案外気付かないものだ
追っている作家の新刊が発売されたことを思い出した水上は、何の予定も無いまま顔を出した作戦室で頭を掻いた。本部に足を踏み入れる前に気付きたかったなどとぼやけど意味は無い。既に訓練等で皆が出払った部屋を見渡し、水上は大きく息を吐く。待っていたところで用が有るわけでもなく、それは隊の面々も同じだろう。皆が戻る時間を計算した水上の賢い脳内では、ログの確認を早々に終えて本屋に寄り帰宅することが名案であると弾き出されていた。
目当ての新刊を購入し、帰るだけとなった水上の足が入口付近の通路で止まる。夕飯を考えていた脳裏に入り込んだのは軽やかな綺の声だった。華やいで見える棚は、凡そ男がうろつくには不釣り合いの雰囲気を醸し出している。立ち入るには流石の水上も僅かに躊躇するくらいだ。そもそも、水上は雑誌に興味が湧かない部類のため最初から立ち寄る選択肢は無い。たまに話題作りに少年誌の棚へと赴くくらいだった。
それらを踏まえて立ち止まったことも、通路を覗いた理由も、全ては水上の脳内を通り過ぎていった綺にある。普段から載るよりも僅かに多く取り上げられたと話していた雑誌の発売日は、先ほど水上が購入した小説よりも早い。ご丁寧に綺から発売日まで伝えられていた水上の賢過ぎる頭脳は雑誌の名前まで綺麗に覚えていた。本屋に行った際には確認しておくと言った手前、見ないわけにもいかず律儀に手に取った水上は手早く中に目を通していく。どれもこれもが水上とは縁遠いものであり、知識として頭に入れておけばいつか何かあった際に役に立つ可能性が微塵でもある、としか言えないものばかりだ。写る女性たちは誰もが同じに見えてくる、と水上は小さく目を細めた。その中で綺を見付け手を止める。雑誌に載る綺の第一印象はと言えば、文字通り世界が違う、というものであり。これは綺に出会ったから今に至るまで変わることの無い見解であった。華やかな化粧を施し、流行りの服を着てこちらへ笑いかけている。常であればおろしたままの髪は服装に合わせてまとめて整えられ、見慣れない姿は水上の目に酷く新鮮に映った。眩しかった。日頃から何となしに見ている笑顔が、何をせずとも与えられる表情が、特別なものに思えてならない。据わりの悪い感覚を腹の内に抱えた水上の眉が顰められ、雑誌を捲る手が止まる。以前、同僚といる姿を見ると変な感覚になると言っていた綺の気持ちが水上にも分かる気がした。水上にとっての同じ感覚は、カメラの向こうにいる綺に出くわした時だ。いつどこであろうと、どのような状況であろうと変わりなく、等しく綺であることを理解していたが、理屈だけでは片付けられないものはある。水上自身がその状況に陥るとは思いもしていなかったが。似合っているだとか、楽しそうだとか、何の引っ掛かりも無く飲み込んでやらねばならないのだろうな、と水上は雑誌を見下ろしながら自嘲する。
店内の音が遠い。どこかぼんやりとしては膜が張ったような感覚のまま紙を捲る水上の、感情が抜け落ちたかのような面持ちは傍から見ていて少々不気味な有り様だった。とは言え、微塵も意に介さない存在もいるのだ。
「この服まじかわっしょ〜。あたし買ったもん」
「うおっ、びびった」
「上サマはどれ好き?」
「何でおるんや」
音も気配もなく現れた綺にあっさりと背後を取られた水上の心臓は早鐘を打つ。長距離を走り切った後にも似た感覚に息を詰まらせながらも表情だけは平静を装い、水上が綺に目を向けた。驚きに気付く様子もなく水上の肩に顎を乗せたまま可笑しそうに笑う綺がようやく離れる。動きに合わせて揺れたあっさりとした香りに、香水を替えたことに気付く自分に水上は内心で渋い顔をした。以前の香りとは違う、癖のないそれは水上の好みの部類だが、綺にとってはそうではない。無意識に鼻を鳴らした水上に返される綺の声は不服そうだった。
「替えたの分かる?」
「前のよか軽いな」
「そう! 仕事のなんだけどパンチ足んないんだよねぇ」
「俺はこれくらいがええけど、確かにお前らしくはないわな」
その言葉に目を丸くした綺がくすぐったそうに笑う。照れ隠しにも見える笑い方を珍しく思いながら口元を緩める水上に気付き、不満気な眼差しを向ける綺が梔子色を覗き込んだ。店内の蛍光灯を浴び、明るい茶に煌めいているヘーゼルが真っ直ぐ水上を映す。緩やかに細められたことで光の入り具合が変化した双眸に影が差し、一転して緑がかる様を見下ろした水上は内心で感嘆の息を零した。瞳までも色が移り変わるとは、なんとも綺らしい、と。
