夏の午後、青の世界にて

目覚ましの設定をせず、自然に起きたときから行動しよう。綺が決めたのは日付が変わってしばらくしてからのことだった。眠りに落ちることも自然に任せ、最期に見た時計の針は二時を過ぎたあたりを指していたと記憶している。カーテンの隙間から入り込んだ陽光は朝の鮮やかさと眩さの見る影もなく、力強い輝きと熱量を持って照り付けていた。枕元の端末を確認したところ、とっくに昼を回っている。一番暑い時間帯に外出しなければならないことに思わず顔を顰めた綺は、けれど仕方がないと諦めてベッドから降りた。あれでもないこれでもないとクローゼットの中を引っくり返した後、買って放置していた洋服に袖を通した。身支度をする慌ただしい音が響いた下階では、祖母が昼食を用意しているはずだと、献立を思い浮かべながら綺は階段を下る。緩やかに漂う香りは最近頻繁に食卓に並ぶものだったが、時期もあり、そんなものだろうと大して気にしてはいなかった。食事に関して綺は強い権限を持っていない。料理の全くできない綺が選べることと言えば、食べるか否かのどちらかだけだ。食べなければ外食しか道は無く、仕事をしているからといって裕福とは言い難い財布事情の綺は、余計な出費を控えたい。つまり、出されたものを素直に食べるしかないと言うわけだった。


本格的な夏へと足を踏み入れた三門市は以前にも増して暑さが顕著になっていた。髪型の決まり難い雨期を終えて些か落ち着いてはいるものの、今度は襲い来る熱と戦わなくてはいけない。燦々と照りつける太陽が建物や木々の影で作り出した絵を踏みながら、綺はじっとりと汗ばむ額を手の甲で拭った。普段は首や背を覆う髪を、暑く鬱陶しいからとひと纏めにしたそこはすっかり熱を持っている。明るい髪色をしていても内包する熱量は高く、これが黒髪であったならば悲惨なことになっているに違いない。想像した綺が小さく肩を竦めた。なるべく影の中を進みながら駅へと着く頃には、額だけではなく全身に汗をかくこととなった綺は、小走りになりながら駅の建物を目指す。早く電車に乗ってしまおうと、冷房の効いている車内を思い、丁度ホームへ滑り込んできたそれに飛び乗った。車内は別世界のようだった。肌を撫でる冷気に息を吐いた綺が車内を見回し、隣の扉付近に見知った頭を見付けて口角を上げた。綺に背を向けているため気付いていないのを良いことにこっそり忍び寄る。床を叩く靴音はどうしようもなかったが、運良く水上の耳は塞がっていた。何か音楽を聴いているのだろう、これ幸いにと静かに伸ばされた綺の手が、無防備な腕に絡んだ。ぎょっとして見開かれた濃い黄の眼が綺を捉える。視線が重なった瞬間、強張っていた水上の身体から力が抜けた。不自然な位置で何かを掴まんと固定された手が、幾度か宙を握る。誤魔化すような仕草に首を傾げた綺は、ひとつ瞬いて問う。

「どしたの」
「……今は生身やった」
「どゆこと?」
「なんでもあらへん」

組織で戦闘員として働くが故の条件反射、所謂職業病であるが綺はそうとは知らない。不思議そうにする綺は、そんなに驚かせたのかとほんの僅かながら申し訳なくなるくらいだ。律儀にイヤホンを外した水上が、未だ腕に貼り付いている綺をそのままに、どうしたと目だけで問い掛ける。切られる前に聞こえたのは日本語の、歌ではなく男性の話し声で、綺は何を聞いていたのかという言葉を飲み込んだ。どうせ答えられたところで分かるはずがないのである。絡めていた腕を離しながら綺が笑う。

「ぶらぶらしてるだけ〜。上サマは?」
「俺は……何や、予定無いんか。ほなちっと付き合え」

電車が止まり扉が開く。大半の乗客が降りた今、綺のいる車両には両手で数えるほどしか残っていない。近くの空いた席に並んで腰掛けた綺と水上をそのままに、閉扉の合図に次いで外気が閉め出される。人の多いそこは、本来、綺が降りる予定の駅だった。

