眩い光が薄い瞼の向こうから眼球を刺激する感覚で意識が浮上する。浅瀬の波間を揺蕩う様な穏やかな心地は、けれど鼓膜を震わせる潮騒に覚醒した。閉じたがる瞼をこじ開けた目の前に広がるものは果ての見えないふたつの青と、白波弾ける岸辺だった。打ち寄せては砂浜に消える音を聞きながら、これは夢だと頬を抓る。勿論、痛みは無い。昨晩、日付の変わる前に自室のベッドに潜り込んだことを覚えているので当たり前だ。日本にいた時よりものんびりした暮らしをしているからか、ふっくらとしてきた頬の柔らかさが分かっただけに終わる。
ここまではっきりしている夢も珍しいと思いつつ、立ち上がり周りを見回す。昔の港町といった様相の建物が遠くに広がっていた。ガレオン船というのか、大きな帆船が大海原へと滑り出て行くところもうかがえる。ここまで鮮明なイメージが出来ているのが不思議だった。映画で見たことはあるが、それだけでしかない人の記憶など曖昧なもので、数日も経てばぼやけてしまうだろう。しかし、目の前の船はその姿形の細部まで理解出来た。意識的に思い出せないだけで記憶の奥深い場所には刻まれているものが夢に現れている、といった可能性もある。だとしたら仕舞い込んで見付からない物を取り出す夢でも見れたら良いのに、と思う。そうすれば片方しか見当たらないピアスも浮かばれるというのに、などと言い港町を目指す。
ここまで鮮明な夢など今後見れるか分からないので少し心が躍った。匂いも伴えば更に楽しめそうだが、そうはいかないことが少々残念だ。名残惜し気に鼻を鳴らして緩やかな丘を下る。
しばらくして点々と見んかが見え始めた辺りで足を止めた。街の建物は心擽るものが大いにあるが、こうした郊外にあるということもまた良いものだと思う。何と無しに周りを見ながら足を進め、目に留まった巨木の植わる家に差し掛かった。
青々と茂る葉は陽光を一身に浴び、機嫌良さげに風に吹かれている。好奇心のままに手を伸ばし木に触れた。通り抜けることなく、しっかりとした感触を伝えるそこは本物と大差はない。水分を有した吸い付く様な木の肌に感心していた間に家の先に誰か立っていた。いけないことをしている気分になり、咄嗟に隠れた木の陰から静かに顔を出す。大きな幹は身体を隠してくれるので有り難い。
飾り気のない服装のその人は、手にした如雨露に水を汲み、それから街の方へ顔を向けた。その瞬間、一気に肌が粟立つ。爪先から頭へと駆け抜けた得も言われぬ感覚に血の気が引いていく気がした。こちらに背を向けていた人が街を見ることによって露わになった容貌は、髪色こそ違えど自分そのものだ。恐ろしいまでに同じ顔をしている。陽を取り込み煌めく瞳が酷く印象的な女性は、誰かを待つのかその場を動かない。誰か、などと言うのは想像に容易く、あの人しかいないと決まっていた。
鏡を見ていると錯覚するほどの女性はこちらに気付くことはなく、真っ直ぐな眼差しのまま街を見つめている。今まで、似ていると言ったあの人の言葉を軽く捉えていたが、実際に見ると笑えないくらいだった。それこそ、髪型や目の色だけのつもりでいたと云うのに、鈍器で殴られたと言っても過言ではない衝撃を受けた。生き写しどころか、完全に生まれ変わりだと否が応でも突きつけられる。
鼓動が速く、痛い。浅い呼吸が漏れる唇を押さえ、これでも夢から覚めないとは一体どうなっているのか、と息を呑んだ。
「あの人の夢に入り込んでいる、なんてことはないよね……」
自分の後からベッドに潜り込んだであろう彼を思う。何らかの拍子に何らかの不思議な力が働いて共有してしまった可能性は全く無いとは言い切れない。小さくなる魔法が存在し、実際に見ていることもあり我ながら順応してきているなと息を吐いた。
彼女が動き、その横顔に僅かながらも笑顔が浮かぶ。自分と同じ顔ながらも何を考えているか分からなかった表情は、まるで花が綻ぶかの様に淡く喜色に変わっていった。生きている間で決して体験することのないものに何とも形容し難い感覚が湧く。自分はこんな顔をしているのか、と客観的に知る日が来るとは思ってもいなかった。
