吹き抜ける風が冷気を纏い身体を撫でる頃、長い夏が終わり街は次第に色を変えていく。日本と比べれば驚くほどに穏やかなな冬は、気付けばすぐそこまでクリスマスが来ていた。あちらこちらに見える電飾は、夜の街並みを賑やかに照らし彩るだろう。年により変わるというそれらは今年はいったい何になるのか、そろそろ設営されるであろう広場にはまだ訪れていない。店先の窓には雪の結晶やもみの木のステッカーが貼られ、道行く人の目を楽しませる。気の早い店では扉を開ける度に微かに聞こえる音楽も既に準ずるものへと変えられていた。延々と流れる音楽に気が滅入るという人もいるが、自分はそれらも含めて、この空気が好きだった。
日暮れの早まる家までの帰路の中で、どこか物悲しく胸を締め付けるような感覚を抱きながら街を眺める。行き交う人々の会話すら、今の雰囲気を楽しむための要因だ。そうして、この時期特有の話題に苦笑する。子供たちへのプレゼントを用意すべく奔走する親というのはどの国であっても共通するらしく、そう言えば近所の主婦たちの間でもどうするかといった話が飛び交っていたことを思い出した。普段は無邪気に遊びまわる子供たちも、隅で集まり神妙な顔をしていたので、十中八九主題はプレゼントについてで間違いない。仕事先の店主も孫に渡すものを色々と考えていると笑っていた。
店主から彼には何をと尋ねられたことを思い出し、止めていた歩みを再開する。のんびりとした足取りは後ろから追い着いた知らない人があっさりと抜いてしまうもので、けれど咎める人も嫌そうな顔をする人もいない。信号が赤に変わる。追い抜いた人に、今度はこちらが追い付いた。隣に並んだその人の手にある紙袋の中に、綺麗に包装された箱を見とめ腕を組む。正直、彼に何を贈るか何も思いつかず、直接聞くか、無難に好物のフルコースでもと考えていたところだった。前者が一番だと言いたいが、自分から貰えるものであれば何でも良いと言い出しかねず当てにはならない。彼は、包装用のリボンですら後生大事に仕舞い込むくらいであることを知っているため、下手なものは贈れなかった。それを見付けた以降の自分に何と言われるか分かったものではない。何が悲しくて次代の自分の目を気にして贈らなければならないのだろう。自分以外に同じ状況の人物などいるはずもなく、誰にも共有出来ないのもまた、少し寂しかった。
信号が青に変わる。急ぎ足で渡る隣の人とは反対に、ゆっくりと歩き出す。通い慣れた家までの道のりは、初めての年よりも周りを良く見れた。あの頃は、生きていくこと、彼について行くこと、色々なことを考えてばかりで周りを見る余裕などこれっぽちもなかった。少しは成長しただろうか、と肩を竦めた。
大きな通りを抜け、路地を曲がる。大家の意向で季節の花々が飾られている軒先へと迷いなく足は進んだ。季節柄、普段よりも彩りのない鉢植えの前で鍵を探す。その上から同居猫の声が降ってきた。見上げれば、バルコニーの手すりに座る彼がゆったりと尾を揺らしている。元々が野良で暮らしていたからか、一日中家にいるよりも外の空気に当たることを好むらしい。それでも飛び出していかないところが賢い猫である。今日は比較的寒い日だったが、日中は陽の光が心地好く温めていたようで、気ままに日光浴を楽しめて何よりだ。
食事をせがむ声に返事をして階段を上がった。二階の角部屋、隣人は無し。下はエントランスという好条件な我が家は、気付けば彼の持ち込む様々な物で飾られている。その中でも一番華やかな靴箱の上の空きスペースは、造花とアズレージョで溢れ目に鮮やかで好きだった。どうせなら可愛く、と零した言葉を耳聡く拾っていたのだろう彼はあっという間に仕上げていた。花に埋もれるガロの置物に鍵を掛けてから靴を脱ぎ、脚に擦り寄る頭を撫でてから部屋着に変える。手を洗い化粧を落とせばもう一歩も外へは出ない意志の表れだった。彼に先導されたリビングは肌寒く、ただ静かで物悲しくもあり、時期も手伝い何とも言えない感覚が胸の内を広がっていく。それは、帰宅途中に抱いたものよりも、強く顕著なものだった。
