自分には兄のような人がいる。小さい頃、ともすれば生まれたときから遊んでくれているその人は、揺らめく海と若木の葉を光に透かしたものを切り取ったような双眸と、鳶色の髪を軽く跳ねさせた癖毛の、それはもう美しい人だ。澄ましていると見える面差しの、形の良いつり目のきつい印象を落ち着かせる泣きぼくろが、彼の怠惰的な雰囲気と合わさりこれまた大層な色香を湛えていた。それでいて笑うと幼子のような顔も見せるのだから狡いと言わずして何と言う。文句のつけようがない美丈夫を常日頃から目にしていれば、近所の男子など芋同然だ。他の女の子たちが色めく人気者も、芋が服着て歩いているのにしか見えない。ともすれば芸術品としてそこいらの富裕層の家に飾られていても可笑しくない人が当たり前と言わんばかりに構ってくるので感覚も麻痺するしかなかった。それだけではなく、異性として意識してしまうのも、時間の問題だった、というのはわざわざ口にするまでもない。
いつからだったか、イルマオと昔みたいに呼べないと気付いたのは。それは春の盛りだったかもしれないし、初夏の兆しがちらついていた頃かもしれない。言ってしまえば、陽が早く沈み、静けさが痛いほどに沁みる頃の気もした。つまるところいつだとか明確にならないうちに、彼を兄として見れなくなっていたのだ。これはとても困る。何故ならどうして、当の本人である彼にとって自分は近所の子で、盛って言うとすれば赤子から面倒を見てきたただの妹でしかないからだった。そこで異性として意識したとしてそれ以上の展開は望めない。無謀が靴を履いて軽やかに踊っているようなもの。最初から今以上になれないのは分かっているが、想いを捨てきれないのも彼に原因がある。こちらの気持ちを知ってか知らずか、構い方が明らかに度を越しているのだ。
「おかえり。遅かったやん」
「ちょっと考え事してて」
「そか」
噂をすると現れるのか、少しよれた生成りの服にあちこち跳ねた髪を緩く結わえて顔を見せた彼の唇が頬に落とされる。単なる挨拶にしては決して軽やかではないしっかりとしたそれを両頬に受け、諦めにも似た気持ちで返す。鼻先を掠める甘やかな香りに混ざる潮の匂いに安心してしまうと同時に鼓動が早鐘を打つ。こちらからの挨拶を受け満足そうに目を細める彼は、普段よりもどこか機嫌が良さそうだ。どれだけかと表すなら、再度触れてくるくらいにはだ。男性にしては柔らかく、けれど少しかさついたそれは時間をかけて離れていく。柔和に細められた鮮やかな瞳が輝いて、自分だけを映す。この瞳に映りたい人なんて5万といるだろうに。
じっと見つめていれば腰に手が回ってくる。脚の長さの違いからくる歩幅の支えとしての行為だが、こんなことをされては、である。意識しない方が難しい。数年前までは抱っこが選択肢に入っていたが流石にお断りだ。これを筆頭に構われ常にくっつかれていれば兄のように見ていたとしても覆る。それとなく距離を取らねばならないだろう、と考えていたら拗ねた声が降ってきた。
「最近なんや冷とうない?」
「え……そうかな?」
それもこれも原因はそちらにあるが、という言葉は飲み込み曖昧に笑う。直球勝負をしたとして、彼はいつものようにのらりくらりと躱してしまうに違いない。唇を引き結び彼を見上げる。太陽を受け止めて煌めくマスカットの瞳に優しく視線を返され、どうしようもなく胸が高鳴った。
「教えたって、俺の太陽」
甘えたいとき、お願いしたいときに彼はこう呼んでくる。砂糖と蜂蜜と果物と、甘いもの全てを詰め込み丁寧に煮詰めた声が耳を擽る。どろりと絡みついて離れないそれが全身に巡っていく。これはまるで毒だ。抜け出せない。
「……変に意識しちゃうと言うか、まあ、うん」
直視などしていられるわけもなく、逃げるように顔を背ける。素直に言っても駄目と分かっているのにこの人に嘘は吐けない。隠し事も、今まで出来た試しはなかった。
神の裁きを待つ信徒のような、処刑を控えた罪人のような心地だ。早く、何か言って欲しい。
「やっとやね……」
うっとりした声に顔を上げ、目が合う。とろけるような笑みの彼が、そこにいた。