その先もふたりで

鋭く刺す寒さは和らぎ、肌寒さまでに留まり始めた春の風が街を行き交う。日によって寒暖差はあるものの、十分に過ごしやすく気分の良い気候は、人だけではなく他の生き物にとっても同じことだった。鳥の囀りは増え、ちらほらと蝶の舞う姿も見せるその足元では色とりどりの花弁が揺れていた。蕾の目立った並木道も今ではすっかり開いた桜が身を寄せ合っている。満開とまではいかないが、それも時間の問題に違いない。ざあざあと震えて花弁の雨を降らす様は手放しに見物だと皆がもてはやした。ぼんやりと頭上を眺める水上は、入学式の頃合いにはとうに葉桜になっていそうだと、いつもの猫背を正すことなく息を吐く。小さなそれは春風に流されあっという間に消え、代わりに桜が視界を埋めるように降り注いだ。
いくつか髪に絡んでいても可笑しくはないそれを確認するには、水上の目は適していない。けれど、きっと笑いながら教えられるのだろう、と未だ現れない待ち人を思う。どこで何をしているのかなど水上には容易く、想像してひとりで笑った。
無事に進級ができたお祝いをしたい、と言い出した本人が遅れてどうするのか。呆れた溜め息を我慢せず大いに吐き出した水上の端末は、数十分前に通知を確認してから音沙汰もなく沈黙を貫いている。急ぎの用事ではないため、ゆったりと花見を楽しむのも悪くはないと思うくらいには遅刻など些細なものだ。化粧が気に入らないか靴が決まらないか、髪が上手く巻けない、それらどれかであろう待ち人を思い浮かべ、ここ一年で随分と順応したことを自覚し水上は後頭部を掻く。元より気が長く待つことに対して苦ではない性分をしていると分かっていたが、まさかここまてとは誰が予想できるだろう。本人ですら読めていない。感慨深い気持ちになる水上の指先に髪とは違う感触を覚え瞬いた。引き抜いたそれは薄桃色の体を捩り、水上の手の平に収まっている。水上がもう一度頭を掻く。花弁はもう出てこなかった。

地面を叩く軽快な音が近付き、水上は音の方へと目を向ける。よくあれで転ばないなと感心しつつ、身体を預けていたガードレールから離れて綺へと足を進めた。慣れていて転ぶ可能性が少ないとは言え絶対ではない。見た目のとおりどこか抜けていたり、うっかりした所も否めない分、水上がカバーできる部分はしてやらなければと常々思っているのだ。春の似合う暖かな色の髪を揺らし駆け寄る綺に半ば体当たりをされ蹈鞴を踏んだ水上は、けれど文句を言うことなく、綺の髪に絡んだ桜を摘まんだ。

「ちょい遅刻やで」
「マスカラ決まんなくて萎えてた」
「できたんか?」
「もち!」

見て、と目を閉じる綺の無防備さには流石の水上も舌を巻く。水上にだからこそと言われれば気分は良いが、それと同時に何とも言えない気持ちを抱くことになる。悪戯をされても文句は言えない、と僅かしかない距離にある綺の額に自分の額をぶつけた水上が意地悪そうに笑う。想像していなかっただろう衝撃に飛びあがった綺のヘーゼルの瞳に薄ら膜が張っているのを見とめ、これ以上馬鹿になられても困るのは水上の方だと気付く。綺の勉強の面倒を見るのは骨が折れることを、今までの経験から嫌と言うほど分かっていた。恨めしそうに見つめてくる綺の額を押さえる指先は、今日もきらきらとして華やいでいる。

「これでチャラな」
「う〜」

自分に非があると認められないほど我が儘ではない綺はそれ以上何も言うことなく水上の隣に並び、そうして視界に入った頭部に絡む薄桃色を見付けて手を伸ばした。待っている間に落ちてきたのだろう、とひとつ摘まみ、少し離れたところにあるもうひとつも摘まんだ。綺の行為の意図に気付いた水上が少し頭を下げる。取ってほしいという仕草に笑った綺の手が水上の髪を掻き混ぜた。遠慮のない大雑把な手付きは、指先が何度か頭皮を掠めるも、慣れたものだと水上は何ら気にすることはない。綺は乱れた髪もきっちり整えるところまで、水上は分かっているのだ。
髪を直した頃を見計らい、水上の手が綺へと差し出される。最初の頃は綺が勝手に繋いだり組んだりしていたそれも、今では当たり前のように水上からも与えられた。優越感と満足感に胸の内をいっぱいにしながら、綺は指先を絡める。綺とは違う、固く骨ばった手が優しく握り返してくる瞬間が綺は好きだったし、それは水上も同じことだった。何の疑いもなく振れる温度が心地好く水上の内側を満たしていく。抗えない、と水上は思った。
足取り軽く少し前を歩く綺の赤髪が風に揺れて、水上の視界を舞う。丁寧に巻かれた毛先が跳ねる様は機嫌の良い子犬のようだと思い、しかしどちらかと言えば本人は猫だが、と胸中でひっそり笑った水上が、繋いだままの手を引いた。ほんの微かな合図でも綺はぱっと水上へと顔を向ける。どうしたのと言いたげなヘーゼルが、春の陽光に照らされ薄ら輝いた。きっちり上向く睫毛の奥の、何の戸惑いも疑心もない真っ直ぐな視線が、眩く水上を射抜く。そこにあるのは信頼と親愛、それとほんの少しの期待。綺が何も言わず黙したままでいるのはきっと、決して大きくはない静かな水上の声を聞くためだ。ひとつ、瞬いた綺は水上に口元を緩める。緩やかに繋がれた指先が、続きを強請った。

「はしゃぐな、こけるで」
「上サマもね」
「巻き込む気かい」

春の陽気のように明るく暖かな声音につられ、水上の言葉の端からも自然と柔らかさが覗く。呆れたような、ともすれば機嫌を損ねていると捉えられそうな返しも、綺にとっては真綿で包まれる心地でしかない。その声を聞く度に、水上は綺のことが好きなのだと言われているようにも思えた。言葉の裏にある好意的な感情を再認識して、綺は心の内が嬉しさで満たされる感覚に浸る。まるで母の胎内で羊水に揺れて微睡むかのような、絶対的な安心感にも似た温かさだった。そうして、水上の好意に触れる毎に、好きという感情が泡のように浮かんでは弾けて降り積もっていく。ぱちぱちと弾けるサイダーのようなくすぐったさを綺は気に入っていた。敏い水上には筒抜けだろう感情は、気恥ずかしさを生んだが、今となっては便利だと綺は笑う。今まで感情を直接伝えてきた綺にとって言わずとも汲み取られることがどれだけ気分の良いことか、教えたのは水上だけだ。家族からではない、赤の他人から与えられるそれは大いに綺を甘やかしていることを、水上は気付いていないだろう。気付かなくとも良い、と綺は思った。何も知らなかった頃には、既に戻ることはできないのだ。

「分かっとる」

水上が静かに言う。対して、綺は何を分かっているのかとは訊ねなかった。ただ一言、分かっていると返した。それだけしかなかったが、それだけで十分だった。ふたりには、他人には読み解けない互いの心の内が分かっている。厳密に言えば全てを分かり合うことは不可能であるし、こと水上の回転の早すぎる脳内など綺が分かり得るはずもない。しかし、互いの互いに対して向けられた、たったひとつの感情については、余すことなく理解していた。

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