声を交わして知り得るもの
行動範囲の大部分が重なっていることを、あの一件がなければ知らないままだっただろう。特別広くはない市内であれば重なっていて可笑しいことはない。すれ違った他人が良く通う店の従業員ということも有り得る。意識をしていない、気付いていないだけで、今までも視界の隅にいた可能性があるのだと、友人たちとの会話の間に見付けた茜色に綺は瞬いた。
どう足掻いたとしても生活時間が違うため、二度と会うことはないと思っていた相手が、緩く背を丸めて端末を覗き込んでいる。温度の感じられない眼差しは、初めて見た際の獰猛さや鋭さを微塵も見せない淡々としたものだ。のっぺりとした眼とは異なりふわふわした髪を揺らし、ひとつ欠伸を漏らしている。綺は、銜えていたアイスの棒をゴミ箱に放り、カラオケに行く算段をしていた友人に断りを入れて件の人物に駆け寄った。
きっと気付くだろうと後をついて歩く綺だったが、水上は一向に気付くことなく目の前の画面に集中している。大した差のない綺は後ろから様子を窺うなど簡単だったが、角度の関係のせいか上手く見ることはできない。少し考えた後、おもむろに伸ばされた綺の手が、背後から水上の視界を覆った。
「だーれだ!」
「うおっ……お、まえ」
「また会えたじゃん」
「脅かすなや」
盛大に肩を跳ねさせた水上に気分を良くした綺は満面の笑みで正面へと回り、悪戯の成功した子供のように首を傾げて目を細める。必然的な上目遣いはさしもの水上も言葉を詰まらせるには十分で、呆れから来る感情のまま大きな溜め息をひとつ、綺へと放った。当たり前のように隣に並ぶことには何も言う気が起きないのか、普段は辛辣ともとれる言葉が吐かれる口は閉ざされたまま、代わりに怪訝そうな眼差しを送っている。その視線も綺には全くと言って良いほど届いておらず、当の本人は素知らぬ顔で乱れた髪を整えていた。
綺麗に手入れされている髪は、染めていることを感じさせない滑らかさで風に揺れる。緩く巻かれたそれを保つのに尽力する綺を水上は呆れた顔で見るだろうし、鮮やかに指先を彩る爪も生活がし難そうと思う。きらきらと光る目元、長く上向く睫毛も薄らと朱の乗せられた頬も全て、身近にいる同年代の女子とは違った。水上にとって、綺は一生関わらずに生きていく種類の人間と言っても過言ではない。それだけ、ふたりは異なっていた。ところがどうだ。綺にとって、水上は普段接する人たちと何ら変わりはない、変える必要が無いとすら思っている。水上がどうであれ、綺は自分が話したい人と話し、接したい人と接した。綺のような、などという枠に当て嵌めて交流する対象を無意識に選別することはなかった。故に、水上の僅かな困惑には気付くことがない。
「この辺よくいるの?」
「たまたまやけど」
「え〜悲しみ……よくいるならまた会えると思ったのに」
「会って何したいん?」
「なんか、話とか?」
目に見えて残念がる綺が肩を落とす姿を横目見て、下手にあれこれ考えるより直球で接しなければ気付かないと悟った水上は素直に言葉を口にする。水上の物言いは、口調も相俟って人より鋭くきついものと思われやすい。実際に怖いと言われたこともあるそれに対し、綺はあっけらかんと答える。そういうものとしか思っていない綺にとってさして気にするものや、特別な感情を抱くものではなかったのだ。水上とはそういうひとなのだと、思うことすら一瞬の内で、それよりも会話を続けられたことの嬉しさが勝った。
言葉を返す水上に気を良くした綺が笑う。瞼の上を彩る煌めきが、艶やかな赤い唇が、やけに水上の目に焼き付いて離れなかった。
「お前、意外と普通に喋るやん」
「だって通じないっしょ」
「おう、分からん」
「あたしは上サマと話したいから、通じないと意味ないし」
「さよか……てなんやその呼び方」
一歩も引かない綺に折れて歩調を緩めた水上に綺の機嫌は更に上昇する。彩られた唇が大きく弧を描き、深い色の瞳には喜色がありありと浮かんだ。全身で上機嫌を表す綺は隣の水上が何とも言えない表情を隠しもしていないことなど眼中になかった。親しくもない他者を近くに置いておくことをあまり良いとは言えない気質であろう水上が、綺が隣を歩き話すことを許したのだ。一歩すら詰めることのできなかった距離を保たせる見えない壁が一枚、消えたような感覚がする。それが微々たるものだとしても、綺にとって大きい。笑顔を崩さない綺に再度、水上の溜め息が降った。手の掛かる、仕方ない人物とでも思われていそうだが、綺は構わなかった。締まりなく笑んで見せれば、片眉を上げた水上が首を横に振った。
実際、綺の考える通り水上の中にある世話焼きの部分に、ほんの僅か触れていた。
「ほんで、何話すんや」
「え〜色々?」
「話題無いんか」
呆れる水上の歩調は綺に合わせられたままだった。そこが好感度の上がる部分だとは口にせず、心の内に秘めたまま綺はまた笑う。
明確な話題が無くとも些細なことから話を拾い上げることが綺は得意であるし、そういった内容の薄いものに対しても律儀に反応を返してしまうのが関西人の性とでも言うのか、水上だった。意外と相性は悪くない、という感想を抱くことは早計だと水上は分かっていたものの、実際に調子よく進むやり取りは引っ掛かりを生むことなく、するりと腑に落ちた。頭を使う必要も、先を読むこともない。その場で始まり終わるコミュニケーションは存外、気休めになるのかもしれない、と水上はひとりごちる。
「時間ある?」
「少しやったら」
「ま?なら新作飲むの付き合って」
「はぁ?」
「こっち〜」
折っているか切っているか、両方か。短いプリーツを揺らして振り返った綺が水上の手を掴んだ。骨ばった薄い手に触れた柔らかな感触に瞠目する間にも、華奢な指がゆったりと水上の指に絡む。綺麗に整えられて彩られた爪が皮膚を掠めたと水上が気付いた時には、綺は水上の手を引いて目的の場所へと足を向けていた。放っておけばスキップでもしそうな足取りはいつもなのか、問うことはせず心の内に留めた水上は揺れる髪を目で追う。新作は、などと画面を見ながら口にしていた綺が返事のない水上を振り返った。何だったかと水上が訊ねるより早く、視線を重ねた綺が微笑む。その、あまりにも毒気のない緩んだ微笑みに目を丸くした水上は、ひとつふたつと驚きを誤魔化すように瞬き口を噤む。
綺が、水上にとって害のない人物だと認識されるまで、そう時間はかからなかった。