王子の戯れ
その男の人となりを何も知らない存在からしてみれば、一瞬で勘違いをするだろう。柔和で穏やかで、慈愛の鱗片すら漂わせる笑顔を向けられ、その男の人となりを嫌というほど知っている水上は盛大に顔を顰めた。耳触りの良い部類に入る声音も穏やかに凪いだ海のように、一定の間隔でゆったりと寄せる波打ち際を彷彿とさせる。しかし、計算された口角の上がり具合とまるで笑んでいない優しげさを貼り付けた視線も重なり、水上にはどうしようもなく面倒な相手にしか成り得ない。一先ずその男に触れることを止め、選ばれる瞬間を今かと待ち続ける自動販売機に向き直る。程なくして無難にも珈琲を選んだ水上は、緩慢な動作で缶を拾い上げ、ようやく笑顔のままの人物に目をやった。ひとつ後ろへ下がる水上と入れ替わる形で商品を見つめる双眸には、何を飲むかという意志の他に、水上とどう遊ぶかといった感情が滲んでいる。寧ろ後者の方が大半を占めているに違いない。水上と、であり水上で、というものではないことだけが今の水上の救いだった。
缶に口をつけた水上は仕方なくその場に留まり後頭部を掻く。白い手袋に覆われた指が、紅茶を選んだ。
「やあ、みずかみんぐ。最近はどうだい」
「ぼちぼちでんな」
「儲かっているかを聞いた方が良かったかい?」
さして面白くもないところを、さも可笑しそうに言った王子の目は変わらず底が読みにくい。どれだけ試合を重ね、言葉を交えたところで真意のほどを測ることは難しいのだろうと、缶の中身を半分辺りまで飲み切った水上は思う。王子の指す最近はどう、という言葉の意味合いを複数用意した水上は、どれが最も王子の求める正解に近いのかを精査する。実際、どのような答えを提示しようと王子は何だって良いだろうが、本当に望む答えを引き摺りだすまで同じことを繰り返すに違いなかった。何度も手間を重ねたくはないと水上は思うも、ふたつからひとつにはならないまま、いくらかの沈黙が辺りを支配した。ふたつくらいであれば妥協も有りか、戦闘はいつも通り変化は無いはずだと水上が肩を竦めて王子へ言葉を返す。つい先日もその刃を生駒と交えたばかりで記憶に新しいだろうと、同意を得るように片眉を上げた水上に、王子が少しだけ考える仕草を見せた。それから薄く貼り付けていた笑顔を解き、僅かに表情を崩してなるほどと口にする。その声は淡々と、とは言い難いものだった。
蓋を開けることなく手中でペットボトルを転がす王子は誰にあてるでもなく数度頷き、それから水上を見る。
「いやね、最近のみずかみんぐは何だか幅がでたな、と」
「体重変わってへんけど」
「恋をすると演技に幅が出ると言うだろう?」
「あ、そっち」
「分かってるくせに」
「恋、ねぇ……」
残り僅かになった中身を飲み干しゴミ箱へと投げ入れた水上がしみじみと口にする。王子は暗に彼女とはどうだと聞きたいのだろう。生憎と水上にはその関係性に当てはまる人物はいない。いるのは、それに近しい存在だ。一から説明するにはほとほと面増で、一を言えば五の質問が飛ぶであろう王子が相手ではその思いも一入である。余計なことを言わないと決めた水上は、それこそ特に何も無いと肩を竦めるだけで応える。相槌を打つ王子は言葉とは裏腹に全くと言って納得していない様子で水上を見つめていた。男と見つめ合う趣味など有りはしない水上が苦言を呈せば、王子は奇遇だと同意して笑う。この後の予定はと言えば、悲しいかな何も入っておらず上手く逃げる理由を考えるしかない。このまま王子と言葉遊びをするつもりも、腹の内を探り合う気も水上には無い。あくまでもにこやかに体裁を保つ王子とは逆に水上の眉根は険しくなっていく。水上とて王子との会話が嫌いというわけではなく、頭を回してのやり取りは楽しいとさえ感じることも多い。話題が恋愛に関してではない、という前提条件を含めたらの話だが。
元より腹を割って話すことを回避する傾向のある水上が自身の内側の、特別柔らかい部分を開示したいと思うはずがない。一切触れてくれるなと締め出しても可笑しくはないだろうし、王子もそれ知っているはずだ。知っているからこそ、王子は水上が拒絶をしない程度の辺りを位置取っていることも、水上は気付いている。思い切り踏み込まず、決定打を与えず、水上の敷いた拒絶の線に触れるか否かで王子は笑んでいる。嫌な奴だと、水上は心の内で舌打ちをした。
「喧嘩はしないのかい? 君たち正反対なんだろう?」
「お前の情報網こわ」
「この前、偶然にも動画を見てね」
