寒い日の定番
本部を出た水上は生身で感じる冷気に身を竦めた。去年よりも気温が低いように感じるが定かではない。換装体の良いところは暑さ寒さに左右されないところだ。叶うならば自室まで換装していたいと、頭の悪いことを考えながら水上は帰路に着く。体調不良で抜けた人員の穴埋めとして臨時で出勤したのは良いが、思いのほか数が多く片付けるまでに時間を要した。予期せぬ残業に、明日の学校が休みであることだけが救いだ。変な輩に絡まれても面倒だと人通りの多い道まで出た水上は、交差点の向こうに見慣れた髪色を見付けて足を止めた。時間を確認し、終電までいくらか余裕があることだけは褒めてやろうと、端末から目当ての番号を探して通話ボタンを押す。待つことなく繋がった先の声は変わらず明るく弾んでいた。電話の最中でも表情が変わることを知った水上は、道路の向こうで笑顔を浮かべる綺に小さく笑んだ。信号が変わり、人が流れて行く。綺は立ち止まったまま辺りを見回していた。
「こっちや」
「やっほ〜上さま!」
振り向いた綺の赤らんだ鼻先を軽く摘まんだ水上は、慣れた仕草で身体と腕の間に隙間を作る。控えめながらも明確なそれは綺のためだ。当たり前のように差し出されたそこへ腕を通した綺が並んだのを見とめた水上が駅へ足を向ける。自宅と方向が違うものの、綺をひとりで歩かせるわけにはいかない。多少時間が遅くとも水上であれば補導されたところで身分を明かせばそこまでだ。こういうときは組織に属していると便利だと思いながら、吹き付ける風の冷たさに身を竦めた。
寒い日は温かいものが恋しくなる。服や部屋、食事など思い付くだけの事柄を脳裏に浮かべ、さながらマッチ売りの少女となった水上は、足を止めた綺に引かれ顔を向けた。ひと際強い光を浴びて煌めくヘーゼルの瞳が見つめるものは、早く帰宅したい水上すら揺らがす魅力を持っていた。窺い見上げてきた綺を見下ろす。欲求が全面に押し出された華やかな双眸は水上の早急な帰宅という決意を容易く鈍らせる。それもそのはず、仕事終わりの水上も空腹だった。頷き応えるや否や店内に駆けて行く綺に引き摺られる形で入店した水上は。ケースの中で並ぶ中華まんを選ぶことしか考えられなくなっていた。純粋に肉も良いが、疲れた頭には糖分も捨てがたい。水上にしては珍しく悩む隣で綺はあっさりと決めて注文を済ませている。期間限定、二倍、と銘打たれたそれには勝てないよな、と水上は綺に苦笑した。
「チーズうっまぁ〜」
「よう伸びるなぁ」
「んー」
増量しているだけあり、中華まんと綺の間を繋ぐ糸は切れない。遠ざけながら手繰り寄せつつ格闘する綺が水上を見た。笑っている場合か、と不服そうな目線も、今の状況を踏まえると少し間抜けだ。仕方がないので、許せと思いつつ伸びたそこを指で摘まんで無理矢理切り離した水上が、外気に触れて固くなった切れ端を綺の口に放り込む。それから、自分のものへと向き直った。袋から顔を出したままにしていた水上の肉まんは少しだけ冷めていたが、許容範囲内だと齧りつき、またしても格闘を始めた綺を眺める。暖かさの滲みる重思いを噛み締める水上の前に出されたそれは、一口食べるかという気からの問いであり、水上のも一口欲しいという意志の表れでもあった。答えの代わりに綺の口元へと肉まんを持って行った水上も目の前に歯を立てる。トマトの味はほんのりとしか感じられず、ほとんどがチーズだ。好きな人にとってはさぞ喜ばしいものも、普通寄りである水上にとっては味が濃い印象が強く残った。不味いわけではないが、一口で満足な水上が唇を舐めた。
「あつ、うま」
「火傷しなや」
締まりのない顔で咀嚼する綺に笑い、ようやく駅までの歩みを再開する。ほんのりと満たされた胃は消化を始めたせいで本格的に空腹を主張した。戦闘をし続けていたため食事を抜いていた水上にとってこの買い食いは良からぬ方向へと転ぶ予感しかしない。鈴に食べられるものが自宅にあったかと思い返す水上の横で、同じく食べ終わった綺が腹部を擦った。女子というものは遅い時間に何かを食べることを忌避する性質だと思っていた水上は、特に気にせず食べたがる綺が少しだけ不思議だ。仕事柄そういったことには敏感ではないのだろうか、それでもこの体型を維持しているということは何かしら対策をとっていると思うことにする。
「仕事遅かったね〜」
「まあ、そういうもんやし。それ言うたらお前もやん」
「前の子が押しちゃってね〜」
駅の手前の信号に捕まり足を止める。行き交う車はまだ多く、周囲には光が溢れていた。仕事帰りの人、酔って気分の良い人たちの声と客引きの定番の台詞、さようならとまた明日がひっきりなしに水上の鼓膜を叩く。何ということはない、当たり前の光景が水上の目に眩しく映り、何とも言えない気持ちにさせた。水上がたった一時間と三十分前に行ってきた行為が、この場所に繋がっているのだと思うと酷くむず痒くなった。たいそれたことをしているわけではない。自分ができる存在だと言われたからやっている水上にとって当たり前の行為が誰かの今に昇華している事実が不思議で、むず痒くて、少し満足だった。
「上サマのお陰ってやつじゃん?」
「何や急に」
「上サマがここにいて戦ってるから、一緒に買い食いもできる」
「そりゃ、そやな」
「でしょ?ちょーすごいよ!」
偉い、と言いながら頭を撫でる綺に水上は閉口する。無意識に口から出ていたのではないかと焦るくらいに綺の言葉は水上の心の内を拾い上げていた。その癖、綺は水上の心境など何も知らずに笑う。水上の中に、こういうときに対する最適な返しは存在しない。考えを掬い上げられ伝えられる想定をしていないからに他ならず、僅かに眉根を寄せたまま、そうかとしか水上の口からは出なかった。変に熱を持つ頬を隠すようにマフラーを引き上げ、さも寒がっている様子を演出した水上に綺は口角を上げる。その仕草の真意を綺は分かっていた。照れていると思っても言わないのはほんの少しの良心と、滅多に見られない姿を堪能するためだ。
「褒めても何も出んぞ」
「ケチ」
「ケチちゃうわ」
「あ、じゃあ今度点心たべほいこ!」
「何がじゃあやねん」
乗り気ではない素振りの水上はそれでも一緒に行くし、日取りはと尋ねて来ることも知っている。水上の腕から綺が擦り抜け、改札を通った。大きく手を振りながら、次は肉まんにすると笑った綺に、食べ放題ではないのかと水上も呆れた顔で手を振った。