頭が良いので風邪をひく

最初は喉の違和感だけだった。少し奥の辺りで何かが引っ掛かるような、飲み込み切れなかったものが残るような、けれど軽く咳をすれば消えて行く些細なものだ。乾燥する季節になったこともあり、湿度が足りていない程度にしか思っていなかった。その日から水上は加湿器なるものを導入した。自室の書籍を思うと率先して使用したいとはならないが、無いよりは有った方が良いだろうし、綺辺りは喜びそうだな、と水上が設置しながら思ったのは記憶に新しい。美容についてなど聞き齧るほどしか知識のない水上だが、乾燥が良くないことは分かる。大して手を付けていなかった親からの仕送りがようやく消費されたのは数日前の話しだ。そうして今、違和感はなくなることなく次いで鼻が詰まるようになった。ぐずぐずと鼻の奥を占領する不快な感覚に腹を立てながら、啜る頻度は増えていく。山となるティッシュにうんざりする水上の、喉の違和感もまだ続いている。咳き込む姿が顕著になるにつれ、周囲に要らぬ気を遣わせまいと水上はなるべく平静を装うことを選んだ。しかし、振る舞いを意識すれど不調を完全に隠すことは容易ではなく、普段と様子の違う水上に皆は口々に心配の言葉をかけ、体調の善し悪しを問うた。その度、大したことはないと繰り返していた水上は、よもや熱が出ているなど思いもしなかった。普段通り、食べて寝てさえすれば直ぐに何ともなくなるのだと、本当に思っていた。


「上サマさぁ、熱あんでしょ」
「あ?」

開口一番。顔を見るなり言い放った綺に水上は眉を寄せる。僅かな差しかない位置にある大きな眼が水上を射抜くように見た。何を、と返すよりも先に伸びてきた手の平が水上の額に触れ、綺が盛大に眉を寄せる。伝わる体温に唇を尖らせる綺など気にもせず、いくら冬が深まるとは言え冷たすぎる体温に綺の方が不調ではないかと水上は首を捻った。咄嗟に掴んだ手首も冷えている。水上の突然の行動に目を丸くする綺に、大丈夫かと問う水上へ胡乱気な視線だけが返された。

「お前、冷えすぎとちゃう?」
「上サマが熱いんだって。気付いてないの?」
「俺、が…?」

変であると気付かなかったのか、唇を尖らせたまま憤慨する綺を一度意識の横に置き、水上は一日を振り返る。喉と鼻の調子が良くないことは数日前から明らかだったが、確かに今日は朝から気が重い。霧や靄がかかり薄く広がるようにぼんやりとした感覚がする、とは何となくだが思っていたそういう日もあるだろうとしか考えていなかったのは、頭を使い過ぎた翌日などが近しい感覚であったこと、三門に来る以前にも経験したことがあるからだ、周囲に悟らせないようにしていたため一概には言えないが、何も言われなかった水上はよもや熱が出ているなど、全く意識の中になかった。直接言葉にされることで今更ながらに自覚した水上が思わず息を吐く。熱っぽい吐息が緩やかに消えていった。そこまでではないと線を引き、軽く見ていたことを訂正せざるを得ない。目の前で瞬く睫毛をぼんやりと眺め、小さく言葉を零すのだった。

「どーりで、なんやぬくいわけや」
「ま?」

信じられないと顔に大きく書いた綺は完全に引いている。盛大に歪められた容貌もさして崩れることもなく、そういうものとして最初から造られているようだと、らしくもない思考がまろび出たところで、思っているよりも重症であると、水上は気付いた。何が原因だったか考えたところで意味もないが、それでも心当たりを探るのは水上の性分だ。自覚をした瞬間に主張を始める熱で回転率の落ち込んだ思考を繰り返す水上に、綺がとうとう痺れを切らした。
「頭良いやつってみんなこう?ありえん」
吐き捨てるようなぞんざいな声を水上は聞いたことがなかった。常に明るく鈴の転がるような、耳に馴染むものばかりのため珍しい、と掴まれた手の乱雑さにも面白くなりながら、水上は前を歩く綺の背を見る。向かう先が水上の家の方向であることを察し、それから本来の目的を思い出した水上が声を掛けた。

