向かう綺の赤毛を突いた。
「これ全部覚えろよ」
「えっ……」
「思うに、いくつかどころかほぼ同じの出るで。教師は点数稼がせたいやろからな」
「これ覚えとけば良きってこと?」
「そーゆーこと」
まずはここからここ、文字の上を滑る水上の指を追い、綺の目が動く。獲物を注視する猫のようだと思ったのは内緒だ。左から右、上から下へ、そして斜め。動かした指の先を一対のヘーゼルが追いかける。
幾度か紙面に指を滑らせた水上が、正面の双眸が見つめるものは文字ではなく自分の指であると気付いた時には、綺によってそれは捕まえられていた。鮮やかな黄緑が肌を滑り、水上の骨ばった手に丸みを帯びた綺の爪先が絡みつく。あっさりとペンを投げ出した綺に溜め息が零れるのも無理はない。
「めっちゃ塗りやすそ〜」
「お前なぁ」
「新色良さげじゃ〜ん。ね、試したい!」
「テストの結果次第やな。八十以上とれたら考えたる」
「はち……じゅ……」
はしゃいだ空気は成りを潜め、盛大に顰められた顔は嫌いなものを目の前に出された子供だ。綺は唇を尖らせ抗議の意を見せるも、水上に通用するはずもなく、薄ら笑いに一蹴された。
未だ未練がましく水上の指を掴んだままの綺の手を見下ろし、警戒心も何もないのを良いことに水上が手を掴み返す。一般的な大きさだろう手の内に収まってしまう華奢なその先端の彩りを擦った水上は、想像よりも手触りが良いことに瞬いた。利き手ではないからか、ペンを持つことに不便のない綺は水上の好きにさせたまま問題に向き直る。真面目に点数をとる気になったのだろうか、動機は不純であることを横に置いて感心に目を丸くする水上が口角を上げた。
普段からやっておけば良いものを、と頬杖を突いた水上の手には、未だ黄緑色が居た。