本を棚に戻して踵を返す水上を追いながら後ろ手を組んだ綺が不思議そうに瞬いた。もう良いのかと言いたげな様子に水上は眉を寄せただけで答える。雑誌の中でもの言わぬ綺よりも、動いて喋る綺を優先させる方が正解なのだと、水上の賢い頭脳は答えを引き出していた。
談話の際の定番となったチェーン店で、注文の為に並んだ綺の後ろでぼんやりと店内を眺めていた水上の目が一点で止まる。話に花を咲かせている学生たちが広げる雑誌の表紙が先ほど水上が手にしていたものと同じだった。きゃらきゃらと明るい声が比較的静かな店内に響くが、我関せずと他の客は見向きもしなければ、店員も平素通り注文を受けている。その中で、全ての注文を綺に任せている水上の自由な意識は自然と件の学生たちに注がれた。雑誌の半ばほど、水上が手を止めた辺りで学生たちの手も止まる。本人が同じ空間にいると知ればどのような反応をするのだろうか。どこかのテレビ番組にでもありそうな展開に、人知れず笑いを零した水上は耳を傾けたまま、会計を終えた綺の後をついていく。変わらず賑やかな声を上げる学生たちの話題は新作についてであり、綺が着用している洋服を見て同じ物を買ったと楽しげに笑っていた。有名人の持ち物や洋服、食事などが売れる現象を間近で体験するなど、普通に生活している中では滅多にない。面白いものだと思い、水上はすぐさま思い直す。もうひとり身近にいるか、と某部隊を脳裏に浮かべて肩を竦めた。
その一瞬の間に学生たちの話題は切り替わり、展開の速さがまるで戦闘時のようだと感心する水上の眼前にカップが差し出される。他へと意識を割く水上に対して疑問を浮かべるヘーゼルの瞳を見やり、カップを受け取った水上は綺の浮かべるその色の意図が分からず首を捻った。
綺にとって誰が何を考えていたところで特別気にすることはないが、それが今現在隣にいる人物にも適用されるかと言われればその限りではない。表立って見ず知らずの他人に興味を示すことの少ない水上の意識が向かう先は気になる。好みの女子でもいたのかと綺の好奇心が鎌首を擡げるのも自然だろう。黙って見つめる綺の言葉の無い問い掛けを汲み取った水上が、何でもないと捻っていた首を横に振った。そうしたところで素直に納得する性質ではない綺の無言の圧がかけられる未来を呼んだ水上は、直ぐに視線だけで学生たちを示す。同じくして追った綺は大きな瞳で瞬きをひとつ零して首を傾げた。凝視せんとする綺の首根っこを掴み、水上は店の奥へと引いて席につく。何、と軽やかな綺の声は流石に学生たちに届くことは無い。
「お前の載っとる雑誌見とったんや、あいつら」
「ま?うれし〜」
「本人すぐ近くにおるって知ったらどないすんのかと思ってな」
「あたしならびびって叫ぶ」
それは水上とて同じだろう。叫びはしないが。カップに口をつけた水科mいが薄ら笑う。ストローを噛んだまま学生たちのいる方へと視線を投げる綺に気付き、意外と気にしているのかと目を丸くした水上が頬杖をつく。あっけらかんと流してしまうかに思えた綺は、水上の予想に反して意識を割いているようだった。静かに見つめる水上に視線を戻した綺がゆったりと口を開く。
「あたし黒買ったんだけど、あの子何色だと思う?」
「そこかい」
「色は重要じゃん」
色や形について話す綺の声を右から左に流し聞く水上はカップの中身を啜り、ぼんやりと相槌を打つ。こうなった綺は気の済むまで話させる選択が吉だった。艶やかな唇から淀みなく零れる言葉は水上にとっては呪文にしかならない。時折引っ掛かるものはと言えば基本的な単語ばかりだ。舌を噛みそうになる、と脳内で横文字を並べる水上の耳から綺の声が途切れる。気の済んだ綺は容器の中をストローでかき混ぜ満足気に息を吐いた。一気に半分ほど飲み干してテーブルに頬杖をついた。
「上サマは何色好き?」
「落ち着いた色」
「範囲ひっろ」
声を上げて笑った綺には派手な色が似合う。水上の想像の中の綺は常に鮮やかで華やかだ。仮に落ち着いた色が似合ったとして、どうにも違和感が勝るなと水上はカップの中身を飲み干した。空になったそれを合図に店を出る。学生たちはまだ話に花を咲かせていたが、終ぞ綺に気付くことはなかった。