さよなら一年また来て新年
地方出身組には帰省の為に休暇が与えられる。夏と冬にそれぞれ一度のそれは、本来であれば親の庇護の元で暮らしている若者たちへの優しさだった。応じるか否かは本人の自由であり、夏は帰らないが冬は戻る、といった選択も本人の意志に準じている。休暇届の書類を見下ろしながら、水上は先日の連絡を思い返す。いつ帰省するのか、という親からのそれに、どうしたものかと考える水上は別に親と不仲ではない。ごく普通の、どこにでもあるような、何の変哲もない家庭だ。帰りたくないわけではないが、これといって帰りたいというわけでもなかった。地元でのんびりと年を越し、新年を迎えることも決して悪くはない。普段、離れている間に心配を掛けている家族に顔を見せることも大切だと分かってはいる。しかし、三門に残れば組織の面々と騒ぎ散らして過ごす選択もあると思うと、それもまた捨て難かった。中学の同級生たちとは疎遠になり、今では覚えられているかすら怪しいとなればそれは虚しさを生む。いくらか悩み、溜め息を吐いた水上がペンをとる。記入されたごく短い日付に、親は苦言を呈すだろうが水上の知ったことではない。こちらにはこちらの予定があると説明しておけば済むだろう。書類を仕舞い茶を啜ったところで枕元に放置していた端末が着信を告げ、水上は親からの催促かと碌に名前も見ず通話を押した。親からではない甘えた声は愚図る隠岐からでもないようで、それなら思い当たる節はひとりしかいなかった。期末考査で泣きついてきたことが記憶に新しい水上は、すわ補習かと片眉を吊り上げる。
「新年ていつ戻る〜?」
「は?……二日くらいやけど」
「ま?なら学校までの間、どっか空けといて」
「ええけど、何?」
「はつもーで!」
電話越しに綺が身を乗り出したことが分かったと同時に、微かに聞こえた水音に水上が思考を止める。水道の音などでも、カップに入れられた何かが揺れるものでもない、もっと大きなものが多量の水の中で動いた時のそれだ。良く回る水上の頭が叩き出した予想の答えをわざわざ聞く気にはなれず、取り敢えず聞かなかった方向で進めることを決めた水上は綺の言葉を繰り返した。電話をしてきた綺の状況を考えるのではなく、内容を強く意識する。水上は端末を持ち替え、手持無沙汰に手元の本を手繰り寄せた。
「お前、友達と行くやん」
「もち。でも上サマとも行きたい」
「俺が一回しか行かん主義やったらどないすんの」
「そーなの?」
「ちゃうけど」
綺が笑い、一際大きな水音が水上の耳に飛び込んでくる。次いで、端末を置いたのだろう軽く硬質的な音がして、綺の声が僅かに反響して聞こえた。手で持つことが億劫になったのか、スピーカーにされた事実に水上は頭を抱えずにはいられない。これでも水上は健全な男子高校生である。嫌が応でも想像してしまう前で踏み止まり、寸でのところで追い払う。今ほど自分が淡泊な部類寄りで感謝したことはなかった。水上の気も知らず再度尋ねる綺に、折れるしかないことも目に見えていた。返事をしようと口を開いた水上よりも先に、電話越しに綺を呼ぶ声がして口を噤んだ。優しげなそれは、きっと綺の祖母のものだろう。聞き慣れない下の名が酷く新鮮に思えた。
「まだかかる?」
「んーん。もう出る」
「そうかい」
水上と話すより幾分かゆったりとしている声だ。家族に対してはそうなのか、と水上は小さく笑った。水上に対して意味が通じないからと女友達へとは違う話し方を意識するのは、ここから来ているに違いない。湯舟から立ち上がったのだろう音に水上の意識が引き戻され、通話を切る気のない綺に水上が溜め息を零した。背後のベッドに凭れ掛かりながら、一応軽く咎めてみる。
「今、電話せんとあかんかった?」
「ヒマだったし」
「風呂で暇て何?」
「え〜もしかして上サマ、そーぞーした?」
「あほ」
やはりこのまま続ける気なのだと、浴室の扉を開ける音を耳にし、いよいよ水上は降参の気持ちしかなかった。もう好きにしてくれ、と手にしたばかりの本を机に放る。籠った声と音が鮮明になった。防水カバーを外したことと、外にでたからだろう。直ぐに聞こえる肌を叩く音は化粧水のはずだ。