電気を点け台所へ向かう。リビングと比べて物の少ないそこで存在を主張するコーヒーマシンの電源を入れ、準備をしている間に彼の食事を皿に開けた。こつこつと陶器の底を叩く軽い音を聞き付け、目の前に座ったまま耳を動かしながらも手を付けない所が、なんとも分かっている仕草である。食べなければ、どうしたのと問われることを知っていて見上げてくるのだ。何か付けるものがあるだろう、などと言わんばかりに煌々とした双眸が見つめる。あの人に向かってしているところはよく見るが、基本的に自分にはそういった要求をしない。珍しさを抱きつつ鰹節を少しだけかけた。一度口にしてからどうも気に入ったらしく、猫用のおやつよりも食い付きが良い。塩分が多いため頻繁にはあげられないが。
頭を撫でてから立ち上がり、次は人間の方をと冷蔵庫を開けたところで作る気力が一気に抜け落ちた。帰りしな、あれこれ考えていたことが今となっては酷く面倒に思えて仕方がない。空腹ではあるが気力はなく、ひとりになった途端にすぐこれだと自分自身に呆れてしまう。かといって気力が戻るかと言えば答えは否である。こういう時の解決策と言えばひとつしか思いつかない。
棚の中から取り出した即席麺の蓋を開け、湯沸かし器に水を注ぐ。せめてもの悪あがきとして湯が沸くまでの間でトマトを切っておいた。完全に無いよりはまだまし、といった程度だが良いだろう。
皿の中身を綺麗にした彼が定位置である窓辺でゆったりと寝そべり大きな欠伸を零しているのを横目見て、皿を洗い水を変える。満足そうで何よりである。
湯を注いで数分待つ内で端末を見れば、不在着信とメッセージが入っていた。誰かなと考えなくとも分かる。会議に出席するために、よく似た顔の隣人に連れて行かれた瞬間を目撃したのは三日ほど前だった。放っておくといつまで経っても来ないのだとぼやいていた隣人もまた、よく遅刻をするらしいので今回は二人揃って遅刻の可能性が多いに高い。国の集まりというのは普通の企業よりもかなり緩いらしい。
発信を押してから時差を考えたが、着信が十分ほど前なので問題はないだろう。数コールで出た彼は少しだけ疲れた声をしていたが、概ね良好そうな返事がきた。
「クリスマスには戻れそう?」
「そんな長々やっとうの耐えられん」
「冗談だよ」
「明日には終わる」
げんなりした声に思わず笑ったが、彼にとっては微塵も考えたくないことだったらしい。耐え切れずベッドかソファーかにでも倒れ込んだ音がした。そのまま眠ってしまう気がして、口煩いとは思いつつも着替え等はと聞いてしまう。しかし、既に半分ほど意識を手離している彼にとって世話焼きも子守歌になるらしく、語尾は消えかけ普段より間延びした声が返ってくる。せめて上着だけでも脱いでくれないだろうかと今一度声を掛けたが、返答はない。
そうこうしているうちに麺が伸びる危険が出てきた。端末をスピーカーにして容器から湯を捨て必要なものを混ぜる。袋をゴミ箱に投げ入れたところで電話越しに不思議そうな声音で彼に呼ばれた。面倒が勝り即席麺で夕飯を済ませているところだと言えば、たちまち目を覚ましたようだった。以前、食べてみたいと言っていたことを思い出す。帰った際には一緒に食べることを約束し、きちんと残しておくように言われて苦笑してしまう。落ち着いたと言うが、好奇心が強いところは昔と変わらないらしい。
「お前、何こんなとこで寝とるん。会議始まるで」
「わかっとぅよ」
「あ、電話か」
聞いたことのある声は隣人のもので、向こうに言っても面倒を見てもらっていると知って溜め息が出てしまった。
そろそろ帰宅する頃だろう彼を思い、それから冷蔵庫の中身を脳裏に浮かべたのは仕事先を出るときだった。数日もあれば街の中はすっかりクリスマス仕様となる。すっかり染められた普段の道を足取り軽く進めば、彼の帰宅に浮かれている自分に気付いて妙に気恥ずかしくなった。数年、数か月ですらないというのに、大袈裟過ぎてはいないだろうかと我に返ると同時に歩みを緩めた。時間の流れが遅くなることを防ぐ為には、こうして定期的に会わない日を作る方が良い。最初こそ寂しく思うこともあったが、最近は慣れてきたと自分でも感じていた。特に会議で国を空けることは、それこそ彼と離れる大半の理由である。
だと云うのに今回は一体、とのんびりとした歩調のまま考えた末に行事の所為だと答えに辿り着く。母国から遠く離れた土地で迎える行事は、どこか物悲しい。例え向こうで暮らしていた際にひとりで過ごしていたとしても、また違った気持ちを抱くものだった。その中で、彼は今まで必ず傍で時間を共有していたことに気付き納得する。行事までに帰ってくることが嬉しかったのだと。今年もまた、最期まで一緒に過ごせることが、無意識化で特別なものに昇華していた。
