透明な壁の向こう側

綺がその光景を目にしたのは偶然だった。近くに住む友人の元を訊ね、早い時間ではあるものの仕事があるからと一足先に抜けて、駅へと向かう途中のことだ。通りの向こう側に見慣れた髪色を見付けて足を止めた。丁度良く信号が赤へと変わり、行き交う車の奥に立っている人物が水上で間違いないことを知る。本部へ赴くところなのかとも思ったが、位置が合致せず綺は小さく首を傾げてみたが、最たる理由は思いつかない。全てを把握している間柄というわけでもないので当たり前のことだが、仮に立場が逆だったとして、水上はきっと綺がこの場にいる理由を言い当てるに違いないだろう。綺自身が分かり易い行動をとっているとも否めないが、そういうところが、綺が水上に狡いと唇を尖らせる要因でもあった。
実際に唇を尖らせている綺が水上を目で追う。ぼんやりとした梔子色が綺に気付く様子はまるで無く、じっと手元の画面に目を落としていた。察知する気配が全く感じられない水上に手を振ろうとし肩口まで上げ、ひとつ瞬く。大きく振るはずの手を所在無さげにうろつかせ、結局は髪を梳くことで誤魔化したのは水上がひとりではなかったからだ。同級生か、同僚か、複数人に囲まれている姿に間の抜けた声が漏れた。水上が自分以外といるところを見たことのない綺は驚きが隠せないでいる。声が零れたそのままに口を開け、見慣れない反応や対応、笑みを見せる水上を目で追った。新鮮な気持ちを抱くと同時に、何とも言葉にし難い心持ちになる。まるで味の無いものを噛んだ時の、感触しかないようなもの。かと思えば塩辛いような酸っぱいような、形容できないものを口にした時にも似た感覚だった。到底言語化できない感情に綺は静かに眉を寄せた。普段は明るく輝き爛々とした瞳を今は翳らせたまま、ひとつふたつと髪を指に巻き付けては解いてを繰り返し、それから目を逸らす。先ほどとは打って変わり、こちらに気付くなと綺は手中の端末を握り直した。
綺は、邪魔をしてはいけないと瞬時に悟った。一見、取っ付き難い印象を持たれる水上は、その実かなり優しくきちんと相手のことを考える人間だ。綺を見かければ、もしくは綺から声を掛ければ、直ぐにでも意識を割くだろう。そうして、どうかしたのかとその足を、言葉を、惜し気もなく綺へと向ける。常であれば喜ばしい行為も、何故か今は手放しに嬉しいとは思えない。
その疑問の答えは綺でも分かるほどに至極簡単なことだった。あちら側にいる水上という存在を失くしたくなかったからである。綺は、自分に対する水上に嘘は無いと分かっているが、同時に綺には見せない水上がいることも知っていた。それがあちら側の、組織の隊員である水上の存在だ。綺に与えられるものはあちら側の水上ではない。接する上で綺が絶対に見ない、見せられることのないものだ。そういうものだと認識していたし、それで良いと思っていたものを見たという事実に綺は少なからず動揺していた。見てはいけないものを見てしまったという感覚は綺を混乱させる。無論、綺が勝手に考えているだけであり、水上自身は何の感情も無く、ただ見せる機会がないだけ、といった可能性も否めない。しかし、口にしないという選択は時として強い肯定にもなる。だから、綺はそうだと思っていた。偶然とは言え、いけないものを知覚した綺の心境たるや、たとえ水上が聞けば鼻で笑われる程度の事柄であれ、綺にとって衝撃は決して小さいものではない。
せめて水上が気付いたとしても、綺は何も知らない体を装うべく端末を弄り水上が通り過ぎるのを待つ。信号同士が重なるため待ち時間が長いことを感謝したのはこれが初めてだと、綺は意味もなく通販サイトを流し見た。信号が青に変わる。視界の隅に入り込む他人の靴が次へ次へと流れていくらかして、ようやく綺は顔を上げた。
目の前のどこにも水上の姿はない。ほっと胸を撫で下ろした綺の足取りは軽い、とは言い難かったが、落ち着きは取り戻していた。それでもどこかふわふわした気持ちのまま信号を渡る。数年分は驚いたかもしれないと駅へ向かう綺は、水上がこちらに気付くことなく通り過ぎたことだけを祈っていた。



「何かあった?」
「何が?」
「いつもより大人しいやん」

新作を啜る綺を、静かな梔子色が捉える。変わり映えなくコーヒーを手にしたまま綺の返事を待つ水上を、恐る恐る見返した綺は閉口していた。温度も何も感じさせないその奥には心配の色が滲んでいることを気付かない綺ではない。それだけ、水上と視線を重ねてきた。分かりにくい表情の裏側も、何となくだが察せられる。心配して気に掛ける水上に対して無言や誤魔化しを貫けるほど綺の要領は良くなかった。加えて元より言いたい事は素直に言葉にし、自分の感情を言語化することの多い綺がやり過ごすことなど無理に等しい。かといって言い難いことに変わりはなく、何か言おうとしては止め、言葉を探して目を泳がせている。頼りなさげに下がった眉に、水上は目を丸くして普段目にすることのない綺の旋毛を見下ろした。無い頭を悩ませ唸る綺を覗き込み、目を合わせた水上の指が、逸らそうと動いた綺の顎を捕らえる。添えるだけの、強制力のまるでない指先に、縫い留められたかのように綺の動きが止まった。うろ、と左右に揺れるヘーゼルだけが往生際悪く逃れようとしている。どうした、と水上が今一度問い、穏やかな声が綺の耳を打つ。