女性の視線の先に見慣れた癖毛が揺れている。今よりも気持ち程度幼いような、やはり同じなような、けれど纏う空気は動に満ち、垣間見える苛烈さに息を呑んだ。昔はやんちゃをしていたと言っていたが、この頃なのだろうか。書籍や映像の中でしか見ることのなかった衣服は、彼に良く似あっていた。日に焼けた褐色の肌を彩る金の装飾が動く度に揺れて、華美過ぎないものの総額を考えたら重みに恐怖すら覚える。何でもないものであると当たり前に身に着ける彼は、なるほど大海の覇者たる風格があった。
その覇者たるその彼が、自然な仕草で彼女の頬を撫でる手はひたすらに優しく愛しさがありありと見てとれた。全てを奪い、拡げ、新たな世界を拓いたとは到底思えないくらいだ。甘えた猫の様に甲斐甲斐しく身を寄せるのが、どこか不思議だった。
談笑し触れ合うふたりを、想像していたよりも穏やかな気持ちで見ることが出来たと思う。良かったという気すらした。彼は、夢でならあの人と会えるのだと、どこか安心する自分もいた。記憶の中に残る在りし日の幸せな時間は彼を苛むこともあろうが、大半はその心を満ち足りたものにするだろう。現実にいる自分という存在からの縛りを失くし、自由に心のまま優しさに身を任せられるのであれば、何も悪いことでは無いように思えた。
そんな、彼が唯一あの人と会える時間の中にいる自分が酷く場違いであることも、言われなくても分かっている。夢であることを信じて疑っていないため、意識の有る彼に自分がここに居ることが知られては束の間の逢瀬が壊れてしまう。もう少しこの温かい世界に浸っていてほしい。
息を殺したまま幹の陰に身を潜めていれば、彼からは死角に当たる位置となる。気配にも敏いだろうこの時代の彼に気取られぬよう、ふたりから顔を背け海を見た。眩しく煌めくそこへ視線をさ迷わせ素数を数えた耳に、木々の騒めきから零れて届くふたりの声が否応無しに飛び込んでは抜けて行く。凪いでいた心が揺れた。
彼とあの人はそういうものであり、自分はあの人がいない間だけ隣に立っていられる。もし、あの人と自分ふたりのどちらかを選べるとしたのならば、彼は迷わずあの人の手を取るだろう。ふたつを選ぼうと提案したとしても、今に続く呪いの始まりには勝てるはずがない。それでも構わないから一瞬でも愛されることを選んだそこに航海も何もなく、傍にいるためには最善だったと理解もしていた。そのはずだったのだ。実際にこうして見るまでは。
「欲張りめ」
吐き捨てた言葉は風が掻き消してくれた。鈍く痛み熱さを持ち始めた目の奥に頭を振る。心の何処かで彼の一番になっていくのだと思っていたのだろう。いくらあの人を想っていたとしても、今ここに居て声を、体温を、心を、全てを交わしているのは自分であり、彼の心を占めているのだろうと浅ましくも優越感を抱いていた。これは罰だ。立場を弁えろと頬を打たれたような気がした。羨ましく思うことも、妬ましく思うことも、泣くことも許されはせず事実を受け入れることだけが求められている。誰に言われたわけでもないが、そう感じてしまった。
彼と過ごす時間があまりにも優しくて嬉しくて、満たされていたからか、あの時あの岬で決めた覚悟をどこかへ失くしてしまっていたみたいだ。絶対に失くしてはいけないものだというのに、気付かない振りをして物分かりの良い女を演じて何も触れずここまで来たつけが一気に押し寄せてきた。それを分からせるための夢なのかもしれない。
海から来る一際強い風に促される様にして顔を上げる。目に飛び込んできた鮮明な陽光は、それだけ彼の中で印象深いものなのだろう。以前、陽を浴びた眼が一等好きだと言っていたが、なるほど確かに、あの人を見つめる彼は玩具を与えられた子供みたく喜びに満ちた輝きを孕んでいた。今、その美しい眼には何よりも愛する色が広がっている。好んで覗き込まれていた、似ていると言われた自分のものも、本物には敵いはしない。