数日分の買い物を済ませ自宅の階段を上がる。彼が帰っていたならば約束通り夕食は即席麺となるが、見た目とは裏腹によく食べることを思うと足りるはずはない。他に摘まめるものを用意するための材料でもあり、後日使用する練習用のものと合わせた鞄の中身は、その実結構重かった。普段であれば連絡を入れるが、大きな仕事帰りの彼にそこまで頼めるほど酷くはない。
それから、寝ている可能性のある彼を起こすことも、だ。呼び鈴を鳴らさず鍵を差し込む。多い荷物に四苦八苦しながら開けた扉の向こうは暖かな空気で満たされている。予想通りだと静かな玄関で靴を脱ぎながら笑う。同居猫の出迎えも無いことから一緒に寝ているのだろう、閉め忘れたらしいリビングの扉をくぐり、後ろ手でそっと閉めた。蝶番の軋む音がやけに大きく聞こえ、起こしてしまわないか心配したものの、定位置のソファで横になる彼は微動だにしない。僅かに聞こえる規則正しい寝息に胸を撫で下ろし、台所で身軽になる。冷蔵品だけ仕舞い、極力音を立てずに着替え等を済ませ戻ったところで、同じく寝ていた小さい方だけがこちらを見ていた。頭を撫で、毛布を掛けてから冷蔵庫を開ける。いつでもどうぞと言わんばかりの充実さに満足しながら卵を取り出した。
部屋に広がる料理の匂いは換気扇を回していたとしても主張は激しい。大きな欠伸を隠しもせず起きてきた彼がカウンター越しに手元を覗き込んでくる。未だ眠気の残るぼんやりとした瞳と、柔らかく崩された表情が何とも可愛らしい。むに、と唇が頬に押し当てられる。
「おはよう。おかえり」
「ん……そっちもなぁ」
「寝ぐせついてる」
「まあ、外出んし……」
寝起きの普段とは違うゆったりした雰囲気のままコーヒーをカップに注ぎ、そのままシンクに凭れ掛かった彼が不思議そうに瞬くのは夕飯の少なさからだろう。それでも何も言わずにカップへと口を付けるその横の棚に手を掛け中身を引き出す。当たり前のように手を伸ばして手伝う彼の、ぼんやりとしていた双眸に明確な光が宿った。籠いっぱいに詰められた即席麺は、きっと宝箱に入れられた金銀財宝にでも見えているのだろう。中身とこちらを比べては良いのかと目で問うてくる。日本語の説明では流石の彼もどうして良いか分からず一人では作れなかったらしい。それでこの喜び様だと納得する。
胃の容量からしてふたつは軽々と食べるに違いない。指で数を示せば、笑顔のままあれこれ手に取り始める。蓋の写真だけで決めるのか、味を問われることはなかった。
受け取った容器に沸かしていた湯を注ぎ、テーブルへと運ぶ。待つ間に他のおかずを用意し、酒を取り出す背を見送れば準備は万端だった。
「うまい」
「ならよかった」
「塩味好きかも」
「次の食べても同じこと言いそう」
「否定はできん」
満足気な息を吐き箸を進める彼を前にすれば小さな容器の中身など秒と言っても良い速さで減っていく。既に半分も無いだろう。今からふたつめを作らなければいけなさそうで、見越して湯を沸かしておいて正解だった。過去の自分を褒めながら次のものに湯を注ぐ。おかずを摘まむ姿は機嫌が良く、電話の向こうでだらけていた時とは大違いに溌溂としている。少しでも気分転換になり、憂鬱さが無くなったのだとすれば嬉しいことだと思う。
容器と砂時計をテーブルに置いて席に着く。目元を和らげた彼の指が優しく時計を突いた。どこにでもある、一般的な形のその中に入っているのは星の砂である。さりさり、緩やかに落ちる星を集めたのもまた、いつかの自分だった。袋に詰めて仕舞われていた砂を引き出しの奥で見付け、折角ならと今の形にしたのが今年の夏頃だ。使用しなかった残りの砂は小瓶に入れ、彼の家の玄関に飾られているが、時計はこちらに置いておくと譲らない彼に言われ、キッチンカウンターの一角に鎮座している。電子端末で事足りるだろうと不精をして買わずにいたキッチンタイマーの代わりに、少しの時間を計る際に大いに役立っていた。他の時間も用意してしまうか考えるくらいには手軽で勝手が良い。音を鳴らしてはくれないのでそこを気にしなくてはいけないものの、それも醍醐味だろう。
星が落ち切る寸前に蓋に手を掛ける彼に笑いながら砂時計を回収した。
「満足」
「また食べようね」
「今度はあれにしよかなぁ」