隣に座る水上の肩に頭を預けたまま端末を弄る綺は、冷房の所為か徐々に微睡みに瞼が重くなってきていた。適度な揺れと快適な温度、丁度良い枕。直ぐにでも眠りに落ちる要素は揃えられている。降りる駅もどこへ行くのかも、結局問わなかった綺は水上の行動を待つしかない。まだか、と尋ねることが何故か無粋に感じ、綺は黙したまま画面の文字を追う。少しして、我慢の限界を迎えた欠伸が零れ落ちた。手から滑り落としてしまう前に端末を鞄に仕舞い、居心地を整える綺に水上の手が触れる。剥き出しの肩を撫でる手は暖かく、綺は思っていたよりも身体が冷えていたことを知るが、自宅でもあまり変わらないとさして気にも留めない。水上を好きにさせたまま目を閉じようとして、頭を上げるように促された綺の眉間の皺が寄った。抗議の眼差しを向けられた水上はただ一瞥をくれ、脱いだ上着を綺に着せた。しっかりと袖まで通した満足気な水上が座席に背を預けながら綺を見る。そうして、また綺の頭を肩に凭れさせるように側頭部を撫でた。

「夏風邪はしつこいで」

馬鹿は風邪をひかない、と言っていたことを覚えていた綺が胡乱気な眼差しを向ける。気付いているのかいないのか、きっと前者でありながら後者の振りをしているのだろう水上は、素知らぬ顔で窓の外を見ていた。ファンデーションがつかないか心配して直ぐに、ゆったりと意識を手離してからしばらく、降りると肩を揺すられる。ひとつ伸びをしたついでに見た水上の黒いシャツには懸念した汚れはなく、綺はひっそり胸を撫で下ろした。ホームへ片足を降ろしている水上を追いかけ、勢いのまま先に降り立った綺はまたひとつ大きく伸びる。見慣れない景色と駅名に首を傾げる綺を笑った水上は迷うことなく改札への階段を下っていった。少し遅れて綺が後を追う。若者や家族連れで賑わう改札を出て見付けた看板に目を丸くした綺は、声も掛けずさっさと人の波に添って歩き出した水上の服を掴んだ。布地を辿り、腕を捉えて引き寄せることに対して何も言わずされるがままの水上は、落ち着いた場所を探る綺を一瞥する。

「あ、上着返す」
「館内も寒いやろ。着とけ」
「んー」

館内、と言うことは綺の思う目的地で間違いはないらしい。もう少し落ち着いた格好をしてくるべきだったか、しかし急遽決まったこともあり、こればかりはどうしようもないと諦めた綺は近付く建物を見上げた。隣の水上はやはり何も言わずのんびりと欠伸を零していた。休日にひとりでこういった施設に足を運ぶ趣味が有るとは知らず、人は見掛けに寄らないと思いながら視線を投げた綺に気付いた水上が眉を寄せる。口にしていなくとも失礼なことを考えていると察したのだろう。怪訝な顔で梔子色を細め、溜め息を吐いた水上がうなじを掻いた。

「知り合いにもろたんや。行かな失礼やろ」

律儀で優しいと思ったが、綺は口に出さない。形にしてしまえば不機嫌そうにそっぽを向くことを綺は知っている。そうして照れているところをからかえば、後々綺へと返されるのだ。しかも、忘れた頃に。

「あたし、水族館初めて」
「まあ、三門からちょい距離あるしなぁ」
「楽しみ」
「さよか」

はにかむ綺に水上も表情を崩す。初めてが自分で悪いと水上が言うので、一緒で良かったと返して、綺は絡めた腕に力を込めた。人の波に逆らうことなく辿り着いた入口で、綺は鞄に仕舞い込んでいた端末を引き抜く。記念に写真をとるのだろうと、普段の行動からの水上の推測は正しい。数枚撮影した後、離れたところで待っている水上を巻き込むこともまた、いつものことだ。満足した綺の、離されていた腕が再度、水上へと戻ってくる。随分と慣れてしまった距離を思いながら、水上はチケットを取り出した。
あお、青、蒼、藍。水槽からまろび出る光だけではない、意図的な光の色とが溢れる館内に綺が感嘆の息を零す。反射した水の揺らめきを映している様は、ぱちぱちと煌めきは弾けているようだった。周囲を水に囲まれることなどそうある筈もなく、緩んだ口元のまま瞬きを繰り返す綺の横で、水上は何ともない様子でポケットに手を入れる。騒めきの目立つ館内に落ち着きというものは存在せず、静謐が似合う青の空間を裂いて飛び交う人の声に水上は眉を寄せた。如何せん日取りが悪かった。しかし、一介の学生では平がに休みにはなりにくい。次は夕方以降の少しだけ穏やかな時間に訪れることを考える水上が隣を見る。水槽に釘付けになっている綺は他者など気にしていないようだ。それなら良いかと納得しかけ、やはり静かな時が好ましいなと水上はひとり頷いた。夏季休暇の間には夜まで開くところもあると言う。誘って断られるとは思わなかった。