「おまえ、かいもの……」
「はぁ??今度だしそんなん」

重ねて信じられないと言わんばかりに眉を吊り上げる綺が可笑しくて噴き出した水上が盛大に咳き込んだ。



水上の予想に反して綺の動きは適確だった。服を着替えさせられ布団に押し込まれた水上は、冷却シートを貼られながら思う。枕元に置かれたペットボトルにはストローが挿され、感心に瞬いた水上の梔子色が揺れる赤毛を探す。さして広くはない住まいでは時間を掛けずともその姿は見つかる。誰かと通話しているのだろう声が水上の耳にも薄ら届いた。相手が誰かというのは断続的に聞こえる会話の内容から察することが容易だ。一連の流れも通話先の指示によるものに違いない。こういった状況で綺が頼れるのは祖母しかいなかった。
「おこめ炊いてあった……うん、たまごある」
台所で真剣な面持ちになる綺が今からすることと言えば、薬を飲むために食事を作ることだろう。気がなかったため昼食を殆ど摂っていない水上にとって何かしら食べられるのなら嬉しいことはない。作る側が綺という、後にも先にも不安しか抱けない水上の心配とは裏腹に、祖母の分かり易く適切な指示により、危なっかしさはあるものの順調に事が運んでいるようだった。胸を撫で下ろし気が落ち着いた水上が最後に聞いたのは、少しだけ驚いた綺の声だ。
水上は実家にいた時からあまり体調を崩す子供ではなかった。打ち込んでいたものもあり、外で遊び怪我をするなどもなく、手の掛からない性質だったように、水上本人も思っている。誰かに看病をしてもらうことなど、それこそ片手で足りるに違いない。それでも懐かしく感じるのは、病からくる気の弱りなのだろうか、何かが額に触れる感触に擦り寄った水上がゆっくりと目を開けた。それほど長くも深くもない眠りに落ちていた水上の目に飛び込む蛍光灯に細められた視界に綺が入り込む。見下ろすヘーゼルの瞳は心配の色が滲み、あまり見ていたくないもののように水上の心の内に深く刺さり込んだ。柔く脆いそこに当たり前のように触れるのは、綺だけだというのを綺自身は知らない。知らなくとも良いが、と身体を起こす水上は、すかさず手を貸す綺に礼を言った。

「ちょっとでも食べれそ?」
「ばあちゃん直伝か」
「聞こえてた?」
「少しな」

ならば安心だろうと胸を張る綺が鍋を取りに行くのを見やり笑った。自分の料理ではないから食べられる、綺はそう言いたいのだと水上は分かっている。それでも綺の手料理には違いなく、まさかこのようなところで食べられるとは感慨深くなる、と枕元のペットボトルを手に取った水上の笑みが深くなった。
土鍋などという趣のあるものは水上の食器棚には置いていない。日頃使用する器に盛られた粥は柔らかそうな卵を纏い、主張しないほどのネギが添えてある。先日買った気がする、とスプーンを持ちながら冷蔵庫の中身を思い浮かべた水上は、戸惑うことなくひと掬い口に含んだ。味覚が鈍くなっていることもあり、ほのかに広がる風味は優しく物足りなさを感じるが、綺の祖母は食べ進めた後のことも考えているのかもしれない。濃いものを摂り続けていれば胃への負担も掛かり完食は難しくなるだろう。これが年の功、などと考えながら黙々と食べる水上を窺っていた綺の表情から強張りが解けていく。無事に食べられるものを作れた喜びか、小さく拳を作った。その拍子に見えた綺の指の中腹に巻かれた絆創膏を見とめた水上が手を止める。眠る前には無かったそれがいつできたかなど言われずとも理解した。水上が目を閉じる前に聞こえた声こそ、明確な答えだ。

「大事な商売道具やろ」

不意に投げられた言葉の意味を理解できていない綺は不思議そうに首を傾げるだけで、水上は小さく舌を打つ。ベッドのすぐ傍に膝をつく綺の手を取り、絆創膏をなぞる水上に、合点のいった綺がほんの少し眉を寄せ、瞬く間にいつもの笑顔を見せた。