あの人が笑う度に揃いのピアスが揺れている。己のものだと確かめるために長い指が触れて、満足そうに唇が弧を描く。時折見せていた仕草はこの時からの癖だったと知って少し笑えた。求められていると分かる、常日頃から自分を見つめる視線の熱さを思い、慣れた重みの無い耳に触れる。例えあの人と重ねられていようとも、紛れもなく愛されているではないか。その事実だけで十分だろう。あの人のお陰で彼の傍にいられることを、決して忘れてはいけないのだ。
どちらも愛していると、自分のこともきちんと想っていると告白した彼を信じていないわけではないがそれでも、弱い自分はそう考えることを止められなかった。そんな自分が嫌いだと思った。
気付かれることのないまま、ふたりの声が遠ざかる。木々の騒めきとさざ波だけが辺りを満たすようになり初めてまともに息が出来た心地だった。隠れていた所為で変に固まった身体を解しながら、これからどうすべきか首を捻る。目が覚めてくれることが一番だが、こういうときに限って中々どうして起きれない。そこの海に身を投げることが早いものの、流石に夢の中だとしても自ら逝く行為は躊躇うものがある。
邪魔をしてはいけないと思う気持ちもあるが、彼の過ごした街がどのようなものだったかを知りたい気持ちも大いにある。そう考えると悩むことはないのかもしれない。あの人の事をもう少し知れたとすれば、後々役に立つことがある可能性も考え街に向かうと決めた。
同じになることを良しとしない彼は渋い顔をするだろうが、手札は多いに越したことはないのである。それに、彼に繋がることは少しでも多く知りたい。
ふたり連れ立って向かったであろう道を辿る。燻る心に蓋を落とし、小走りで追いかけたふたりの背中に唇を噛み締めた。
結論から言うとあの人はほとんど自分に似ていた。違うところと言えば口調くらいだろう。通りでこれ以上一緒にならなくて良いと言われるわけである。買い物を続ける後ろ姿を見ながら頷く。
賑わう市場は今の状況でなければ大喜びで見て回っていただろうが、ふたりの後を追うとなると余裕は全く以て無く、非常に残念な限り。歩き出した背を見失わないように、彼の揺れる髪を目印に、行きかう人々の波を掻い潜る。身を隠すにはうってつけの通りも、裏を返せば素人尾行には不向きだった。逃してしまえば見つけ出すことは困難となる。
「あと少しだけにしよう」
求め過ぎて失敗しては意味が無い。次の店までにして諦めようと決めた矢先、あの人に口付ける彼を見てしまった。身体の全てが凍り付く様な感覚に思わず後退る。何ていうことはない、ただの戯れに心を乱した自分に対して舌打ちが出た。驚くことも恐れることも何もないはずの行為。当たり前の触れ合い、当然の行動ただそれだけのこと。それだけだと分かっていても、一瞬でも負の感情を抱いた事実が重く圧し掛かる。
全く、全然、何も割り切れていなければ覚悟も出来ていなかった。彼が好きでたまらない。自分だけを見ていてほしいと心が悲鳴を上げている。これでは、あの岬での決意に一体何の意味があったのか分からないではないか。自分が恐ろしく浅ましく貪欲である事実を眼前に突きつけられた。肝どころか全てがこれ以上ないほどに冷え切っていた。彼を裏切ってしまった、その気持ちすらあった。
ここに居続けてはいけないとだけが心と頭を占める。縺れそうになる手足で市場を駆け抜けても、周囲はこちらを気にも留めず会話を続けていた。認識されておらず助かった。一息で戻ってきた市場の端、曲がり角の向こう、人々の合間から覗く彼と目が合った気がした。
「早く目が覚めて欲しい」
最初にいた場所まで戻り、一呼吸すらも乱れないまま漏れた声が波音に消えるのを送り出す。嫌なことを考えてしまう自分はこの優しい世界にいてはいけない。一刻も早く目を覚ましていなくなりたかった。
「いなくなりたい……」
「どこに」
「……っ」
怒りと怯え、冷たさと、様々な感情がない交ぜになった結果、ただ重く纏わりつくような声が投げられた。鋭い刃物が心臓に突き立てられている恐怖のまま振り返れば、普段は甘やかな色をしたはずの美しい双眸に何の感情も乗せず、暗くのっぺりとした緑を貼り付けた彼が居た。あの時、目があったと感じたのは間違いではなかったらしく、あの人を置いてわざわざ追ってきたようだ。どうして、と問う前に詰められた距離に気圧されてしまう。慣れない金の飾りを付けた腕が、こちらのを掴んだ。どれだけ力を込められようと痛みは無く、圧迫感だけが増していく。