「もう決まってるの?」
「さっき悩んだ」
明日は休日なので後片付けは直ぐやらなくても良いだろうと、怠惰に負けて軽く濯いだ容器をそのままにソファへと沈む。後を追うようにして来た彼の手には温かなコーヒーがいた。飲みすぎて寝付けない、などという心配はないので有り難くいただく。
隣に腰を下ろした彼に凭れ掛かれば、嬉しそうに擦り寄られて少しだけくすぐったい。そのまま旋毛にキスをされた。それは猫が懐く仕草にも似て可愛らしいが、その奥にあるものは捕食者の色である。まだ話をしていたいため、これ以上は刺激をしない様にしなければならなかった。
見上げた先の美しい瞳がうっそりと微笑んだ。
「そうだ、クリスマスは何が欲しい?」
「何かくれるん?」
「サプライズも良いけど、欲しいものあげたくてね」
「お前からのは何でも嬉しい」
「言うと思った」
「なんや、バレとぉやん。けど、本当やよ?」
慈愛を湛える聖母の様な、はたまた無垢な少女を思わせる笑みを浮かべた彼は言う。先ほどよりも懐く体重に圧し潰されながら唸った。予想通りの返答は分かっていたとしてもやはり困るものだった。しなやかな手が頭を撫で髪を梳いてくる。指先に絡めて遊んでは止めてを繰り返しているのを好きにさせ、喉を鳴らす猫を思わせる彼の横顔を見とめ息を吐いた。
当初の予定のまま魚介料理フルコースしかないのかと決める瞬間、机の上に放られた鍵に気付く。帰宅して眠る際に投げられたのだろうそれらは未だ個々で管理され、飾り気は有るはずもない。ポケットに入れておきやすいからだとは分かるが、それよりも失くさないかが心配なところである。防犯や万が一を考えひとまとめにしていないと言われればそれまであり、確かに理に適っていると思うも、何かしらの目印が欲しいところだった。せめて以前渡したカラビナを、と引き出しの中で眠り続ける存在に内心で拳を作る。
どうにかして使ってもらえないか考えた末、ひとつしかないことが使わない理由であると辿り着く。それからの決断は早い。増やせば良いのだから解決は秒速だった。贈られるものは何でも良いと言質はとったので文句は言われまい。色気に欠けるとは分かっていたが、最善策には代えられなかった。いつかここの鍵を紛失する未来が無いとは言い切れない状況から脱しておきたい。悲劇は未然に防いでおくしかないのだ。
「お前は欲しいものあるん?」
「今のところは思いつかないけど……何かくれるの?」
「クリスマスやもん」
「普通の日でも貰ってるしなぁ」
「心当たり無いよぉ」
「あなたの時間」
国の時間を個人に割いてもらうなど、何よりも、何にも代えられないものを貰っていると言っても過言ではない。そうだろう、と得意気に見上げた先にいたのは何故か押し黙り眉間に皺を寄せた彼だった。嫌な答えだったかと様子を窺うと同時に溜め息を吐かれた。
「お前は、ほんと……なんやのぉ」
「何が」
「恥ずかしいこと言っとぉよぉ」
「そっくりそのまま返すよその言葉」
「好きになってまうやん」
「何百年前の話?」
あの時からずっと、今よりも好きになる。蚊の鳴くような声で言うから、可愛くて思わず抱き締めてしまった。
クリスマスも目前に急遽仕事が詰まった彼とは反対に休暇を得ている今、とても好都合だった。当日まで会えない状況は寂しくも思うが、彼が居ては出来ないこともあるので前向きに考えることにした。
休みはしっかり取る欧州にしては珍しいなと思い、それとなく尋ねた際の内容に笑ってしまったのは記憶に新しい。国が集まるパーティーが催されることとなり、参加自由であるそれの返信をすっかり忘れていたと言う。本来であれば不参加扱いとなる筈が、主催がアメリカということもあり、無回答は参加となる記載がされていたらしい。
普段、そういった催事には参加せず、したところで遅刻か、行けたら行くとしか言わない彼は勝手が分からず右往左往していたので隣人に頼み面倒を見てもらっているところだ。遊びであるパーティーを仕事と称するあたり、参加が不服であることが窺える。家を出る直前まで不満気な顔をしていたことを思い出して少し笑った。
キッチンに立ちながら、頭上にある棚にいくつかレシピを貼り付ける。台所を埋める食材の数々を、作る順番に並べ袖を捲った。
