海は遅れてやってくる

往生際の悪い蝉もすっかり成りを潜め、高く照る太陽もゆったりと低くなっていた。青々と茂る葉も所々色を変えて足元を彩る様が増えた。目に刺さる朱の光は猛々しさを緩めたが、代わりに哀愁を漂わせ町を包む。肌を撫でる風に冷ややかさを感じ始めた頃、雑誌を捲っていた綺がとある特集に目を惹かれて思い付く。思い立ったが吉日を地で行く綺は、戸惑うことなく目当ての人物に連絡を入れた。綺とは違い端末を手にしている時間が短いこともあり返事が届いたのは日付の変わるあたりだったが、答えは是であった。


季節外れの砂浜はサーファーや綺たちのような殊勝な人間の姿しかない。閑散とした様子は夏の内にニュース番組等で流れた芋洗い状態とは真逆だ。波の打ち寄せる音と海鳥の寂しげな鳴き声だけがふたりの耳に届く。集合当初から疑問を浮かべ続けている水上を引き連れた綺は、楽しそうに砂を蹴った。行きしなに買った安物のサンダルに履き替え、水上を振り返った綺の瞳は、言葉が無くとも何を目的としているかよく分かる。次の一手が容易に想像できた水上も同じく靴を替えてズボンの裾を捲った。無防備な素足とサンダルの隙間に入り込む砂は、昼間の太陽のお陰か未だほんのりと温かい。砂粒に擦られるくすぐったさを感じながら、水上は手を引かれるまま綺の背を追った。

「なんで、って聞いたほうがええ?」
「分かってっしょ?」
「まあな。雑誌でも見たんやろ」
「せぇかーい」

想像よりも冷えた波が足首に当たり抜ける。昼の空気はまだ温かさが残るとは言え、水温は明確に季節の変化を如実に示す。勢いを緩めることなく進む綺のお陰で水上の脹脛までもが海に浸かっていた。太ももまで素肌の綺とは違い、水上は膝下まで無理矢理捲り上げているだけだ。これ以上は何としてでも拒否をしなければならない。既に、脚に当たり跳ねた水滴が裾を濡らしていた。
手を引き、ここまでだと目で訴える水上に綺が瞬く。その目は疑問の色が浮かんでいたが、足元を示した水上の言わんとすることに合点がいった様子でひとつ頷いた。やけに素直なところが水上には引っ掛かるも、笑顔を崩さない綺に余計なことを言って藪蛇にはなりなくない。話題を変えるべく波を蹴り、跳ねた飛沫が太陽を反射するのを見た。決して綺麗とは言い難い水質は、それでもまだ青く揺らめいている。海水浴客がいないこともあり、目立ったゴミも無く景観は整っていた。離れた場所で波に乗るサーファーがボードから落ちた音がする。釣られて見た綺は可笑しそうに笑っていた。それから、水上を真似るように水面を蹴り上げる。何が楽しいのか全く分からない水上とは違い、箸が転がっても楽しい時期である綺の表情はひたすらに明るい。

「この後はね〜商店街の方行く」
「海がシメなんちゃうんかい」

夕方も過ぎればその店も掛かる暖簾を降ろすだろう。繁忙期を終えた今、長々と開けていたところで客は来ない。先に見て回ってから来るべきだったのではと片眉を上げた水上に対し、本命はこちらだと綺が答える。一度だけ水上を見たヘーゼルは余韻もなく水平線を映し、密度の高い睫毛を海風に震わせる綺の意識は、水上の手の届かない場所にあるようだった。傾き始めた朱の光が、硝子玉を思わせる双眸に取り込まれ、爆ぜるように煌めく。ぱちぱち、ちかちか。無数の輝きが眩しく、水上は思わずといった様子で目を細めたが、何故だか逸らすことはできなかった。
ただ光を集め遠くを映すだけだったヘーゼルが、その奥に明かりを灯し水上に向けられた。万華鏡のようなそこに映り込むのはぼんやりとした男の顔だ。風が髪を攫い、舞い上がらせるのを煩わしく思うのか、適当に手で押さえた綺が表情を崩す。そうして、普段と変わりのない軽やかな声で水上を呼んだ。打ち寄せる波の騒めきをも飛び越えて、確かに水上の耳に滑り込む。何だと返した水上の声はさして大きなものではなかったが、取り落とすことなく受け止めた綺の笑みが深まった。

