リップクリーム
何気なく口を開いた水上を小さな痛みが突く。心当たりのある様子で唇に舌を這わせた水上の前に、太い指には不釣り合いな可愛らしい桃色の筒が差し出された。丸い書体の印刷されたそれと、差し出してきた真顔とを交互に見やり、幾何か考えた後にそっと受け取った水上の鼻先を掠めたのは、想像していた通りの甘い香りだった。
「上サマなんか甘くない?」
「こーいうときだけ敏いなぁお前」
「まあね」
「褒めてへん」
鼻を鳴らして顔を寄せる綺をやんわりと押し戻し、水上は溜め息を吐く。気付いた綺に隠す必要は無く、鞄の中から取り出した小さな筒を、鮮やかな色が爪先に踊る手に乗せた。扱い慣れた手付きで取り上げ確認した綺は小さく瞬き、それから手元と水上を交互に見た。言葉にせずとも言いたいことが良く分かる水上は一言、自分で買っていないことを口にする。綺はまたひとつ瞬いて、しげしげとリップクリームを見た。女性向けの外装のそれがどういったものかなど綺にとって把握することは何よりも容易い。おおよそ男性向けとは言い難い謳い文句で売られていることも直ぐに分かる。実際に綺も同社の別製品を購入したことがあった。
水上の唇の具合を危惧し、最適を保たせなければと考える親しい女子がいたことに綺は純粋に驚いている。同級生だろうかと首を捻りかけ、同じ隊に女性がいると言っていたことを思い出した綺はひとつ頷く。まだ見ぬ姿の隊員に内心で拍手を送った。以前ハンドクリームを渡した際にも思ったが、自身に対して些か無頓着なきらいのある水上が綺は不服だ。自分に手を掛けることを厭わないからこそ、水上の雑さが綺の目に留まるに違いない。
「言うとくけど、くれたん男やぞ」
「ま?」
「そいつももろたらしわ」
巡り巡って水上の手元にやってきたリップクリームを見つめ、綺がしばし黙り込む。何やら考える旋毛を見下ろしながら、水上は僅かに首を捻った。まさかその男との関係について要らぬ方向へ舵を切った予想を立てているのではと最悪の想像を重ねた水上に、顔を上げた綺の大きな瞳が煌めいた。
「水上、使ってないのか、あげたリップは」
「彼女にやった」
「ほお」
「キスんとき自分のと匂い混ざるの嫌やって」
「可愛いじゃないか、理由が」
「そおか?」
休み時間にぼんやり外を眺める水上に穂刈が心外そうに近寄ったが、凹凸のない平坦な声色が発した単語に僅かばかり表情を崩す。気味の悪いものを見たかのような水上の鞄の中には、何の変哲もないリップクリームがひとつ眠っている。