当日にしていれば間に合わないが、今から進めておくことで楽をしてしまおうという寸法だ。手際が良いとは決して言えないため、こうして補わなければならない所が自分の嫌だと思う部分でもあった。何事もすんなりと出来るのなら、人生の幅が今よりも更に広がっていただろう。話を聞く限りではいつかの自分の中に何でも卒なくこなす者もいたというのだから何とも羨ましい。きっと料理が凄く得意な自分もいたに違いないと思えば、今だけで良いから乗り移って欲しくなった。
じゃがいもの芽を取り、皮を剥きながら耐熱皿に並べる。以前、そのまま火にかけたところ上手い具合に炒めきれていないことがあって学んだ。まずは電子レンジで程よく蒸かし、他の具材と合わせて鍋で火を通す。その前にソースを作っておくべきだったか、と早々に手際の悪さにぶつかり肩を落とした。
「昼過ぎには帰るけど、何か要る?」
「いつもの酒屋にワインを取りに行ってほしい」
「ええよ」
珍しく猫じゃらしを持ってきた同居猫を片手であやしながらソファに身を沈める。電話の向こうから賑やかな騒めきが薄ら聞こえてきた。主催がアメリカだと聞いていたのでてっきり大陸を渡っているものだと思っていたが、参加国の所在を鑑みドイツで開催しているというのだから知らされた時は驚いた。それでもパーティー後すぐには帰らず翌日というのが彼らしい。こちらとしても慌てて帰宅する途中で事故に遭われでもしたらそちらの方が困る。夕食までには家にいてくれれば良いことを伝え、電話の向こうで彼を呼ぶ声に笑った。
「楽しんできて」
「ん。おやすみ」
「お休み。明日ね」
通話を切る頃にはじゃれていた小さな彼もソファに横になり、すっかりお役御免となった玩具を握るばかりである。野生など持っていただろうか首を傾げてしまうくらいに腹を見せ寝息を零すので声を上げて笑ってしまう。手触りの良い毛並みに不用意に触れて起こしてしまうことも忍びなく、あまり揺らさぬようソファから離れた。
吸い寄せられる様にして覗き込んだ窓の外、穏やかな冬の夜は出歩くには丁度良さそうだった。普段であれば道行く人も多いが、今は静まり家の明かりが漏れているだけだ。光を灯して暖かい食卓を囲み大切な人と過ごし、明日の朝を楽しみに眠る。絵に描いた様な光景が、きっとあちらこちらで広がっていることだろう。
窓の外を望む自分には関係は無く、一度外へ出れば夜の街を独り占めしている気分に浸れるのではないかと考えてしまった。大通りには家族連れや恋人たちが煌びやかなイルミネーションを楽しんでいることもあるが、人通りの裏路地はまさにその通りだろう。
比較的安全とは言えここは日本ではなかった。加えて犯罪は年中無休であることも分かっているのでおいそれとは夜に外出しない。彼と一緒であれば夜半の散歩も許されているが、ひとりで出歩いたと知られれば難色を示されるだろう。いくらこちらに住んでいようと相手からすればアジア系で女性は無防備な観光客に見える。余計なリスクを負うなど褒められたものではない。しかし、外へ行きたかった。
冷えた空気に吐息を混ぜ、どこか物悲しく胸を締め付ける感覚と、家の明かりに安堵を覚える。今の時期どころか本日しか味わえない特別感すらあった。まだ人のいる大通りまでなら許されるだろうか。端末と小銭と鍵だけを持ち、彼と揃いで買ったコートを羽織る。内側にポケットが付いているところが有り難く、申し訳程度の持ち物を全て入れてドアノブに手を掛けた。
流れ込む空気は冷たくも、故郷と比べると温かく思う。アパートのある路地には大通りの賑やかさはまるで無く、誰ひとりいない静けさが漂っていた。肺を満たす冷えた空気を感じながらあてもなく足を進める。
ここに住む前、様々な土地へと赴いてた時は安全を考慮して躊躇ったことも、今ではすんなり出来てしまう。変化と捉えるか、はたまた成長か決めるには悩ましい。などと考えながら辿り着いた大通りでは仲睦まじく肩を寄せ合うパートナーたちや待ち人と合流した人、家族と談笑する姿も多く見える。とある広場にはここ以上に人がいるのだろう。その中でひとり歩くのは少ない。ちらほら見えるその人たちも、待ち合わせか、自宅へ急いでいるのかもしれない。
鮮やかに闇夜を照らす光が眩しく、目の奥を刺激する。大切な人と過ごす時間を思うと、会いたい気持ちが自然と湧いてくるものだと改めて気付かされた。