「ちょーきれー。やば」
「迷子になったら即放送入れるからな」
「連絡とれるじゃん〜」

水槽に貼り付いている背中に投げられた言葉に唇を尖らせる綺は、あっさりと離れて水上の横に戻った。長い指を水上の手の平に滑らせ、辿った指先を絡める。これでどうだと視線を送る綺にひとつ笑い、手に力を入れた水上が頷いた。手の繋がる範囲で綺はあちらの水槽を覗き、そちらの水槽を覗き、と忙しない。何を思いこの狭い囲いの中にいるのか、それこそ意味のないことを考える水上とは違い、楽しげなヘーゼルにはさぞ新鮮で目新しく映っていることだろう。食用か否か、美味かどうかなど情緒の欠片ものない水上になど、きっと気付きもしない。体格の良い魚と見つめ合う水上の手が緩く惹かれる。ただ引っ掛けるようにしていた指が解ける前に力を入れ、すり抜けようとした体温を捕らえた。人に紛れる寸前に視界に捉えた背を追い、先に進む綺の後をついて歩く水上の眼前で揺れる。ふわと舞う髪の向こうがあまりにも楽しげで、水上もつい口元が緩んだ。その慈しむような眼差しにも、前を向く綺は気付かないが、水上はそれで良かったと安堵した。知られてまずいことではないが、気恥ずかしいのだと後頭部を掻く。

「上サマ、イルカショーだって」
「先そっち行こか」

騒がしい中から耳聡く案内を拾った綺が空いていた距離を戻して水上を見る。掻き消されぬよう顔を寄せる綺に肯定を示した水上の目が周囲を滑り、瞬く間に館内案内を見つけ出す。先ほどまでとは変わり、先導される形となった綺は他人にぶつからないように目の前へと身を寄せた。想像よりも広い背が人の間を縫うように擦り抜け、最初から知っていたと言われても過言ではない確かな足取りで目的の場所へと進む。青い世界を後に、陽光の射し込むそこには既に多くの人が集まっていた。空いた席を探す水上の目の前に手を翻した綺の指先が示す前方の席に、水上の顔が盛大に歪んだ。あまり水族館へ足を運ぶことのない水上ですら、その位置の危険性は重々理解できる。確実に水飛沫を浴びると分かっていてわざわざ座る水上ではないし、綺にとっても化粧が崩れる可能性を考慮して、前方の席だけは回避しなくてはならない。冷めているのではなく現実的で合理的だと言って欲しい、と誰ともなく思いながら数列後ろの席に空きを見付けた水上は足を向ける。綺が何か言い出す前に、適当にそれらしい理由を用意した水上は、大人しく隣に腰を下ろした綺の視線が刺さることに気付いた。不思議そうな眼差しに、努めて優しく返す。

「少し後ろの方が見やすいやろ」
「それもそっか」

綺は水上の意見に対して反論や疑問を抱く性質でなかった。素直に聞き入れた綺に内心胸を撫で下ろした水上は、端末を弄る綺を見とめる。楽しそうなヘーゼルの瞳を輝かせる様を見ると、出掛けることも吝かではないと思うので、絆された者の末路とはあまりにもであると水上は自身に呆れた。


