白に染まる
その夜、三門市上空に強い寒気が流れ込んでいた。厚く鈍い色の雲が重々しく垂れ込み、冬の澄んだ空気に輝く星の一粒すら姿を見せることはない。ひとつ、ふたつと静かに淡々と落ち始めた白い破片は時を待たずして数を増し、凍えそうなコンクリートを覆っていく。しんしんと、絵本の世界のように町が白く塗られていった。音の無い、静かな夜のことだった。
朝起きてカーテンを開けた綺は、未だ雲が覆う空を見たが、緩やかに差し込む陽光だけではない眩しさに目を細めた。何事かと視線を落とし、直ぐに眩しさの正体を知る。昨夜のうちに降り積もった雪が僅かな光を倍にして反射していた。まだ柔らかなそれらを見やり、窓を開けて縁に積もった雪に指を入れる。吹き込む冷気など気にした様子もなく、白く冷たい塊を手で掬った綺は寝起きの顔を喜色に染めた。何をしようかと考えながら手にしていたものを宙へ放つ。それから、届く範囲にある雪で玉を作ろうとまたかき集めようとして、それよりも先に後ろから伸びてきた手に阻止される。肩を掴んだかと思えば引き寄せられ、綺は後ろへと転がった。その拍子に窓をきっちりと閉めた腕の持ち主が僅かに呻いた。転がったままの綺が、真横に伸びる腕にうっかり持ち込んだ雪を押し当てる。
「つべたっ」
「上サマ雪だよ〜」
「うちは雪の持ち込み禁止ですぅ。はよ投げぇや」
「は〜い」
少しだけ開けた窓から雪玉を放り投げた不満気な綺とは反対に、満足そうに頷いた水上が温もりを求めた再度布団の中へと潜った。出て来る気の全く見えない水上に悪戯を閃いた綺が手を忍ばせ水上の首筋に手を押し付ける。今の今まで雪に触れていた手が冷えていないはずがない。元より体温が高くならない綺の肌は察して知るべしだ。氷と称して間違いないそれでうなじを掴まれた水上が悲鳴に近い声を上げる。完全な不意打ちに、眠りの淵をさ迷っていた水上の思考は一気に浅瀬へと引き上げられた。早鐘を打つ心臓をそのままに、信じられないと振り返って見た綺は、水上の様子にひとつ瞬いてから無邪気に笑んだ。食事を強請る猫、玩具を持参して待つ犬、早く起きろと親に強請る幼い子、それらのどれでもが当て嵌まる。寝起きであると感じさせない明るさで水上を覗き込む綺に、水上は大きな溜め息を返すことしかできなかった。両手で顔を覆う水上の隣に座ったまま外を見る綺は水上が行かないと言うのであればひとりででも外出しようと考えていた。ここまで雪が積もる日はこの先もう無いかもしれない。この際、一階にある申し訳程度の庭ですら構わない。仰向けの水上の上に倒れ込んだ綺は、両手の隙間から見詰めてくる水上にそっと首を傾げた。
「寝たの何時やと思ってんねん」
「二時くらい?」
「三時半や」
蚊の鳴くようなか細い声を押し出した水上の心境たるや、午後まで寝かせろという他はない。荒船に勧められて渡された映画を連休中に消化してしまおうと半ば無謀な考えを実行した水上だったが、それ故に時間が割けないと綺に言ったところ、ならば一緒に観ると言い出して今に至る。同じ時間だけ画面を見続けていた筈の綺は水上と異なり、眠気など微塵も感じさせなかった。降り積もった雪に大きな瞳をこれでもかと輝かせるばかりだった。煌々とした眼に混ざる甘えに、水上は言葉を詰まらせる。そもそも、今まで綺の押しに対して打ち勝った回数が片手で収まるくらいしかない水上が折れることは分かりきっている。幾らか思案した後、深く長い息を吐いて条件付けた水上だったが、守られたことも片手ほどだと失念しているようだった。
庭先では他の住人に見られた後が面倒だと、近くの小さな公園を指定した水上の前を歩く綺の足取りは軽い。以前、夏に花火をしたところだが、どうやら覚えているらしい。迷いの無い歩調に水上は少し驚いた。
徐々に冷える身体を感じて、帰宅したらまずは風呂だと目的地に着く前から帰宅後の予定を立てている水上の手を綺が引いた。早く行こうという催促であると分かるが、足元が危ないという理由は通用するだろうか。車によって固く踏みしめられた雪道を見やり、水上は肩を竦めた。公園の雪はまだ沢山残っているはずだと綺を宥め、転ばぬように歩調を緩めさせる。ここで逆らっても得は無いと悟った綺は、素直に頷いた。
水上の予想通り、遊具も大して設置されていない、猫の額ほどの公園は誰も訪れていないらしく、真新しい雪が敷き詰められている。雲間から落ちる陽光で表面が僅かに溶けているようにも見えるが、今日の気温であればまた凍り付くだろう。走り出した綺をそのまま好きにさせ、ベンチの上の雪を落とした水上はゆったりと腰を据えた。ポケットの中に忍ばせた懐炉を握りしめ、マフラーに顔を埋めた。以前まで使用していたものでは到底耐えることはできなかったに違いと、新しいマフラーに感謝する水上の前で、贈り主である綺はせっせと雪玉を転がしている。借りている水上の手袋が大きく動かし難いようではあるものの、素手で扱われるよりは何倍も良い。外出前に、外せば即帰宅だと言い付けられたからか、水上の目の届かない場所でも外してはいないようだ。そこまでして雪遊びがしたい気持ちが分からない水上は目の前で忙しなく動き回る赤毛が揺れる様をぼんやりと見つめる。暇潰しに端末を弄っても良かったが、手袋の無い手ではあっという間に感覚を失うことだろう。上着のポケットの中で懐炉を弄ぶくらいしか、水上には無かった。俗にいう手持無沙汰というやつだ。
