ラッキーカラーは赤
地面を焼く陽射しは強さを増し、照り付けるそれらが色濃く影を落とす。上がり続ける気温が空気や街だけではなく人の思考までも揺らめかせるようだった。茹で上がる、と言うにふさわしい午後の暑さに負けじと新作を求めて外に出た綺は、空調の効いた店内でのんびりと端末を弄っている。外部とは一変して過ごしやすさを突き詰めたそこには綺を含めて数人しかしない。普段の賑わいを思うと天と地ほどの差があった。窓際のカウンター席に座り外を一瞥した綺がストローに口を付け、眩い陽光に目を細めた、また端末に向き直る。やはりこのような真夏日に、加えて一番暑い時間帯に出歩く人は少ない。汗を掻いたグラスで涼を取り、浮かぶ氷を揺らしながら画面を追う綺の目に、ひとつの広告が留まった。
「ほんで俺かい」
「上サマ空いててラッキー」
「しかも消去法か」
昨日の今日では人も捕まえ難い。友人たちは軒並みバイトとデートで予定はつかず、駄目もとで頼んだ水上も仕事で断られると綺は思っていた。仮に休みだったとしても貴重な時間を割くことは嫌がるだろうと踏んでいた綺は、予想外の承諾に目を丸くしたものだ。驚いたとはいえ逃すはずもなく、水上をきっちり捕まえて訪れたのはプールだ。
賑わう周囲とは裏腹に不服そうな表情を隠しもしない水上には似つかわしくない雰囲気を纏うが、それがただの形だけであると綺は分かっている。本当に嫌ならば、綺に気を遣う理由が無い水上は最初から断っていただろう。
貴重な休日にも関わらず出てきた水上に、綺の気分は下がることを知らず、嬉しさだけが募っていく。時間を共有しても良いということは、水上にとって最大の愛情に等しいと思っていた。綺には考えもつかない速さで物事を考え、淀みなく紡がれる言葉を舌先に乗せて、当たり前のように本当に用事があると装い断ることもできた水上が是とした。それはそれは、なんと許されていることだろう。浮かれたままの様子で水上の腕を取り歩き出す綺に怪訝そうな視線を投げていた水上は、小さな溜め息をひとつ吐いて大人しく後をついて行く。しっかりと腕に懐かれるのでやんわりと引き剥がそうと目を向けて、その無邪気な横顔に苦言を飲み込んだ。
珍しく夜遅くに届いた連絡を見た瞬間は驚きもすれば面倒な気持ちがあったことは事実だ。世間は夏休みと浮かれていようが水上たち隊員には関係なく任務もランク戦もあり、ともすれば普段よりも出動の頻度は高い。多くが学生であるため、長期休暇の時期は安定して防衛が可能になる。間を縫った折角の休日に体力を削る行為など以ての外であると考える水上は、以前であれば断っていただろう。勿論、隊の面々に誘われたのであれば別だが。
それでも了と返したのは差出人が綺であったからに他ならない。賑やかな文面を眺め、たまには良いかと思った時には、水上の指が送信を押していた。普段は嫌なほどに回る頭も、その一瞬だけは馬鹿になったかのように後も先も読むことがなかった。詰みである。数秒前の自身に文句を述べながら、収納を開いた水上が目当ての物を見付けたのは時計の針が頂点を指そうとしている頃だった。
昨夜の水上の苦悩も知らず悠々と歩く綺の横に並び、騒がしい更衣室の前でようやく手が離される。
「着替えたらあそこね!」
「はいよ」
「そっちのが早いっしょ?これでテキトーに飲んでて」
常夏の花があしらわれた爪先はもしかして今日に合わせたのだろうか、まめだなと感心する水上の手に札を握らせた綺の髪留めも同じく真っ赤な花だ。背が見えなくなるまで負い、水上はのんびりと更衣室の戸を潜った。男の着替えというのは楽である。脱いで、履くだけ。難なく、あっさりと済ませ足を向けた待ち合わせ場所に綺がいるはずもなく、運良く空いていたベンチに腰掛けた水上は周囲を一瞥した。娯楽と涼を求める客は多く、ひとりでいると如何に場違いであるか強調される。疎らに向けられる視線に居心地の悪さを感じ、水上は綺の合流だけを望んだ。人を待っています、といった装いで頬杖を突きぼんやりと視線を投げている水上の真横から若く威勢のいい声が飛び、鈍器で殴られた衝撃を与えてきた。緩慢に顔を向けたそこはドリンクスタンドらしく、鮮やかな果物が所狭しと並べられている。水上は、更衣室に行く前に渡された札を思い出し、しばし考えた後に店員へと声を掛けた。数ある中で選んだものは綺が好みそうなものであり、意識していなかった水上は会計後に気付き歯噛みする。綺へ対する感情をそれとなく自覚してからというもの、確実に以前よりも甘くなっていることに、恋情とは凄いものだと水上は苦笑するしかなかった。
「おっまたせ〜!あ、おいしそ〜あたしもほしい!」
「こぼすで。跳ねんなや」
「うま〜」