同居猫に餌をやり、もう一度布団へと潜り込む。未だ薄暗い外は雲も無く、過ごしやすそうな一日になるだろう兆しを見せていたが、それを喜ぶよりも惰眠を貪りたい気持ちが勝る。聖なる日の当日だとしても普段と何ら変わることはない。休日の醍醐味である昼過ぎまでの睡眠を楽しむのだ。贈り物も食事の用意も、全て予定通り恙なく運んでいる自分に怖いものはなかった。
柔らかなマットレスと暖かな布団の組み合わせには誰も勝てやしない。ひとりでは大きいベッドを占領できる優越感を持って眠りの淵に足を掛ける。この瞬間が至福の時であると断言する頃には意識などとうに手離していた。
そうして、気付けば誰かが圧し掛かっていた。該当者はひとりしかおらず、もう帰宅の時間か、それとも予定より早いのかと枕元の時計を見上げ目を丸くする。起床予定よりもいくらか過ぎているのは彼がアラームを切ってしまったからに違いない。起きることなく寝入ってしまうのは彼の温もりが安心を誘い、彼自身が自分にとって気を許せる存在だからだろう。布団の上から抱き込んでくるその人の鼻先を摘まんだ。
「んぐ」
「何でアラーム切っちゃうかなぁ」
「一緒に寝とうせ」
「色々準備があるのよこっちは」
抜け出そうにも更に力を込められた腕から脱することは容易ではない。腕一本すら引き抜くことが出来ず、全身で阻止されてしまえば成す術など有る訳がなかった。それでも時間が進むばかりであり、予定していた工程を消化していかなければ色々と間に合わないと溜め息を吐く。
服は脱いでいても髪や肌に染みついたアルコールの香りは強く、これ以上布団に移られても困ることもあり、取り敢えず浴室に放り込もうと半ば強引に身体を起こした。つられて起き上がった彼を何とかして目的の場所へ連れ出し、巻き込まんと伸びてきた手にタオルを握らせ退散する。けち、と浴室から聞こえたが聞かないふりだ。そのまま流されでもしたあかつきには予定など無き者となるに違いなかった。
「夕飯は豪華にするやろ?昼は俺がやるよぅ」
「寝なくて平気?」
「食べたら寝る」
覗き込んできた彼の髪から水滴が落ちて肩を濡らす。風呂から上がったまま、最低限の身支度のみで戻ってくることに対しては既に諦めていた。頭からタオルを被った格好で台所へと顔を覗かせ、すぐさま服を取りに行った背を見送る。どうせなら着てから、と何度言ったことか。歩いた拍子に跳ねた滴が床を濡らすので、肩を竦めてからしゃがみ込んだ。跡を追う様にして残りのひとつを拭う背中に軽い衝撃と不思議そうな声が降る。まるで気付いていない様子に、もはや文句すら出ない。自分もズボラな部類であると自覚しているので、あまり強く言えないということもあるが。
長い脚でしゃがむ上を通り過ぎ、冷蔵庫を覗き込んだ彼に使用しても良いものと駄目なものを伝える。料理の出来る彼は有るもの全てを迷わず調理するため事前に言わなければならない。材料から推測して夕飯に何を作るかある程度知られてしまうが、この際構いはしなかった。普段から驚かない人を驚かすのはとても骨が折れるのである。
鼻歌まじりにプライパンを火にかける姿を見とめ、今のうちに酒と煙草にまみれた寝具を取り換えに向かう。完全に移っていないとは言え、洗わなければいけないことは明白だった。抱えたそれらは、やはり眠るのには適していない。洗濯機に放り込み電源を入れ、新しいものに張り替えてから軽く掃除をしていたところでリビングからの呼び声に返事をする。のんびりした気質だが手際の良い彼は、顔を見せた頃には机の上に皿が並べているのだ。
元来、食事にかける時間は彼の方が長い。こちらも自然と合わせるようになり、ゆったりと料理に舌鼓を打つが、今回に限っては眠気が勝るのかあっという間に皿の上を綺麗にしていた。珍しいものを見た、と内心で笑いながら寝室に消える背中を見送った。
「いつの間にこんな作れるようになっとぉ?」
「近所の奥さんに習った」
「他の人怖い、なぁんて顔しとったんに……」
「苦手だけど、ルアの為だしねぇ」
「俺めっちゃ愛されとぅ〜」
花を飛ばさんばかりに笑顔を振り撒くのでつられて笑んでしまう。
机に乗り切らないとも言えない品々を前に、食べたいだけ食べ、次々に皿を綺麗にしていく様子はあまり見るものではない。常ならばゆっくりとした箸運びで、確かに量を食すがそれよりも酒を口にすることの方が目に付く。それを思い、ワインを何本か用意しているが、いつもより減りが遅かった。料理の方へ重きを置いているとするなら、それはとても嬉しいことだ。