「上サマのえっち〜」
「お前なぁ」
「でも、まあ上サマなら良いかな」
「センシティブすぎる冗談は返しに困るでやめてくれんか」
「わはは」
笑って誤魔化そうとするところは隠岐に似ているが、あちらの方が上手い。綺に上手くなられても困るが、と冷めきった茶に口を付け、変に乾いた構内を潤した水上が話題を戻す。このまま綺に付き合えば就寝まで持ち越されそうだった。明日、早朝から防衛任務のある水上は寝支度をしなければいけない時間に差し掛かっている。日を空けといて欲しいということは綺の方も予定は未だ決まっておらず、先に予定を入れてしまえば友人とも約束がしやすいだろうと、水上は一言、四日と口にした。三門に帰り荷物を整理し落ち着いた後で一番早い日を提示したが気に入らなかったのか。黙り込んだ綺に水上は眉を顰めた。ややあって返された嬉しそうな声に、それはただの杞憂に変わる。形の良い唇を緩ませ目尻を下げている姿が容易に想像できるほど、水上には覚えのある声だ。問題はないか再度問う水上の言葉に被せるようにして綺が大きく肯定する。
「四日ね!りょ!」
「ほな寝るわ。明日早いねん」
「おけ。おやすみ、上サマ」
「おう、おやすみ」
自分から仕向けたとは言え、あっさりとした最後に端末を枕元に投げた水上は溜め息と共に脱力する。綺の突拍子もない言動も、水上の予想の範疇を軽々と超えることも分かっていたつもりだったが、今回の状況は寝耳に水と言える。無防備すぎるのは女友達に対してだけにしろと、言い忘れたことだけが水上の心残りだ。最初に泊めて以降、甘えても良い線引きを測り終えた綺は元々無かった遠慮を、ほぼ無に近い距離まで失くしているようだった。加えて水上自身も完全に懐に入れている自覚があることも、助長させる要因に違いない。
「こんなん、付き合うとる距離やぞ……」
力無くベッドに倒れ伏した水上は、呆れた声音でもって零れた言葉に、はたと気付く。付き合っていない同士の距離ではない、のではなく付き合っている同士の距離である、と。一体いつからという水上の疑問に、良くできた頭は直ぐに答えを弾き出す。あの雨の日、水上が自分の領域へと綺を明確に招いた日だ。あの瞬間から意識が変わったのは、決して綺だけではない。知らずの内に水上も綺へ対する感情の向け方を変えていた。何故気付かなかったのか、などというのは愚問に近い。綺との距離が、関係が、あまりにも居心地好く、水上が自然と受け入れられるものだったからだ。雨が地に沁み山へ広がり行くように、こんこんと湧き出た水が湖を満たすように、ゆっくりと確実に水上を占めていった。付き合っている。その事実は簡単に水上の内側へと落ち着き、まるで最初から存在していると主張し、当たり前であると言っているように思う。そして水上は、この気付きと事実が自分だけではなく綺も同じであると、言われなくとも分かることに天を仰ぐのだった。
一足先に帰省した隊の面々を見送った水上も軽く荷造りを終える。日にちを指折り数えられる頃から何かと忙しい身であった水上は、ようやく一心地ついた気分だった。予想外の近界民の襲撃に防衛任務に駆り出され、片付けたかと思えば期末考査の結果の末大変なことになっていた先輩後輩をひっくるめて、水上を含めた成績優秀者で囲んだ勉強会に勤しみ大半を費やしていた。その間、綺とは文面のみの連絡しかとっていなかったが、綺自体も仕事で忙しく、三門から離れていたらしい。何やら金を貯めたいらしく、普段はあまり入れない分も承諾したと水上は聞いていた。私的なことをわざわざ聞く気にはなれない水上は用途を問うことはなかったが、そのうち綺の方から報告されるか使用する場面に立ち会うだろうという確信はあった。水上は、そうして楽しそうに話し行動する綺が好ましいと思っている。ただ聞くしかできない水上だが、綺が良いとし選ぶのであれば、応えてやりたかった。積んでいた本を読み切り時計に目を向ければ既に夕食の頃合いになっている。自炊の気は起きず、かといって買い置きを補充しておける日々ではなかったこともあり、外へ食べに行くしか選択肢は残されていない。上着とマフラーを手にしたところで通知を示す端末を拾い上げた。