動画とは、脳内で言葉を反芻させた水上に心当たりが浮上する。以前、綺と巨大パフェを食べに行った際の動画を生駒に送った記憶があった。他の面々と見たいと言われれば、割引券を貰った手前、断れるはずがない。大方、弓場辺りから聞き生駒に見たいと強請ったのだろう。頭を抱えたくなる手を抑えて首に引っ掛けた水上は、苦々しそうに眉を顰めた。いけしゃあしゃあと偶然などと宣い、微塵もないくせにと内心悪態を吐く水上に王子が笑みを深める。水上の心の内を薄らと察しているのだろう、人当たりの良い微笑みのまま、王子はゆったりと首を捻った。それで、と質問の答えを求める王子を水上が睨めつける。ごく弱い眼光にわざとらしく肩を竦める王子は何も言わず、待つ姿勢を取り続けていた。何が王子の琴線に触れたのか水上には分からなかったが、水上と綺という組み合わせが王子の何らかの部分を刺激して止まないらしい。
「誤解しているようだけれど、人並に他人の恋愛に興味のある年頃だよ」
「面白がる、の間違いちゃう?」
「やだなぁ」
否定をしないところが王子らしい。ようやくペットボトルの蓋を開けた王子は笑みを崩さず口を付け、ひとつふたつと舐める程度でまた蓋を閉めた。水上に合わせるだけの為に購入したというのなら律儀な男である。遠回しに話をしたいと示しているのかもしれないが、水上には王子の真意を測ることはできない。ただ、強ち間違ってはいないのだろうとは思った。
水上は首に当てていたままの手で幾度か皮膚を引っ掻く。王子の質問の意図を、頭の片隅で考えてみたは良いが、答えは見つからない。はいかいいえだけで良いのであれば、話は早く前者だった。知り合って半年以上になるが水上は綺に対して怒りを抱いたことは無い。綺が水上に対して何を思い抱いているかを加味しないのであれば喧嘩に至ったことも未だになかった。綺の様子からしても負の感情を抱かれた事実は少ないのだろうと水上は思案する。水上には綺が怒っているところを想像できなかった。
そうか、と重ねて問う王子にただ頷くだけでは答えとして受け取られないことを分かっていて、水上はひとつ頷く。案の定、眉を顰めた王子が、意地悪だとからかった。
「俺はあいつにイラつかん。それだけや」
「みずかみんぐともあろう男が……」
「お前は俺を何やと思ってん?」
胡乱気な水上に、王子は黙って笑みを深めるだけで応える。解釈は好きにしろ、と言うようだった。人並に感情を持っていることを理解されていると思うべきか、端的に称して、頭の悪い存在に対してままならない感情を爆発させる性質を持つとされていると思うべきか、水上は苦虫を噛み潰したような顔を王子へと向けた。王子はと言えば、すっかり飲む気の無くなったペットボトルを下げ、面白そうな目をして笑みを貼り付けたまま水上の言葉を待っている。常であれば欲しい言葉を探しただろうが、この手の話を王子と論ずる気の無い水上はあからさまに面倒を顔に貼り付けぞんざいに言葉を落とした。
「まあ、なんや……それが恋愛っちゅーことなんやろ。知らんけど」
王子は事も無さげに小首を傾げ、肯定をひとつ返して満足気に笑んだ。王子と言う男は水上の口から恋愛という言葉を聞きたかった、ただそれだけだったのである。その為だけに、ここまで駄々を捏ねたのだから、水上はしばらく溜め息が止まらなかった。
水上の話を静かに聞いていた綺は、銜えたままのストローを噛んだ。時間をかけていた所為で氷が溶けて薄まった中身を啜り、それに対して気にした様子のない綺が首を傾げる。一気に半分ほど飲み干し、ストローから口を離した綺は何度も瞬いていた。水上の話を分かっているのか否か判別のしにくい顔をしている。綺の反応が予想できていた水上はだからこそかいつまみ、理解し難いであろう部分を省いたものの、つまりは、という綺の視線に参るしかなかった。明るいヘーゼルの双眸は答えを求めたまま水上を見つめ、上向きに盛られた睫毛を揺らしている。いくら頭の構造が違うとは言え、流石に理解してくれと水上は呆れたが、先の王子の話に上がった怒りや苛立ちはやはり湧かない。最初から期待をしていないからだろうか、腹の底が煮えるような強い感情は終ぞその姿を水上の内側から見せることはなかった。珈琲を口にして、水上は簡単で的確な言葉を探す。
「つまり、お前は俺にイラついたりせんの? て話」
「ないよ」
「即答かい」
「怒るの苦手〜」
「そういうもんちゃうくない?」
