これが噂に聞く、

肌寒さの増した三門市はすっかり秋の装いに変わっていた。少し前までは青々と茂っていた街路樹も赤や黄に染まり、ものによっては既に茶の葉を足元に散らしている。徐々に量を重ねていくであろうそれらを踏んだ綺は、靴の下で乾いた音を立てる葉に一瞥をくれ横断歩道を渡った。賑やかに人々で溢れていたように思う大通りも心なしかひっそりとした印象を抱いた綺が左右へ視線を投げる。居心地の良いとは言えない、何とも据わりの悪い感覚は綺の胸の内を無遠慮に撫で回した。空腹の胃を掻き混ぜられることにも似た言葉にし難い感情をひとりで抱えていることは、綺にとって苦痛である。内臓を掴まれた気分のまま大通りを歩く綺には、普段であれば宝箱にも等しい新作の旗を掲げた店舗も今はどこか色褪せて見えた。暖かくなると言った天気予報士とは裏腹に陽は雲の向こうに隠れることが多く風も冷ややかな中、少しばかり薄着で出てきた綺は重ねて気落ちするしかない。仕方がないのでどこかで温かいものを飲むと決めた背に、ほんの少しの驚きを孕んだ声が投げられた。顔を上げ振り向いた目に飛び込んできた橙に、綺の口角が自然と上がる。駆け寄る綺の恰好にほんの少し目を見張った水上は呆れた様子だったが、綺は気付かなかった。

「やほ〜! 休み、じゃなさそう?」
「本部帰りや。てかお前寒くないんか」
「ちょいさむ〜」

肯定を返す綺を予想していたのか、水上は仕方なさそうに片眉を上げ、脱いだ上着を綺に掛けた。水上が寒くなるのではと顔を見た綺の心配に反して、厚手の服を着用していた水上はさして気にした様子もない。綺の記憶が正しければ水上はあまり寒さに強い方ではなかったはずだが、本人が良いと言うのなら綺は甘えるだけだった。
へらり、と表情を崩す綺へ満足気な目を向ける水上に気付いた綺は温かい気分になる。先ほどまで抱えていた薄ら寒く心臓を締め付けるような感覚が遠のいていく。落ち着かない、そわそわとしたものではなく、普段の明るさが戻ったようだった。胸に手を当て何かを確かめている綺を不思議そうに見ていた水上が声を掛けようとする頃には、常と変わりない様子に戻っていた綺が見慣れた笑顔を水上へと向ける。
このまま歩きながら問へば良いと水上が僅かに腕を差し出す。身体との間にできた空間に腕を差し込んだ綺の目的地は馴染みのチェーン店だろうと目星を付ける水上は、大人しくついて来る綺に、正解かとひとり笑う。ほんの少し下にあるヘーゼルの双眸は普段と大差はなく、僅かな陽の光を取り込み煌めいているが、夏の時分に見た強く鮮やかなものではなくなっているように水上の目には映った。細かな輝きはどこか落ち着いた印象を与えたが、その持ち主は良くも悪くも明るく強い雰囲気のため、一瞬の静寂の訪れを運良く目撃しなければ出会うことのない光だ。綺の瞳に季節の移ろいを感じる水上は、最近になってその一瞬の訪れを目の当たりにする機会が増えたように思う。まるで仮面の如く様々な表情を使い分ける綺の素顔の一部を得ているようで、水上は少しだけ優越感に満たされる感覚に浸った。どの場面においても綺は変わらず素直に綺という存在ではあるものの、その顔は相手や場によって大きく変化を伴う。ひとりでいる際の綺を垣間見ると言うのは、心の距離の近さを感じられ、水上にとって喜ばしいものだった。

「元気なさそやったけど、なんかあったんか?」
「なんもないよ?」
「そぉか」

至極不思議そうな目を向ける綺に、先ほど感じた何かは気のせいかと首を捻った水上はカップを傾ける。珍しく温かいものを注文した綺の容器には期待を裏切らず、これでもかとクリームが盛られていた。水上であれば胸焼けをするに違いない量の柔らかな塊が胃に収められていく様子は、それだけで水上の胸の内側を重くする。飲むのではなく食べると称した方が適切な綺は眉を顰める水上に構うことなく容器を傾けていた。
綺麗に上向いた睫毛を瞬かせる面持ちだけ見れば普段と何ら変わりのない綺だったが、三出頭は自分の違和感に間違いはないと確信していた。重大なことではなくとも懸念するものがあるのならば取り除いておきたかった。綺に何か、例えば怪我や病気があれば勿論、悲しむことや怖がり忌避するものが有り平常で居られないとすれば、それは水上にとっても心中穏やかではいられなくなる。軽く考えるよりもずっと大事にされていることを綺が気付いていないとはあまり考えられない。水上の内側を感じ取っているはずだと、綺に向けた眼差しを強めた水上に、呑気に中身を啜っていた綺が目を丸くした。不思議そうにしていたヘーゼルがゆったりと細められ、分かっている返事の代わりに頷いた綺は、それでも何でもないと重ねて言う。納得のいかない水上は何か言いたそうに口を開いたが、偽りのない綺の真っ直ぐな眼差しにそのまま閉じるしかなかった。綺麗に切り揃えられ爪が後頭部を乱雑に掻き回した水上が息を吐く。恨めしそうな梔子色でもって綺を捉える水上など意に介さず、いたって自由に唇についたクリームを舐め取る綺の睫毛が震える。可笑しそうに形どられた双眸を唇に、水上は薄いそこを引き結んだ。珍しく引き下がらない様子を珍しく思った綺は、上手く言葉にできないからと言い淀んでいた心の内を、吐き出せば何か分かる可能性に賭けて口を開いた。

「なんか、上サマくるまでちょっと寂しかった?みたいな?」
「寂しい?」
「や、わかんない。なんかそわそわーってなって、ぐちゃーってして、きゅーってした感じ」
「そら分からんなぁ」
「でしょ。ま、もうないけど」

何も無いと言う割には出てくる言葉に半眼になった水上は、確かにこれは何も無いと言うだろうと納得してしまった。綺の言うそれは誰かと過ごすことや好きなことに集中していれば比較的抱くことのない感情だった。常日頃から親しい人が傍にいた綺は、ふとした瞬間の静けさが秋特有の空気感と重なり感傷的になったのだろうと水上は推測する。薄ら寒く心の隙間に吹き込む風が柔らかな内側をくすぐる感覚は水上とて抱かないわけではない。綺の抽象的な言葉選びでは確実なことは言えない、と思う水上の考えは正しかった。

「お前もセンチメンタルになるんやな」
「これがかの有名なセンチメンタル」
「縁遠そうやんな」

水上が口にした瞬間、鮮やかな紫が水上の眉間に突き刺さる。つんと澄ました顔で抗議の意を唱える綺が怒っていないことを知る水上は、甘んじて受けながら目を閉じた。

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