読書に集中している間にもいくつか来ていたらしいが、返事に急を要するものが一件もなく良かった。胸を撫で下ろした水上が画面に指を滑らせる。隊専用のそこは、各々が何をしているか、どこへ行っているのかが写真を共に送られていた。穏やかな時間を満喫できているようで何よりだ。小さく笑みを零し、返信をしようとして新たな通知に水上が瞬く。三門に帰ってきたという綺からのものだ。文字を打ちかけ思案し、どこか食べに行かないかとだけ送った。常に開いているか手にしているのだろう、既読がついたかと思えば間髪入れずに承諾が帰ってくる。駅にいるという綺を迎えに、水上は適当な靴を履いて家を出た。
「上サマかえんの明日だっけ?」
「せやで」
「大晦日電話していーい?」
「風呂以外やったらな」
「根に持ってんじゃん」
そう言って笑う綺は、水上の目に普段よりもどこか力無くか細い様子に映る。化粧が施されてなお隠し切れない疲労が滲んでいた。気付こうとせずとも気付いてしまう水上はいつもと変わらず振る舞う綺の元気の無さに顔を顰めた。水上たちと違い生身での仕事は肉体的にも精神的にも疲労が重なっていく。休息ではなく水上を優先したことに対しては確かに優越感にも似た感情を抱いたが、休みたいと我が儘を言えば良かったものを、とも思う。僅かな苛立ちを悟られぬよう、手元の料理に目を落とす水上に、その内心など知る由もない綺は食べる手を止めて上機嫌に笑った。刺さる視線に顔を上げる水上は、視界に捉えた綺に何かと問う。柔らかな声が水上の耳をくすぐった。
「安心したからよく寝れそ〜」
「なんやそれ」
「なんか、上サマ見たらほっとした」
「はぁ?」
それ以外何も言うことはないと料理に手を付ける綺とは反対に、水上はそれどころではない。言葉の真意を探るべく、何度も綺の声を脳裏で反芻させる。答えに辿り着くまでにそう時間は掛からなかった。複数ある答えのうち、一番正解率の高そうなものを導き出した時、水上は思わず頭を抱えそうになる。寸でのところで耐え、小さく息を吐く。綺のこと、先ほどの言葉に大した意味など有りはしないが、確実に無いとも言い切れない。辛うじて絞り出した声は、水上の想像よりも弱々しいものだった。
「お前、俺んこと好きすぎちゃうか」
「? 好きだけど?」
「さよかぁ」
あっさり肯定した小さな口が、ハンバーグの最後の欠片を咀嚼した。
実家の恩恵を余すことなく受け、水上は信じられないほどにのんびりとした爺間を過ごしていた。普段であれば自分自身で片付けなければいけないことも、何もかもする必要がない。駄目になるとは帰省して初日に実感した。これが常時暮らしていたのであれば別だとして、今こうして世話を焼くことは悪い気がしないと母親が言うので、水上は有り難く好意を受け取っているというわけだ。肩まで炬燵に入り込み、自室から持ってきた小説に目を落とす。読み切る前に三門へ行ったことは覚えていたが、意外と内容も覚えているものだった。一枚捲り、さして時間を掛けずまた捲る。難しくもない推理小説の犯人には既に目星がついていた。淡々と文字を追う梔子色が規則正しく動く横で、無造作に置かれていた端末が振動と共に通知を示す。視野の広い水上が気付かないはずもなく、物語の確信へと至る前に仕方がないと緩慢な動作で端末へと手を伸ばした。視界の隅で点滅を繰り返されれば嫌が応でも気が散る。眉を顰め開いた画面に映るのは手の掛かる甘えん防な後輩からの誘いだった。家でぬくぬくとし、友人と遊びまわっているだろうと思い込んでいた隠岐からの予想外の内容に瞬いた水上が短く返事を打つ。神社への誘いが意味することはひとつしかなく、聞かずとも年越しが目的だと分かった。確かに水上と隠岐は同郷であり、会えない距離にいるわけではないが、大阪とてそれなりに広い。待ち合わせることも大変だと互いの距離を浮かべた水上の端末が今一度震える。甘ったれの後輩が示した場所は丁度互いの実家の中間に位置する神社だ。こういうときだけ決断が早い。盛大に溜め息を吐いた水上が承諾の返事を送る。可愛らしい猫が返されたのを見とめ、本を開いた。
「せんぱーい」
「なんや、早いな」
「買い物してましたぁ」