普段、出された料理を蔑ろにしているかと言えばそうではなく、美味しいと残さず食べてくれるため意識したことはないが、それを差し引いても目の前で口を動かす様子は嬉し気に映った。
視線に気付いた彼が目を向ける。不思議そうに首を傾げて瞬く。こちらが何も言う気はないと分かるや否や、また料理に手を伸ばした。空のグラスにワインを注ぎ、次々に消えて行く皿から自分の分を確保する。自分でも満足する味になったと料理中に思っていても、他人に美味しいと言われる安心感に敵うものはないな、と思いながらグラスを煽った。
「満足」
「流石に残ったねぇ。明日に回しても良い?」
「もちろん」
デザートまでしっかり胃に収め、ソファに身を沈める後頭部を見て笑う。残った料理を片付け皿をと手に取ったが、後で洗っておくと言われ有り難く甘えることにした。コーヒーを淹れ、猫の腹に顔を埋め深呼吸している隣に腰を下ろす。猫に隠れてよく見えないものの、僅かに覗くそこは大変満足そうだ。
ゆったりとした湯気が昇り、消える。暖房の効いた室内は外の肌寒さを感じさせないので悪くはないが、折角なので少しは聖夜を楽しみたいと思う。マグカップを片手に猫の額の様なバルコニーへ出る。吹き込んだ冷気に小さく悲鳴を上げた彼には悪いが、少しの間だけ我慢してもらいたい。
地元も特別雪が降る地域ではなかったのでクリスマスに晴天というのはいつものこと。けれどたまには雪国で迎えても、と考えどこへ行くか想像する。冬季である上にクリスマスとなればどこの店も閉まっているだろうがそれでも良い。それとなく雰囲気を味わいたいだけなのである。お願いをしたらついてきてくれるだろうか、寒さに弱い彼には酷な話かもしれない、と縮こまっていると予想して振り返った先には誰もおらず瞬いた。
部屋から逃げるほど嫌がらなくとも、と思わず半眼になる。かといって嫌がるところを無理強いは出来まい。あと少しだけ澄んだ空気を堪能してから機嫌をとりにいくとしよう。湯気の消えたコーヒーはすっかり飲みやすい温度に落ち着いていた。暗い街並みに灯る光を眺め、来年は一緒にイルミネーションを見に行けますよう祈にと息を吐く。白く染まる吐息が薄く広がり、寒夜に消えた。
もう少し、を引き延ばしてマグカップに口を付ける背に何かが乗せられる。
「風邪引かんといてよぅ」
「あれ、来たの」
「掛けるもん探しとぉた。めっちゃ冷えとうやん」
「じゃあ暖めて」
「俺も冷えるやん」
「道連れですよー」
文句を零す彼の手付きは言葉とは裏腹に優しく、持参した毛布を被り抱きかかえてくれる。丁度、頭の真上に顎を乗せ、腹部に回した腕に力を込めるので少々苦しいが、暖かいという点では優秀だった。徐々に上がる体温に、如何に自分が冷えていたか分かる。手にしていたマグカップを抜き取り、すっかり冷えたコーヒーを飲み干してから傍にある台に置いた彼に更に強く抱き寄せられた。
伝えたいことが、したいことがあるときの彼はいつもこうだ。何も言わず身を寄せて、どうしたのかと問わせる。待つ前に言いたいことがあるのであればどうぞ言ってほしい。何とかして見上げた先で緑と視線が合い、身構えていたものの返されたのは穏やかな微笑みだった。予想をしていない反応は身を強張らせるには十分過ぎる。真意を探るべく慈愛に揺れる緑の瞳を覗くことに意識を集中しすぎたらしい、左手を握る彼を気にも留めず、形の整った薄い唇が開く時を今か今かを待っていた。
ふ、と吐息が漏れる。絡んだ指に、冷えた何かが触れた。
指の間を通り抜けたと思ったが、厳密には違った。その、指に通された正体に気付いた瞬間、弾かれるようにして彼を見た。悪戯の成功した子供のように得意気で、暗い中で部屋の光を浴びて煌めく美しさの塊の中には、驚きで間抜けな顔の女がありありと映り込んでいた。
鮮やかな夏の海の揺らめきと陽を浴びた若木の葉を混ぜた様なそこにたっぷりの甘さを溶かされ、世界で一番甘美とも言える存在は、ただ一心にこちらを見ている。彼は何も言わず微笑みを深めた。言わなければ伝わらないと散々言ってきたが、流石にこればかりは良く伝わる。
左手の薬指。指輪を通される意味を知らぬほど無知でもなければ愚鈍でもない。
「これは……そういう?」
「本当には出来ん。やから形だけ、というか気持ちはあるてことで……」
「わたしで良いの?」
「お前やからやよぅ。これは最初で最後。次にはやらん、お前だけのや」
