街中の視線
艶やかな唇を際立たせるための構成は、その見立ての通り目を引く仕上がりになっていた。悪くない、と綺も満足気に頷いたことを覚えている。ただ、発売日まであと僅かに迫ったそれは、確かに発色も良く輝きも申し分なく華やかだったが、綺にとってはさして好みの色ではなかったように思う。似合う色ではあったが、それまでだ。
撮影の際に使用したものをそのまま渡されたそれは、一度も使用されることなく未だ鞄の中に無造作に転がされている。直接口を付けていないため友人にでも、と考えたが綺の仲の良いふたりには些か似合わない色だった。新調したばかりだと聞いていたこともあり、余計に勧めることはできない。
ぼんやりと広告を見上げながら、似合ってはいるのだと頷く。しばらく見つめた後、背を向けて携帯端末を弄る。友人が用事を済ませるまでの間、広告に対して言及する人はいたが、誰ひとりとして綺に気付くことはなかった。意外と分からないものだな、と目当てのアプリケーションを立ち上げる。新作の飲み物を片手に手慣れた手付きで写真を撮った。綺麗に盛れたそれに満足しながら端末を仕舞い、ストローに口をつける。
別に気付かれなくとも、話題にならなくとも構いはしない。ただ、好きなことをして、好きなものを着て、可愛く綺麗に着飾って楽しく撮影ができるから続けているだけの綺は何だって良かった。それが綺自身にとっての最良の形であり、そう在ることを求められている今、望むものは限りなく少ない。精神的に望むと言うよりは単純に物欲なのだ。服や装飾品、化粧品など、挙げ始めたらきりがなくなるだろう。
楽しみにしていた新作も早々に飲み切り、上手く吸い切れず残ったクリームが底にもたついている。細いストローで根気よく吸い、微々たるそれに眉を顰めて容器を傾けてみたが氷の欠片が落ちるばかりだった。どうにもならない残りと格闘し、負けの兆しが見え始めてきた綺の両側を、戻ってきた友人たちが挟む。これで満を持して時間切れとなった。
流れる動作でカメラを起動し押されたシャッターに、全てを飲み干したとこだと綺が頬を膨らませる。写真を撮るなら残しておいたとぼやき、自身の惨敗した様相の容器とは裏腹に、並々揺れる友人のものをねめつけた。
新作を試し、行きつけの店を巡る。気に入ったものが有れば試着をして、財布の中身と睨み合う。今回は綺の負けだった。つい先日、数着購入したばかりだったと思い、次に来る時まで残っていることを願い本命のカラオケへと向かう。いつも通りの帰宅途中の寄り道は何ら変わり映えなどないが、それでも毎回等しく楽しいものだ。毎日のように学校で顔を合わせているはずの友人たちとの会話も尽きることはない。不思議と思う反面、ずっと続けば良いと綺は思った。
よくあるカラオケ用の映像を背景に歌われるのは少し前に流行ったドラマの主題歌だ。内容はほとんど忘れてしまったが、歌だけは綺の頼りない記憶の片隅に残っていたらしい。数式も英単語も、元素記号の五つすら怪しいというのに、大して見もしなかったそれきっと、綺の心の内にある何かを刺激するものだったのだろう。だからと言ってどうというわけではないが、少しだけ面白かった。
気分良く身体を揺らしていた綺の手元で端末が震える。誰か、と視線を落とした画面に表示された名前は、テーブルの上で結露するグラスに注がれた紅茶の内の一滴分とも予想していなかったものだった。
その人に対して連絡をとる場合は綺からで、向こうから来ることは無い。あれやこれやと送るときも、話を聞いてほしいと長文をしたためたときも、一言二言の返事だけをするその人から、綺へと初めて宛てられた記念すべき分だ。折角だから保存でもしてしまおうか、浮かれた気分で開いたそこには、文字だけではなく写真も添付されている。
拡大せずとも分かるそれに綺は思わず天を仰いだ。じわじわとこみ上げる嬉しさと気恥ずかしさでにやける顔は、画像の中に写る広告の顔と同一人物には、到底思えないものだった。
お前がおった。たったそれだけの文字が輝いて見える。一緒にいる人に撮ってもらったのだろう、いつもと変わらない仏頂面で猫背のその人が、広告の綺を示していた。のっぺりとした強い黄の瞳がカメラ越しに綺を見ている。くすぐったい気持ちになりながら返信を打つ綺の内心はにやけた顔以上の騒がしい。広告を見てどのような反応を見せたのだろうか。周りの友人に何か言われたかもしれない。綺の想像では、あれこれと詮索されることを苦手とする男だったため、一体どういう感情でこの写真を撮るに至ったかが気になるところである。
挙動を不審に思った友人に覗き込まれ、良い玩具を見付けたと言わんばかりの表情になる友人たちに挟まれた。その人、水上とのことはそれとなく話しているに過ぎないが、こういうときだけの勘は鋭いふたりは綺が何も言わずとも理解したようだ。水を得た魚というのはこういう様子を言うのだろうか。じゃれつく友人たちをいなして、早速送信を押した。色々と言いたいことや聞きたいことはあるが、まずはこれだろう。
あ、と声を出したときには遅かった。日頃、言葉が拾われるまでに秒を有するか否かという水上の隊の面子は、ほんの小さな呟きにもどうかしたのかと視線を集中させていた。そうして、何でもないと言うよりも先に目敏い青の目が水上が足を止めて声を上げた要因を捉える。その反応を戦闘中にも見せてはくれないかというのは寸でのところで飲み込んだ。
つられるようにして皆が件の広告を見上げる。黒を背景に普段とは違う化粧を施し、正面を強く見つめるその人物は、挑発的ともとれる笑みをしていた。仕事用だと、付き合いの浅い水上でも分かるそれが少しだけ違和感を抱かせた。知らない一面を知るというのは、どうもむず痒くていけない、と水上が後頭部を掻く。
その艶やかな唇に目が行くようにしてあるのだろう、大抵の人はあっさりと引っ掛かるに違いない。綺麗だと、隣にいた細井が小さく呟く。
「先輩、こういう人が好みなんです?」
「あ、そうなん水上。イコさん知らんかった」
「ちゃいますて。知り合いなだけです」
「同じ学校やない、よな?」
「俺見たことないっす」
他校の生徒だと肯定の意で頷き、水上は改めて広告を見た。普段、見ることのない表情は違和感を生むと同時に珍しさも抱かせる。何とも言えない気持ちになりながら小さく頭を振る水上に、隠岐が楽しそうに口を開いた。
「折角なんで、一緒に写ったらどうです?」
「何が折角なん?」
「報告しましょう!」
「海くん?」
渋る水上の敵は後輩ふたりだけではなかった。端末を貸せと手を出す細井と真横から来る生駒の無言の圧に負けて、差し出された小さな手に水上が端末を乗せる。嫌な体を装ったものの、満更でもない自分がいる事実に頭を掻く水上は、その気持ちに気付かない振りをして溜め息を吐いた。
何枚か撮られ、その中で一番良いものが隠岐の手によって選ばれる。言われるがまま写真を送信したは良いが、文章が思いつかず閉口した水上だったが、まあ何でも良いかと短いそれを打ち込んだ。綺の既読は大抵早い。水上の思った通り、直ぐに印の付いたそれにひとつ瞬き、返信を待つ。それから、さほど時間を掛けず返された内容にその場にいる全員が声を上げた笑った。
「上サマ写真写りめっちゃ良くない?」