「ええもんあったか?」
「へへへ」
にこにこと緩んだ笑みを浮かべ叩く赤いマフラーが、隠岐の言う良いものなのだろう。暖かそうではあるが大層派手だと水上は思った。派手な色に負けないこの男も大概か、人好きのする笑顔のまま隣に並んだ隠岐を水上が横目見る。目尻の下がる様相は贔屓目無しに整っていた。互いに初めて訪れる神社の隅で肩を並べて端末を弄り、次々に更新されていく画面に水上の口角は自然と上がる。隠岐と南沢のやりとりを眺めていたところで別の通知を捉え、一瞬だけ見えた名前に考えることなく指を滑らした。短い言葉と合わせて送られてきたのは数人の友人との自撮り写真だ。一番手前で端末を構えているらしい綺は楽しげに笑っている。暖かそうなコートは、以前水上と買い物に行った際に購入していたと記憶していた。次いで投げられた文章に少しばかり考えた水上が隠岐を呼ぶ。普段の刷り込みの賜物か、ふにゃりと笑って返事をした隠岐が疑うことも尋ねることもなく水上を向く。柔らかな表情が画面に映り込んだ瞬間を写真に収めた。イケメンと年越し。写真に次いで送った言葉に既読がつくのは早い。なんだなんだと端末を覗き込む隠岐をいなして返事を待つ水上は、綺が何を返すかが楽しみだった。悪い顔をしている水上を見とめ、表情を歪めた隠岐が水上の端末を引き寄せ覗き込む。上部に表示されている名前は苗字のみだが、やりとりから相手が女性であることはすぐに分かった。よく一緒にいるという存在を認知した隠岐は嬉しそうに唇を歪ませる。いつか紹介してくれるだろうか、楽しみにする隠岐を放ったままの水上は、綺からの返信に眉を顰めていた。素直に隠岐の容姿について返ってくるとは水上も思っていなかったが、斜め上の言葉に思わず血がだろうと呟く。
「そこはイケメンて返すとこやろ」
「先輩の写真、おれが撮りますよぅ」
「いらんいらん」
絡む隠岐をあしらいながら、他にないのかと打つ水上の首は僅かに赤らんでいた。
「あけおめことよろ〜」
「元旦に聞いたで」
「直接言ってない」
「はいはい、あけおめことよろ」
年を跨いだくらいでは何の変化も有りはしない。三が日を過ぎたとて参拝客が溢れ賑わう神社の隅で、水上と綺は何の面白みもない二度目の挨拶を交わす。溌溂とした声が水上の鼓膜をくすぐり、笑顔と同時に伸ばされた手が水上の服を掴んだ。手袋をしないのは艶やかに飾られた爪のせいか、冷え切った綺の手を上着のポケットに入れてやりながら、水上は細い指を覆うように握る。身体を寄せた綺が羽織るボア素材の上着から引き起こされるであろう静電気だけが、今の水上を苛む要因だった。
人の波を抜け、流れに乗れば社まで大した苦も無く辿り着く。人が多く賽銭までも時間を要するが、ひとりでは持て余す時間もふたりであれば如何様にも潰せる。同行者が綺ということもあり、水上から何かしなくとも綺の赤く彩られた小さな唇からとめどなく話題がまろび出た。新作の洋服に菓子、近所の猫、有名俳優の恋愛模様。期末考査に関しては避けているらしく、水上から訊ねた。盛大に顰められた表情に反して、告げられた点数は危惧するほど悪くはないと水上は綺の頭を撫でる。そもそもの難易度が低いため褒めるべきか悩むものの、机に向かうことを不得手とする綺を思えば手離しに褒めるべきであると、水上の脳が最適解を弾き出す。綺を思っての水上の行動は想像と違っていた綺は目を白黒させていたが、見下ろしてくる梔子色が優しいことに気付いた瞬間に破顔した。もっと褒めろと言わんばかりに、頭に乗った手に懐く綺に肩を竦める水上も満更ではないようで、ゆったりと表情を崩している。
「ご飯食べ行く?上サマチョイスね」
「うどんとかやぞ」
「いーよ」