「これくらい加工でなんとかなる。へーき」
「俺の心が平気ちゃうわ」
「わはは」
「何わろてんねん」

じと目で抗議の意を示す水上に、にんまりと笑んだ綺が身を寄せる。水上の手を握り返して肩口にこめかみを摺り寄せる綺に風邪が移るから離れろとも言えず、あやされたと閉口した水上が心の中で白旗を振った。撫でた指先に引っ掛かる感触に顔を顰める水上にまた綺が笑う。大人しく心配されない辺りが綺だな、と水上は思った。残りの粥を全て食べ切り、空の器を水上から受け取った綺の顔はこれでもかと華やいでいる。完食したことが余程嬉しかったのか、器の代わりに薬を手渡す際の声音は少しだけ弾むようなものだった。気にしているのは水上だけで、綺は傷のことなど全く眼中にない。白く滑らかな肌に走る一筋は、細くて柔らかくて、何にも染まっていないそこには酷く不釣り合いだと、水上は煮え切らない気持ちごと薬を飲み下す。深く切ってはいないだろうか、万が一にも跡が残りはしないだろうか、普段は考えもしないことばかりが頭を駆け回り気疲れしそうだ。大きく息を吐いた水上がベッドへと身を沈める。どうにも気が弱って余計なことまで浮かべてしまう、普段は優秀な頭に頭痛を感じた水上は額に手をやり、とっくにぬるく機能していないシートを剥がした。ぞんざいに放ったそれは寸でのところで机には乗らず足の部分に当たり、虚しくも床へと着地する。顔を顰めた何とも言えぬ面持ちの水上の横に戻ってきた綺が膝をついた。一連の行動を見ていただろうが何も言わず拾い上げたシートをゴミ箱に放り、新しいものを水上の額に貼る。離れる手を目で追い、水上は今度こそ目を閉じた。

「あたし、ちょっと帰って準備してくる」
「……泊まんの?」
「ひとり寂しくない?」

そう言って笑いながら髪を梳く手に水上は是も否も言えなかった。言えるはずがなかった。それはあまりにも勇気のいることだと綺は知らないのだ。心の内でひとり悶々として、それから、ふたりの間柄は、そういった本来ならば言えないことを言っても良いものであったことに水上が気付いた。口にすることを憚られる甘えが許されるのだと、緩やかな眠気を迎える頭で思う。
「まあ、それなりに」
けれどやはり恥ずかしさは拭えない。今の状況でなければ、到底口にすることは難しい、と早々に背を向けた水上は布団を肩まで引き上げて丸くなる。どこをどう見ても照れ隠しであると、普段の綺ならば面白がって突いたことも、ただ静かに微笑んで再度、水上の髪を梳くだけだった。


外の音も内の音も何もかもが遠く聞こえる。微かに届く冷蔵庫の駆動音すらも、常とは違い膜を隔てた向こうにあるかのようだった。カーテンの隙間から射す外の薄明りだけが頼りの視界で水上は数度瞬く。乾いた喉の不快感から軽く咳込みながら、枕元のペットボトルを探して手を伸ばした。綺が一度帰宅した時間が水上の最も新しい記憶だ。数時間は深い眠りについていたことは、外の気配で直ぐに知ることができる。空になったペットボトルを戻し、端末を手にした水上が確認した時刻はとうに日付を跨いでいた。未だ違和感を訴える喉とぼんやりする頭とを抱えながら、完全に覚醒した水上は綺を探す。普段、遠慮の欠片も無く布団に潜り込む姿は流石になかった。家族に止められたのかもしれない、というのは水上の中にある綺の家族のイメージだ。大切なひとり娘に風邪が移りでもすれば大変だろう。取り敢えず手洗いに行くべく足を降ろした先に触れた柔らかな感触に水上は驚いたままベッドの下を覗いた。万が一の来客用にと実家から送られてきた毛布に包まる綺がそこにいた。カーペットが敷いてあるとは言え、冷える床で小さく丸くなる姿に眩暈のする思いに水上が盛大に溜め息を吐く。ひとり分の寝具しか用意がないことを、綺が知らないはずがない。何かしら持参するのだろうと考えていた水上は、相手が綺だということに思考を止めた。底まで頭が回らないことを、水上はとうに知っているのだ。いくら空調が稼働していたところで肌寒さは拭えない。これを機に予備を揃えるかと、眼下で寝息を立てる赤毛を思う。身を屈め、髪に手を伸ばす。引っ掛かることなく指の間をすり抜けるそこからは慣れた匂いがして、水上が寝ている間に入浴を済ませたことを知った。毛布の裾から僅かにはみ出た指先に絆創膏は見当たらず、代わりに真新しい一筋の赤が走っている。痕が残るほどのものではないが、しばらく目立つには違いない。水上は再度、心の内を直接刺されるような感覚に奥歯を噛んだ。まるで縫い物をするかのような、等間隔の痛みに顔を顰める。同時に力が入った指先が綺の皮膚を掻いた。しまった、と肩を揺らした水上の最悪の予想を裏切らず、眠りの淵を行き来するヘーゼルの瞳が露わになる。長い睫毛を震わせ瞬きながら欠伸を零す姿は、優美な猫のようだと、暗さに慣れた視界で水上はその様子に目を落とした。