机に身を投げ出した綺の旋毛を押した水上がは不思議そうに呟く。苦手で片付けられるものであれば水上もそう言いたい。頬杖を突いたまま、疑問を携え綺の言葉を噛み砕いている梔子色が細められた。確かに綺が怒る場面を想像できないと水上は思ったが、人間であり心が有る限り切り離すことはできず、大なり小なり抱く感情だと認識している。苦手というのはどういった心境なのか、水上は純粋に疑問を抱え、消化するどころか飲み込めず喉元に蟠る感覚に眉を寄せた。直ぐに分かる理由を得られると思っていた水上は、緩やかに笑う綺を見下ろしながら唇を尖らせる。綺と同じ意識の人間が一定数存在すると分かっていたとして、水上には理解できない感覚だ。かと言って綺に明確な説明を求められるかと言えば否でしかない。今はまだそういうものだと思うしかないかと納得しかけた水上に、気が付いたような声を綺が上げた。何だと視線を落としたままの胡乱気な水上とは違い、締まりのない顔を向ける綺は笑っていた。
「あたしが怒られる方じゃね?」
「自覚あったんか」
「でも上サマは許してくれるし」
「怒っても変わらんやろ」
「わはは。諦められてる」
容器の中身を飲み干した綺があっけらかんと笑い、身体を起こして頬杖を突く。
綺は嬉しかった。水上は綺に対して受け身であろうとすることが多い。何かをする、という点においては圧倒的に綺から水上へ行われる。元来の交友関係からすると綺の言動は水上の不得手とするものであると、綺自身も良く知っていた。であるにも関わらず水上が綺に匙を投げることも、拒否を見せることも突っぱねることもない。ひとえに水上の綺に対する好意的な感情の表れだと綺は気付いていた。つまり、怒りよりも好意が先に来ている現状に水上の理解は到達していない。自覚が無いため、ただ諦めていると思っている節があると感じている綺は、それが少し可笑しくて、水上より先に立っている気がして嬉しかったのだ。
にんまりと含み笑う綺に言い顔ができない水上は、訝しむように片眉を上げ、咎める眼差しで綺を呼んだ。何、と返す綺の声は甘く軽い。ゆるゆるとした綺の頭のようだと思ったが、口にはせず珈琲と合わせて飲み込んだ水上は乱雑に後頭部を掻いた。
「あ、でもさでもさ、ケンカもしてみたくない?」
「無いなら無いでええやろ」
「ケンカして仲直りって、なんか仲良しっぽくない?」
ぱっと表情を明るくした綺に思わず半眼になる水上の口が歪む。喧嘩など面倒なこと、回避できるのであれば良いに越したことはない。つつがなく円滑に事が運ぶ方が気持ち的に楽だと水上は言葉を返しながら容器の淵を引っ掻いた。対して、反論どころか同意すら見せる綺に、とうとう何を考えているか読めずに顔を顰めた水上だったが、続いた言葉に何となくだが分かる気がして口を噤んだ。反する思考、対立する意見、それら全てをぶつけて尚、時間や空間を共有できる相手というのは、確かに深い箇所で繋がっている感覚がすると水上は答えに辿り着く。言い出した綺の思うところも同じなのだろう、とも。
水上の沈黙を肯定と捉えた綺は笑みを深め、そうして嬉しそうに口を開いた。
「あたしと上さま、そゆとこ似てんね」
「種類は違えど怒らんとこか」
「上サマは他の人にはちゃんと怒るっしょ」
「じゃあ、どこ?」
「喧嘩嫌だけどしてみたいと言いつつ、相手の考え分かっちゃうから結局対立しないとこ」
ああ、と水上は納得した。あまりにも納得してしまい返事が見付からないくらいだった。
「だから楽で、やだなってなんないわけ」
綺があっさり言ってのける言葉の中身がどれだけ凄い事で、合致する相手を見付けることが困難なことを水上は知っている。喧嘩をして仲直りをする相手を見付けることも難しいが、互いに理解していると言いきれる相手より多いことは確かだ。同意を求め首を傾げる綺に何と返すか思案し、しかしその言葉に違いはないと水上は頷きで応える。言いたい事はままあるが、口にしたところで綺が理解するかと言えば、否だと水上は分かっていた。
つまるところ、相性が良いという結論に至ることだろう。そこへ至るまでの過程を考え、噛み砕き飲み込んで欲しいところではあるものの、それこそ綺には期待できない。
こればかりは相性が良いとは言えない、と冷めかけた珈琲を啜りながら水上は思う。疑問の答えに辿り着くまでの道筋は水上も綺もまるで違った。その差異に対して憤りを覚えたりしないのかと、王子の言葉の意味することに気付いた水上が瞬く。
「そこを受け入れれるか、やんな」
「なぁに?」
「こっちの話」