当初の予定通り水上ひとりで訪れていたとすれば、あっという間に施設の出口へと辿り着いていただろう。はしゃぐ子供で賑わう売店で陳列棚を眺めながら水上はひとりごちる。雑に見るわけではなく、ひとつひとつの水槽をある程度しっかり眺めたとして、それでも今回のように時間が経つことはない。水上ひとりではイベント毎に会場へ赴くこともなければ、ひとつの水槽の前に長く滞在することが無いからだ。その点を思えば綺を連れてきたことで全てが解決する。券を譲った人物もさぞ報われることだろう。夕陽を待たずして帰路につく事態にならず良かった。水上は内容量を確認した箱を棚に戻した。後日、手土産を持ち礼を告げる際に、良かったなどと気の利かず面白くもない感想だけを聞かせることも無くなる。例えそうだったとしても相手が逐一気にする性格だと思ってはいないが、それでも水上に備わっている良心というものは、それなりに痛むはずだ。そして、その人物がかなり良い人であることも大きな要因に違いないことも分かっている。礼をするついでに触れい合いが可能な水族館も聞いてみるか、と菓子を選ぶ水上の視界の隅に赤毛が入り込む。気付かない間に隣に来ていた綺の手には硝子の置物が握られていた。自分への土産だというのは容易に理解できたが、同じ物をふたつ手にしている理由は分からない。水上は隠すことなく不思議そうな目を綺へ向けた。何故、と口をついて出た言葉に綺が顔を上げ、視線がかち合う。問い掛けが示す内容を直ぐに察せず、幾度か瞬いた綺は水上の長い指が突いた置物でようやく気付く。両手に乗せたふたつを掲げ、左を綺、右を水上と示して笑う。店内の光を浴びて煌めく四角の中で大きく跳ねるイルカが彫り込まれていた。ぼんやりとした虹彩を刺激する眩い置物が自室の一角に飾られるところを想像した水上が静かに眉を寄せる。あまり物を置かない中で目立つ硝子を悪くないと思ってしまった水上は、腹の底に生まれた何とも言えない感情が喉元を過ぎぬよう押し込めて息を吐く。それとなく断ったとして、聞く耳持たず会計を済ませ握らせてくるに違いないと同時に思った水上は諦めた体を装い、好きにすれば良いとだけ零す。おざなりな了承を前にして、綺は小さく飛び跳ね喜びを顕わにした。機嫌良く水上を見上げた綺の視線が、水上が手にしている物へと向く。買うか否かを目だけで問うた。

「券くれた奴にな」
「あたしも買う!」
「日持ちするやつにせぇよ」
「りょ〜」

元気良く返事をする綺が棚へ向き直る。上から下、右から左と目を滑らせているが、水上には選ぶ菓子の予想が容易だった。見守っている水上の横で難しい顔をしていた綺の手が伸ばされた先にある箱は、案の定水上が予想していたものだ。思わず笑いを零した水上に駄目かと首を傾げた綺の頭を撫でておいた。
帰宅時間が周囲と重なったこともあり、会計までに時間を要したふたりが施設を出る頃には夕陽も進み、空の裾野は緩やかに夜の様相を呈していた。朱と藍が混ざる光景はただただ眩しい。気温も風も昼間より落ち着きを見せているものの、立地も重なり潮を孕む湿った風は生温く、お世辞にも心地好いとは言い難かった。同じく風に吹かれる綺が羽織る、貸したままにしていた上着が忙しなくはためく。夏は盛りを迎えている。暑さを増すばかりの気候を思い辟易する水上は、ふと重要なことに気付いた。夏ということは、期末考査がある。浮かれた気分のまま足取り軽く前を行く綺の背に水上が言葉を投げる。ご機嫌な綺は、怪しむ水上の声に気付かず、機嫌を隠さない甘い声を返した。

「そろそろテストやろ。大丈夫なんか」
「うえっ」
「補習なんぞしとる場合ちゃうぞ」

暗に、夏休みは遊びと仕事で予定が大変なのだろう、と水上は言っている。言葉の意味を余すことなく理解している綺は唇を真一文字に引き結び目を逸らしていた。問いの答えとしては十分過ぎる態度に大きく息を吐いた水上が綺の狭い額を小突く。また学校へ泣きつきに来られても困る水上は直近で空いている日にちを告げた。学業と任務の二足の草鞋を履く水上は多くの時間を割くことはできない。告げた日付に予定が有り、合わなければ綺はひとりで頑張らなければいけなかった。慌てて手帳を確認する綺の隣に並んだ水上が笑う。

「補習なかったら、今度はイルカ触れるとこ行こか」

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