「体調は?」
「昼間よりまし、くらいやな」
「なら寝なよ」
「トイレやって」

綺を跨ぎ洗面所へ向かう水上の背後で綺が起き上がる気配がする。寝ていれば良いのは綺の方だと、水上は頭を掻いた。居室に戻った水上を、緩く密やかな綺の声が迎える。ベッドに背を預けながら端末を弄る片方の手には新しい冷却シートが準備されていた。空になったはずのペットボトルも新品に取り換えられている。大人しくベッドに戻った水上を疲労感が襲い、抗う間もなく再び倒れ込んだところを綺が覗き込んだ。役目を終えたシートを剥がし、新しい冷たさに肩を竦めた水上を綺が笑う。布団を肩まで引き上げ満足そうな顔を隠しもしないので、居た堪れない気持ちの水上の口から何度目か分からない溜め息が洩れた。幸せが逃げると言う綺に、楽しそうな理由は何だと水上が問う。虚を突かれた様子で目を丸くした綺は、いくらか目を泳がせた後、締まりのない顔で口を開いた。

「上サマのお世話できるの、ちょっと嬉しくて」
「普段と逆やしなぁ……俺は不思議な気分や」

綺は曖昧に笑って、下手でごめん、と言った。そういうつもりではないと伸ばした水上の手が綺の頬を撫でる。いつもより高い体温に、未だ熱は引いていないことを知る綺は控えめに擦り寄った後、足元に避けられていた毛布を手繰り寄せ肩から被った。寝付くまで起きているつもりか、手を布団の中に戻した水上は横に避けるべきか一瞬考えたが、招いた結果、綺に移ってもいけないとそのまま目を閉じる。看病をさせている時点で遅いと言われてしまえばそれまではあるものの、決定打を与える真似はしたくない。深く息を吐いた水上の手に、布団の裾から差し込まれた綺の手が絡んだ。不意に与えられた低い体温が心地好く、水上を眠りに誘う。受け入れるように開いた手の平に重ねられた柔らかなそれが、水上に確かな安心を与えた。絡んだ指が水上の肌を擦る。

「あたしがめっちゃちっちゃいとき、おかーさんがこうしれくれたことあんの」
「そか」
「うれしかったから、上サマもおすそわけ」

懐かしむ穏やかな声色には、母を恋しがる音は混ざっていなかった。傍にいない存在を思い出させたことにばつの悪い気が過ったが、気に掛ける水上に反して綺は何とも思っていないようだ。ベッドの淵に預けられた赤髪を横目見た水上は、繋いだ手に力を込める。綺が、小さく笑う。ころりと転がる鈴や、瓶の中で揺れるビー玉のようなそれだった。


次に水上が目を覚ました際に、空は明るく陽も高さを増していた。ペットボトルに口を付けながら見た時計の針は頂点近くを指している。カーテンに手を掛けたまま視線を落とし、少し考えて話した水上は、規則正しく肩を上下させる綺に、仕方がないと溜め息を吐いた。器用にもそのままの体勢で寝落ちている綺の脇に手を入れてベッドへと引き上げる。生身では酷く大変な行為も、回数を重ねれば慣れてくるものだった。綺と入れ替わりに床に足をつけた水上は固まった身体を伸ばし、すっかり汗を吸ったスウェットに手を掛ける。寝起きが良いとも悪いともとれない綺は、水上の部屋に泊まる際は比較的よく寝ている方だ。ある程度音を立てたところで起きる気配は無い。浴室に向かう水上が振り返った先では、布団の塊が規則正しく動いていた。
汗を流した水上は体調の悪さを感じることもなく、頭も限りなく冴えている。熱に浮かされ抱えていた座りの悪い気分も今はどこにも見当たらず、在るのは僅かな羞恥心だけだ。身体の中にある空気を全て吐ききらんばかりに溜め息を漏らす水上は、乾ききっていない髪を掻き混ぜその場に座り込む。世話を焼かれることも悪くはないと思ってしまったからよくないな、と小さく唸った。頭を冷やしきり居室を覗く水上の視界に入るのは変わることのない布団の塊だ。一瞥して台所に立つ水上が冷蔵庫を開けて驚いたのは、綺の祖母からだろうおかずの詰められた容器がこれでもかと隙間なく入れられ、今まで見たことのない状態になっていたことだった。これではとうとう、直接礼を言いに行く日も近いのではないか、またしても座り込んだ水上が乾いた笑みを漏らす。
尚、長時間看病をしたが綺に移ることは一切無く、変わらず元気なままでいるため、やはりそういうことなのだろうかと諺を思い浮かべた水上が納得するのはもう少し後の話だ。

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