騒めきを引き連れて駆け寄ってきた綺が水上を探す僅かな時間で見知らぬ男たちに声を掛けられそうになっていたことに水上が気付く。しかし、それよりも早く綺が水上を見付けたために空振りで終わった男たちに笑いを堪え、改めて綺の容姿の良さに水上は何とも言えなくなる。目当てのものを見付けた綺の目にはそれ以外には何も映っていないのである。真夏の太陽の下、白い肌に映える赤の布地が眩しい。添えられた赤い花飾りで纏められた髪が揺れ、申し分ないプロポーションの完成に一役買っていた。この水着が、水上が呼び出された原因だとは言わずとも容易に想像できた。
周囲の視線など気付きもせず水上の手ずからストローを咥える頭を見下ろし、水上は徐に綺の旋毛を突く。もご、と抗議にならない抗議が飛ぶ。
「日焼け止め塗ったん?」
「背中無理っぽい」
「はいはい」
半分ほど減った容器を片手に、残る方で綺の手を掴んだ水上は何よりもこの場を離れたかった。控えめに言わずとも綺の容姿は人目を引く。変に注目を集めたくない水上としては今の状況は好ましくなく、尤もらしい理由を付けたことを綺は知らない。これ幸いにと移動した水上に手を引かれる綺の目が薄い背を追う。水上も日焼け止めを塗らなければ後々痛い目を見そうだな、と残りのジュースを飲み干して綺は頷いた。
はしゃぐ綺の後を追い、浮き輪を引き、スライダーに巻き込まれた水上はここ一か月分の体力を使い果たした気がした。今でこそある程度動くようになったとは言え、元々が文化系で外での行動とは無縁の生活を送っていた水上には基礎体力が低い。水中という抵抗力の増す状態ともなれば消費は激しく、経験の無い重さで水上に圧し掛かる。いっそ換装してしまいたい、とロッカーに置いてきたものを思いながら、ペットボトルの中身を飲み干した。冷えた茶が喉を滑り落ちる感覚が心地好く腹の内に収まるのを感じ、一息吐いた水上が視線を人混みに滑らせる。どこまで行ったのか、綺の姿は近くには見えなかった。小腹が空いたと言っていたので少し離れたところまで買いに行っていると見て、水上の意識は店の方へと向けられる。人の目を引く容姿をしている綺はお世辞抜きによく声を掛けられることだろう。嫌なことははっきりと口にする性格を知っているため心配は無用だと頭では分かっているとしても、気にはなるものだ。かと言って水上にできることは少ない。慣れているひとりで対処が可能なら任せておくことが最良だろう。
手にしていたペットボトルに口を付け、空だったことに瞬いた水上は疲れた顔をしながら蓋をしてゴミ箱へと投げ入れる。人の騒めきに紛れた軽い音を聞き、ひとつ伸びた。
それなりにすっきりはした、と最近は積もるままだった様々な感情を思う。水上だけの所為でも、水上だけの問題でもないことなど分かっているが、隊の面々は水上の指示で動くのだ。瞬間の内に選ぶことのなかった方を選んでいれば、などと意味の無いことも沢山考える。多種多様な玩具が詰められた箱のように、遊園地を行き交う人々のように、水上は思考し整理していく。そういう性分だった。必要なものと不要なものをより分け、有るべき形に収まるやり方も水上の中には有ったが、上手くいっていないように感じていた。全て試した習慣の打つ手無さを実感していた中に降って湧いた予想外の行動は、どうやら上手い方向に作用したらしい。綺の我が儘に悉く付き合っていただけだが、無意識下では感情の良い発散となったわけだ。
ベンチに背を預け空を仰ぐ水上の視界に派手な色が飛び込んでくる。
「お、すっきりした顔してる」
「遅かったやん」
「色々買った! てか上サマ元気なったじゃん」
「は?」
差し出されたカップを受け取る水上が言葉の意図を問うように綺を見た。隣に座りフライドポテトを摘まんでいた綺は、問い掛けの意図が分からず丸くした目を水上へと投げている。綺には水上の元気が無かったようにしか見えていなかった。何かに悩んでいる様子にも思えたが、きっと綺が聞いたところで意味が分かるわけでも解決するわけでもない。水上が考えることの大半どころか九割は綺にとって難しすぎる。淡々とした梔子色が映すものも、良く回る頭の中にあるものも、綺では何ひとつ浮かびはしない。何に煮詰まっているかは綺の関与すべきことではないが、その水上に対しては手を出す余地が僅かにある。故に気分転換も兼ねての誘いだった。今の水上の顔を見るに気の企みは良い方に転んだようだ。何か少し、色々と考えない時間を与えられたら良かった綺に、水上の望む答えは出せそうにない。
「気分転換したそーだったから?」
「それだけ?」
「そんだけ」
あわよくば新しい水着を着たかっただけだと笑う綺に、苦虫を噛み潰した表情を水上が見せた。綺はまたひとつ笑って、水上の口にフライドポテトを差し込む。塩辛い芋を咀嚼する水上の唇に柔らかな指先が触れた。
「気分転換にはいつでも呼んでいーよ」
「余計に疲れるわ」
「わはは」
悪態を吐くも助けられたことに変わりはない水上は気恥ずかしそうに目を逸らした。苦々しくも棘の無い水上の声に、綺が気付くことはなかったが、水上はそれで良かった。