早々に居住まいを正した水上が瞬いたのも束の間、真剣に手を合わせていたはずの綺はあっさりと切り替えて隣の水上を振り返る。上向いた睫毛が影を落とすヘーゼルが瞬き、真っ直ぐに水上の梔子色を捉えた。綺は、自分の望みが有る場合においてははっきりと主張し、あれやこれや提案するが、それ以外の事となると拘りなく相手に合わせることがほとんどだ。相手の決定に異を唱えることはなく、その場で自身の好ましいものを選ぶ。綺のそういった部分は水上にとってかなり好感度が高い所でもある。綺の気質が、傍にいて苦ではない要因のひとつに違いない。面倒だと思うことも、不服に感じることも勿論あるが、それは他の人間だったとしても同じであり、綺に限ったことではないため水上側が妥協すべきことでもある。もっとも、嫌悪すると言ったところで綺は水上の言い分をあっさり受け入れ怒りを顕わにすることはないため、やはり相性は良いのだろう。怒りを抱かない点に関しては水上だけに、と言えることではないので決定的な要因には欠けるが、ここでは良いように捉えておくに限る。
御神籤は一度で十分らしい綺が建物を素通りする後を追い鳥居を潜る水上を、不意に綺が振り返った。冬の冷えた空気を孕んだ細やかな風に、甘やかな赤髪が遊ぶ。丁寧に巻かれた毛先が跳ねる様を水上は少しだけ可愛いと思った。まるで機嫌良く振られる仔犬の尾を思わせるとは口が裂けても言えないが、その例は言い得て妙といったところだろう。ボア素材の上着が成す静電気でか、雑に絡んだ髪へと伸ばされた水上の指がそっと剥がしながら整えていく。ぱちぱちと僅かな刺激が水上の皮膚を滑る。その内、大きなものを貰いそうだと思いつつも、嬉しそうに腕を掴んでくる綺の拒み方を、水上は忘れてしまったようだった。寒さが身に沁みる今の時期に与えられる他者の体温というのはどうも手離しがたい。外気に晒された布地がふたりに挟まれ、ゆっくりと熱を帯びていくのを感じ、水上はますます離れ難いと思った。綺はと言えば最初から暖をとる目的があることも伴い、手を離す気など有りはしない。隙間を失くすように身を寄せた綺が水上を見る。ごく近い距離で瞬く眼同士がかち合い、間に燻る白い吐息が混ざり、揺れ、空気に流されていった。鼻が赤いな、と眼前の綺を見とめた水上が笑う。もっとも、水上自身も同じだろうと何となく分かるが、そっと棚の上へと押し上げておいた。
「お店、どこ?」
「駅前に馴染みのとこあんねん」
「たまごとじある?」
「あったな、確か」
石段を叩く、高く硬質的な音はゆっくりと規則正しく響いた。履き慣れているだろうそれに足をとられる心配は薄いが、水上は綺と並んで歩く場合には自らの歩調をほんの少しだけ落とす。平坦な道はまだしも、勾配が伴う際には顕著だ。それは綺への気遣いであると同時に、予想できたことを回避できなかった際の水上自身への後悔を断つ為だった。ひとつ、またひとつと階段を下る。こうした水上の気遣いが、綺にとっては嬉しく、そして好ましく感じていた。多くの事を考え、抱え、綺には到底できはしない先の先まで読み、様々な事象や感情が渦巻いているであろう水上がその瞬間だけは綺のことで頭をいっぱいにする。嬉しくない筈がなかったし、綺は確かな優越感が心の内を満たすのを感じていた。素直に物を言う綺が水上の好意と気遣いに対して気付いている上で何も言わず黙っているのは、指摘などしてしまえば次から望めなくなることを知っているからだ。何も知らないふりをして甘受することが、今の綺にとって大事なことだった。
「なんや、機嫌ええな」
「今年も上サマと遊べるからかな!」
「俺で、やのうて?」
「あは」
「否定せんのかーい」
まあ良い、とひとつ肩を竦めた水上が駅へと足を向ける。歩いたことで熱を取り戻しつつある今も、水上は腕の解き方を忘れたままであったし、綺も暖をとることを止めない。すっかり慣れた距離はいつからだったか、などと思い出せもしないことを考える水上は綺を見下ろす。風すらも通さず寄せた肩を並べ、既に食後のデザートについて意識が移っている綺の端末を覗き込んだ。電車を介さなければならない場所も、躊躇わない自身に水上は笑った。以前は酷く億劫に感じていた移動も、割かねばならないひとりの時間も、断る理由にはなり得なくなっている。綺が行きたいと言うのであれば、行くことも構わないと思えてくることが少しだけ不思議だったが、それだけ心を砕いている証拠であると水上は察していた。変わったのか、変えられたのか、どちらにせよ悪くはないと思えた。今年もこうして連れ回されるのだなとぼんやりと考えながら、水上は信号待ちをする綺の頭に頬を押し付けた。