飾りの無い上質な銀の収まるそこを彼の指がなぞる。見下ろす瞳が細められ、そのまま頬を押し付けられた。
言葉にならない感情を持て余し、何をすれば良いのか分からなくなった頭は彼を甘受することしか浮かばず、それと同時に目の奥が熱くなる感覚を止められない。込み上げる涙は堰を切って溢れ出る。耳に揺れる想いの象徴のように、いつかなくなるものではない、自分だけの彼との証は心の内を掻き乱すにはあまりにも大きい。居ても立っても居られなくなり、勢いよく振り返ったそのまま抱き締める。涙で服が濡れるからなどと躊躇する余裕は無かった。
「本当に渡したいもの以外は持ってこなくていい」
「ルア?」
「昔あいつがな、わたしの事を考えて喜ぶことをしたり贈ったりして、言うてなぁ。お前の欲しいもんと合わせて色々考えとぉたんよ」
「それが、これ?」
「お前と過ごして、言葉を交わして気付いとぉ……俺がお前に渡したいんはこれや、て」
ひたすらに穏やかで凪いでいて静謐な、この世の静けさと優しさを詰め込んだ声だった。普段は余計なことまで考えてしまう脳内も、今は借りてきた猫以上に大人しくその言葉を受け入れている。人間、感極まると何も考えられなくなるらしい。
涙で濡れたみっともない顔をさらしていたとしても、彼は優しい口付けをくれる。泣くな、とは決して言わなかった。ただ、好きだと抱き締め続けてくれていた。
そうして暫くそのままでいたが、何かを思い出したらしくいつものゆったりとした声を上げる。鼻を啜り見上げた緑に首を傾げた。
「指輪は苦手やったやんね。外しとってもええよぅ」
瞬いた拍子に滴が落ちる。どうやら自分の指輪嫌いは今に始まったことではないらしい。いつの自分が伝えておいてくれたのだろう。こういうところはあれこれ言わずとも知っているので話が早くて助かる。そう思えるようになっていたことに少し笑った。
寸分の狂いもなく、まさに誂えられた指輪を想い、今は彼の背に隠れ見えないそれの感触を確かめながら目の前の胸元に頬を寄せる。
改めて考えてようやく実感が湧きあがってきた。否、まだ少し夢見心地でもある。あやすように揺れる彼の腕に抱かれ、都合の良い夢を見ているだけで、本当はまだ彼の帰りを待つベッドの中ではないのかと。それほどまでに、浮かれていた。
他でもない、自分のためだけの繋がりに心が震える。
「喜んどぅ?安心した」
「言葉にならないんですけど」
「態度で充分やよぅ」
肩を揺すり笑うのが伝わってくる。心地良い振動に目を閉じて余韻に浸っていたが、今度は自分が声を上げる番だった。あまりの衝撃に丸っと忘れていたが贈り物を用意しているのは彼だけではない。かなり不釣り合いにはなるが、折角用意した物を渡さないことは勿体ない。
身体を離し、隠し持っていた小箱を差し出す。きょとりと目を丸くしてから数度瞬いた彼は箱の意味を理解した途端、顔を輝かせ受け取った。開けても良いか視線で問うので、大したものではない前置きをして頷く。
「これ、前に貰ったやつ」
「使わないで仕舞ってあるから。同じ物が有ればちゃんと使うかなって」
「わは。バレとう。お前からのは全部大事にしときたいもん」
「あげた意味ないじゃん」
「壊れたり失くしたりしとぅない」
「だから同じやつ。実用性重視でごめん、とは思ってる」
「ええよぅ。お前らしい」
同じ輪でもあるとカラビナを入れた彼の左手の薬指には、同じ銀が光っている。当たり前のように、そこにいる。
何も心配は要らなかった。嬉しそうに指にはめたそれを見つめる緑の瞳が揺れるのを見ていたら、不安といった負の感情は薄れて行く。
「もう戻ろ。冷えすぎや」
「ゆっくりお風呂入りたいね」
「お気に入りのバスボム入れて?」
抱き込まれたまま部屋へと連れ戻される。ソファへと毛布を放り、手早く窓を閉めた彼が湯を溜めに浴室へと駆け込んでいった。空調の効いた室内に取り残されていた外気が混ざり、薄く溶けていくのが分かる。カーテンを閉めてしまえば、もう外の気配は僅かたりとも届かなくなった。
放り投げられた毛布を掴んだ手が視界に入る。室内灯を受けて輝く銀色に込み上げる、得も言われぬ感情に居ても立っても居られず、戻ってきた彼に駆け寄り強く抱き締めた。
「嬉しすぎて離したくないかもしれない」
「俺はいつも離しとおないよ!」
そう言って笑った彼は、思い切りキスをした。