小さな公園の隅から転がし始めた雪玉は所々に土が混ざりまだらに染まった体を持つ、お世辞にも綺麗とは言い難い雪だるまとなりつつある。綺の膝ほどの大きさしかないそれに満足気に枝を刺すのに水上は苦笑した。遊具に積もった雪ならばまだ白いものが作れるだろうと、ベンチから腰を上げた水上が綺を呼ぶ。
「上サマは転がさないの?」
「素手やんけ。嫌やわ」
指示だけ飛ばす水上に向けられた綺の眼差しは、それで楽しいのかと問うているようだった。変わらずポケットに手を入れたままの水上は眉を寄せて拒否を示す。気の無い返事をした綺は少しだけ考える素振りを見せたが、直ぐにまた雪を転がし始めた。土のない綺麗な部分だけで作られた雪だるまは最初のものよりも小さい。しかしこれはこれで可愛い、と並べて写真を撮る綺の横顔は嬉しそうだ。対して、水上は動いていないこともあり、下がるばかりの体温と格闘しておりそれどころではない。そればかりか、視界をちらつき始めた白い破片に表情を苦いものにした。帰る提案をすべく綺を見た瞬間、顔面に当たった雪の塊に蹈鞴を踏んだ水上を綺が笑う。
「わは」
「お前……雪塗れにしたる」
数分後、静かな公園に綺の叫び声が響くことになるのだった。
「やばいぬれた」
「つかれた……」
上から下まで雪に濡れた綺を先に浴室へと押し込んだ水上が、同じく濡れて重い衣服を洗濯機へと放り込む。電気代を犠牲にして点けたままにしていた暖房の恩恵を受ける水上は湯を沸かしながら残りの映画の本数を浮かべた。遊び疲れた身体を引き摺って観られる量ではなく、夕方まで仮眠をとってから挑む方が良さそうだ。元よりインドア寄りである水上にとって生身で動く許容量をすっかり超えている。休息を入れなければ身も心も持たない。動いたことで多少温かくはなったとは言え、身体自体は冷えていることもあり、体力の消耗は激しかった。沸いた湯をカップに注ぎ、即席のコーヒーを拵えた水上の肌を撫でた湯気がほんのりと痛みを伴う。熱いを通り越して痛いとは、風呂がさぞ気持ちよく感じるに違いない。カップから伝わる熱に指をさらしながら息を吐いた水上は、もうひとつのカップにコーヒーと牛乳を注いだ。そのままでも問題はないらしいが、どちらかと言えばカフェオレを好むことを知っている水上は、綺の分にはいつも多めに牛乳を入れる。砂糖は完全に気分で変わるので水上が触れることはない。中身を全て飲み干したところで脱衣所から顔を出した綺が当たり前のようにカップに手を伸ばした。鮮やかな橙の器は、綺の為だけに置いてある。というのも、水上が気付いたときには持ち込まれ、さも最初からいたと言わんばかりに食器棚に並んでいた。言及を諦めている水上は好きにしてくれとだけ思っている。最低限の食器しか入っていない棚はカップがひとつ増えたくらいでどうともならないし、これは綺に対する水上の許しのひとつでもあるのだ。
入れ替わり脱衣所に入った水上はドライヤーを綺へ投げ渡して戸を閉める。乾かす時間が掛かるのでそのまま出てきた綺への無言の指示だった。出るまでに乾かしておくように、というそれにキッチンの前から居住部へと移動した綺が座椅子に腰を下ろす。水上が出るまでそのままにしておいたところで、小言を連ねながら乾かしてくれることも容易に想像できた綺は放置したまま端末を弄ることも考えたが、目に見えて疲れている水上にそこまでさせることは流石に忍びなかった。今回は普段とは逆に綺が水上の髪を乾かしても良いかもしれない、とひらめき口角を上げた綺は、鼻歌まじりにコンセントを刺した。
「ここ座って〜」
「え、なに?」
「はーやーく」
「あーなるほど。爪立てんのは勘弁な」
首にタオルを掛けた水上を迎えた綺がベッドに座った足元を示す。何かを企んでいる時の顔をしている、と瞬時に思った水上は身構えたまま後退る。警戒とは裏腹に明るい綺の声に何を考えているかも時間を掛けず察した水上が小さく息を吐いて綺の足元に座った。間髪入れずにドライヤーが当てられ、暖かさが水上を包む。温風の騒がしさに混ざり僅かに鼻歌が聞こえる。上機嫌で髪を掻き混ぜる綺に、何が楽しいのかと不思議に思いつつも与えられる暖かさに水上の意識はゆったりと揺らぐ。実際にされるまで分からない心地は、いざ体験すると眠気に抗うことが難しいと感じる。欠伸を零す水上を綺が覗き込んだ。
「またあそぼーね」
「らいねん、な」
「とおい〜」
駄々を捏ねる綺など意に介さずもうひとつ欠伸を零す水上は、明日の朝に同じことを繰り返すなど、知る由もなかった。