差し出されるものは最良の
痛そう、という言葉が誰に向けられたものか気付くのは容易く、同時にそれは綺にとって聞き慣れたものだった。それが何を示しているのかは、綺の両耳を前にすれば一目瞭然だ。小さなその箇所を飾り彩る装飾は確かに、着用しない立場からすれば何も可笑しくはない発言である。着用しない、見慣れない者が抱く感想の大抵は痛そう、痛くはないか、やりすぎ、みっともない等の非好意的なものとなる。かと言って綺は別段、不快になることも言い返すこともなく、ただ笑って聞いていた。他者が何を思い口にするかなど自由であるし、凶弾や、咎める権利も持っていない。言いたいようにすればいいと、綺は思っていた。綺自身の行いがマイノリティであることも理解していたし、他者が何を言おうと自由なのであれば綺が何をしても自由でありやめる理由にはならないとも分かっている。双方共にどういった感情を抱き向けるかなど規制はできない。ただ、心無いことを言い他者を受け入れることなく下げることでしか自己を確立できない人は、可哀想で勿体ないと綺は常々思っている。
綺は、可愛いものや綺麗なもの、気に入ったものや好きなものを好きなだけ着用したり実行したりしたい。実際にそうして自分らしく在ろうとしている。故に、そういったことが難しい人は可哀想だな、と言わずとも心の内で哀れみを向けた。やりたいことを自由に行っている綺が羨ましいのなら、何でも良いからやってみれば良いのにとも思う。
本人の環境によって実現不可能であると言われてしまえばそれまでだが、だからと言って他人を下げて良いわけではないと、なぜ気付かないのだろうか。よそはよそ、うちはうち。どこで聞いたか分からない言葉が綺の脳裏に浮かんで消えた。勿論、今のこの状況に合う言葉かすらも、綺には分からないが。
だから好きに言えば良いと思っているし、反論や自分の意見を述べることも諦めていた。
綺には非好意的な言葉を掛ける者は多いが、好意的な言葉も差し出される。それだけで良かった。少数でも綺を受け入れる存在がいることは、確かに満たされるものだった。
「ええやん。似合うとるし、落とさへんやろし」
故に、綺はとても驚いた。目の前にいる人物は、どちらかと言えば前者の人間だと思っていたからだ。間髪入れず好意的に受け止められるとは微塵も思っていなかった綺は面喰って大きな瞬きを数度、視線を向ける梔子色を見た。気怠そうに淡々とした目を綺に投げ、さして興味の無い風体で首に手を当てる水上は、急に黙った綺に不思議そうに片眉を上げる。そうして、何かを察した様子で小さく口角上向かせた。意地の悪そうなそれも、今の綺は気付かない。間抜けにも口を開けたまま水上を見ていた。大して身長差のないふたりは互いの表情が見えやすい。明らかに驚いている綺を珍しく思いながら、間近にあるヘーゼル双眸を覗き込んで水上は苦笑した。
すぐ近くから聞こえた若い女たちの言葉は、考える間もなく綺へと向けられたものだと察した水上は、同じく聞こえていた綺の目から一瞬だけ光が消えたことを捉えた。今まで散々言われてきただろうそれらを大して気にした様子はなかったが、またか、といったうんざりした空気が漂ったのだ。それだけで、今まで投げ掛けられた言葉と感情がどういったもので、その度に綺が諦めてきたかを知る。何を思うかは本人の自由だが、そのことに対して綺が疲弊していくこともまた、あってはならないと水上は思う。水上は綺が負の感情を抱くことが下手くそだと感じていた。自身と他者を切り離すことばかりが上手く、他者が綺に向ける負の感情を当たり前の行為だと受け止める。そこに対しての怒りや拒絶を抱くことがない。そのことに綺自身が気付いていないこともまた始末が悪かった。誰かが促してやらなければ、知らぬまま溜め込みどうなるか分かったものじゃない、というのが水上の見解だ。手の掛かる奴だと、水上は見上げる綺の目にかかる前髪を除けてやった。露わになるヘーゼルの瞳には水上だけが映っている。化粧などせずとも十分に大きい眼に驚きが満ちていった。
「お前が我慢する必要ないやろ。いつもみたいに言いたいこと言ったれや」
ひとつ、ふたつと瞬く綺を覗き込んだままの水上に表情を緩ませていくその目は喜色に溢れていた。思ってもいなかった人物から、諦めていたことを諦めなくとも良いと言われれば、綺の気分は浮上していく。
「上サマがそんなこと言うって思ってなかった!」
「俺にとちゃうわ」
嫌そうな様子を隠しもしない水上に構わず、身体の横で力無く下がっていた水上の腕に自分のを絡めた綺が笑う。綺からの接触には慣れてきたとは言え、元々他人に対する許容範囲が広い水上は身体を強張らせた。当たり前のように重なり、分け与えられる体温は不快ではないものの、心の準備はさせてほしいと水上は小さく唸る。
思いはすれど口にすることのない、有って無い細やかな抵抗を綺が気付くはずもなく、華奢な身体からは想像できない力で水上を引いていく。諦めた水上が肩を竦めた。
水上とは対照に綺は浮かれていた。本当は欲しかった、けれど誰にも言うことのできなかった言葉を当たり前に与えられては無理もない。水上の面倒そうな様子に気付くはずもなく、感情を隠しもしない表情さえ優しげなものへと変換される始末だ。万年花畑と言っても過言ではない綺の脳内は、今まさに言葉の通りとなっている。
「ご機嫌やな」
「上サマのおかげ〜!気分が良いからなんかおごったげる!」
勢いよく水上を振り向いた綺は鮮やかな瞳を輝かせている。薄く朱の差した頬は化粧だけではない。綺麗に上向いた睫毛の奥が内側から光るようで、顔の圧に水上が息を詰まらせる。駆けて行く綺の背を見送りながら、未だ感触の残る腕を擦る水上は、顔の良い人間は狡いなと誰に言うでもなく零した。振り返った綺が手を振り、笑う。あの笑顔が陰るなら何とかしなくてはと思ってしまうのだから、絆されていると水上は乱雑に後頭部を掻いた。