「……わっかんないの」
「何が」
「上サマに対する感情?」
「もしかして俺、嫌われとるんか」
「なわけないじゃん!」

水上を捉える綺の眼にはありありと不思議を抱く色が見て取れた。顎に触れていた水上の手を取り指を絡めた綺が、否定の意を込めて握る力を強める。そうして、意味もなく振り回し、太ももの上に落とした。長い爪が水上の皮膚を引っ掻いている。右へ左へ、深い赤が肌を滑り、時折軽く突き立てられたが、水上は綺の好きにさせた。水上は、こういった緩やかな触れ合いは嫌いではないし、それは綺も同じなのだろうと思っている。相手に触れて、安心と安寧を得たい心理の表れだとも。

「何でだと思う?」
「知らんがな」
「う〜ん」
「……いつ、何が切っ掛けなん?」

唸る綺に佇まいを直した水上が問う。互いに正面を見て座っていた姿勢を、水上は少しだけ綺の方へと向けた。明確な答えを弾き出すことはできなくとも、答えに至るまでに導くことは可能だと、水上の思惑の通りに綺が少しずつ言葉を零していく。小さなそこからまろび出た内容に水上が瞠目し、それから破顔する。

「ボーダーの人といた上サマ見てから、なんかもやる」
「嫌やった?」
「ぜーんぜん!ただ、」
「ただ?」

指を止め、言葉を止め、綺は視線を前に向けた。車の行き交う道路の向こう側、あの日の水上を見る。知らない制服の学生たちが通り過ぎるのを、綺がひとつ瞬いて眺めていた。恐ろしいほどに静かで美しいと、水上は思う。作り物めいた、計算されて創造されたような横顔は全く別の生き物を見ているようだと、ごちた。同じ人間の枠組みでと不公平さを感じる水上に気付くことのない綺の目は、まだあの日を見ていた。

「あたしは知らないままでいたかった」
「何でや」
「あたし以外といる上サマを見て、比べちゃうから」
「ああ、そういう」

綺が何を言いたいかを、水上は分かってしまった。だからこそ今の相槌は下手を打った気がして口を噤んだが、咄嗟に見た綺は未だに前を見据えている。綺の爪が小さく、水上の皮膚を掻いた。滅多にない綺の感情の吐露を促すように水上が綺の指を擦る。

「そんなの、意味ないじゃんね。でも、気になるようになっちゃった」

ようやく水上を見た綺は眉を下げ、困ったように笑っていた。西日を浴びて色濃く染まった髪が揺れ、朱に彩られたその笑みに、水上の心も揺れた。普段は見ることのない表情を自分がさせているのだと自覚した水上は腹の奥底から込み上げる優越感を抑えながら、努めて静かに息を吐く。綺は気付いていないようだが、それは水上も同じことだと思った。
綺も水上も、お互いと居る際のそれぞれしか知らない。第三者に対する互いは存在せず、常にお互いしかいなかった。ふたりだけで完結した世界には憂うものは何も無ければ、有るのは絶対的な安堵だ。自分だけの相手、相手だけの自分。他には何もないし、いらない。外側の世界を知らないままでいることを許されていた中で現れた第三者を前にした外側は、抱く必要のなかった感情を生む。互い以外との時間の中にいる相手はそちら側の方が良いのではないかという、綺の言う通り考えるだけ無意味な疑問だ。良いも悪いもそれぞれにあることで、比べる必要など皆無であると頭では理解したとして、心の内には蟠る。一度生まれ抱いた選択肢は、なかなかどうして簡単には消えてなくならない。それどころか、この先ことある毎に付きまとうのだろう。

「それは、俺もやけど」

顔色ひとつ変えず何でもないことのように口にした水上に、綺は面食らって目を丸くした。困ったような、呆れたような、仕方がないといった水上の笑みは先ほどの綺と全く同じだ。嘘だ、と呟く綺に水上が異を唱える。気にならない線はとうに超えていた。それくらいふたりの距離は近いのだと、綺だけでなく水上も思っていた。

「気にすんなっちゅーのは無理やろうけど、ほれ、俺も同じやと思ったらちったぁ楽にならん?」
「……なる、かも」

小さく唇を尖らせた綺の手を、慰めるように水上の指が撫でる。いくらかそうしている内に綺は胸の内側に巣食っていた何とも言えない感覚が薄れていく気がして肩の力を抜いた。ざらついて凹凸の目立つそれがゆっくりと丸く滑らかに、水上の手によって整えられていく。柔らかく温かい心地にすっかり憂いを失くした綺の頭が水上の肩へと預けられ、甘えるように擦り寄った。片方は未だ綺の手を握り、もう片方は半分ほど残ったコーヒーの容器で塞がっている水上は思案し、視界の隅に見えた旋毛を目掛けて頬を寄せる。

「こんだけ甘やかすの、お前くらいやぞ」
「もっと〜」
「欲張りか」

呆れる水上に声を上げて綺が笑う。切り捨てるわけでも昇華させるわけでもない、ただ同じものを抱え共有することを選んだという事実が綺の心を軽くする。いらないと、失くそうとしていたものすら手の内に収めて大事にしようとする水上に、この人は本当に自分のことが好きなのだと綺は嬉しくなって足をばたつかせた。

「も〜上サマ好きじゃんそんなの〜」
「おー、知っとる」
「あたしも知ってる!」
「何を?」
「なんだと思う?」

にんまりと見上げてくる綺に片眉を上げて怪訝さを隠しもしない水上は、生意気だと綺にひとつ頭突きを食らわせた。

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