「上サマ、海に会わないね」
「お前はよう似合うとる」

破顔した綺が再度、水面を蹴った。褒められることが嬉しいと、夕陽に照らされた横顔が物語っている。何処へともなく歩き出した綺に続き、水上も寄せる波をかき分け捌く。いくらか煩わしさを感じることは事実だったが、そういうものかと思えばそこまでだった。水上は、水の抵抗を物ともせず足取り軽く前を歩く綺の背に目を細める。緩やかに傾いてきた陽が縁取る赤毛が金に透けて、その眩さは水上すらも感嘆の息を漏らす光景だった。視界に飛び込む煌めきに思わず手で作った影の向こうで綺は相変わらず笑んでいる。
立ち止まる水上に気付いた綺が不思議そうに振り返った。眩しそうに顔を歪める姿に海原を見やり、確かにと同じく目を閉じた綺がそっと数回瞬く。陽の傾く時間は日に日に短くなることを分かっていたが、ここまで早いとは思いもしていなかった綺はそろりと水面へ視線を投げた。光を反射する水平線が鮮やかな朱に染まりきっている。まるで隣にいる水上の柔らかな髪を彷彿とさせ、同じだとひとつ笑いを零した綺が、引っ掛かる程度に繋がっていた手を握り返して引いた。空いていた距離を縮め、肩が触れ合う。海風に揺れる髪は光に透けて淡く輝いて、日向に寝転ぶ猫の毛並みを思わせた。顰められた梔子色が朱色を取り込み深く濃くなる様相が珍しく、綺は宝物を見付けた子供のように心が跳ねた。燃えるような眼が静かに綺を捉える。眩い陽光に顰められているが、その奥の双眸は穏やかだ。表情を崩した綺を見とめた途端。呆れを孕んだものへと変わる瞬間が綺は好きだった。言葉は無くとも好意的な感情がありありと見てとれる。今も、綺を見下ろす梔子色には確かな想いが込められている。そうして、応えるように綺はゆっくり瞬く。ひとつ、ふたつ、大きな瞳をしっかり閉じ、そっと開いて笑えば、小さく息を零した水上が適当に返事をしながら綺の顔にかかる髪を払った。
髪を掻き混ぜる風は徐々に冷たさを増し、夜の気配を纏い始める。運ばれる温かさは失われ、傾き沈みゆく太陽が揺れて、より一層海面を照らした。遠くの裾野は紫にも桃色にもとれる色が広がっている。このままでは本当に店を見て回るどころではなくなるうえに、三門に帰り着くことも遅くなるに違いない。引き上げるべく促した水上は、思いのほかあっさり言うことを聞いた綺に一瞬だけ目を丸くし、水上は小さく問いかけた。満足したか、というそれに対して微妙な顔をするも、綺は悪くなさそうな声で及第点と返す。

「ほんとは夏がよかった!でも人いっぱいは嫌っしょ?」
「良い気分はせんな」
「そーゆーわけよ」
「そういうことか」

今年の夏は今年しかないのだと言いたかった綺は、けれど水上との夏はこれからも何度も訪れるだろうと妥協した。年数を重ねていけばそのうち、夏の盛りだとしても足を運んでくれるかもしれない。それはきっと低い可能性だろうが、全く無いわけでもなかった。それだけふたりで多くの季節を巡ることを綺は確信していたし、何かを企む綺の顔を眺めながら、どうせいつか夏に引き摺られてくるのだろうと水上も思っていた。

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