「ルア、なんで」
「それ、俺の台詞やよ」
「あの人は?」
「なあ、いなくなりとう?」
愛らしく小首を傾げられても今はただ恐怖でしかない。どうやら地雷を踏み抜いたということで間違いはないようだ。彼の光のない瞳を見上げる。いっそ荒れた海を思わせる方が、暗く底の見えない深さを湛える今よりも良いとすら思う。感情が読みにくいと対処が難しかった。こちらの答えを待つ気はあるのか、温度の無い緑が見下ろしてくる。
「夢から覚めたい、ってことだから」
「何で?」
「人の夢だし、覗くの悪い気がするし」
「……せやなぁ」
僅かな声の変化に、雪解けの瞬間を見た。固く冷たい声が解けて柔らかなものが混ざる。同じくして緩んだ目元に差した朱と、美しい緑の細工の奥に灯った微かな明かりが安堵を誘う。掴まれていない自由な手で頬を撫で、無意識だろう、擦り寄る頬の暖かさに漸く生きた心地がした。猫が懐く仕草でこちらの手から離れる気はないものの、纏う空気は未だ油断出来ない。返答次第では呆気なく逆戻りとなるだろう。全く以て面倒で、けれど執着されていると強く感じて嬉しく思う自分がいることも、事実だった。
「ルアの傍からいなくならないよ」
「そんなんせんで」
「しないって」
ぐずる子供をあやす親の気分にもなりながら笑顔を向ける。彼がここまで過敏になることを思うと、あの人と余程の事があったのだろう。寿命の差から先に逝ったというのは確実だが、それは他の存在も同じなためきっとそれよりも先に、という線が妥当だ。
不安に揺れる眼を覗きこみ、徐々に受け答えが軟化していくのが分かった。出来ることならこのまま流れを変えていきたい。
「あの人は良かったの?」
「やって夢やもん」
「夢でしか会えないでしょうに」
完全に力の抜けた手は腕から離れ、ただ甘えるために衣服を掴んでいる。気分の浮上した面持ちのまま、喉を鳴らさんばかりに機嫌良くこちらの手に懐いていた。
夢だから、と言い切ることに瞠目していれば、気付いた彼が柳眉を下げて小さく笑う。多少なりとも気にはしている様だが、それでも、いない方よりいる方を選ぶらしい。
「俺はどっちも欲しいんよぅ。あいつはこれから夢で会えるけど、今に生きとうお前は今しかおらん」
普段の飄々とした雰囲気は成りを潜め、気恥ずかしさからか僅かに頬を赤らめた彼が顔を背けようとするので咄嗟に止めた。居心地悪そうに肩を竦める姿にこちらも恥ずかしさを覚えた。ばつの悪そうな様子は直ぐに消え、見慣れた微笑みで髪に頬を摺り寄せる彼を甘受する。
きっと、今の自分もいなくなった後に夢で会うことが出来るだろう。けれど、それよりも今ここでこうして触れ合う時間を選んでもらえたのだと気付いて嬉しさがこみ上げる。一瞬でも手を取ると決めてもらえた事実に涙腺が緩みそうになった。
彼は何度も頬擦りをして、まるで子供をあやすみたいに背を撫でるので、先ほどとは反対だと苦笑する。力強い抱擁は安心を生むが、現実ではない現状が不安を抱かせる。これがもし彼の夢に入り込んだのではなく、最初から自分の夢だとすれば、都合良く進むことも納得出来てしまう。地に足が着いていない感覚はもどかしい。早く目を覚まして、本当だと確信が欲しかった。
「まだ起きない?」
「起きられへんの?」
「自分じゃ無理みたい」
「へぇ」
自分の手の内にいる、という状況が面白いのだろうが、こちらとしては何も面白いことは無い。何とかしてくれないか、と見上げた彼の瞳には好奇心がありありと見てとれる。まだここで遊びたいとでも思っているのだろうか、あまり良いとは言えない傾向だ。
やはり無理矢理でも防衛本能を働かせるしかないのか、少し離れたところに見える海に目を向ける。入水、というのはどういった感覚なのだろうと眺めていれば、不穏な考えを悟ったらしい彼が慌てた様子で頬を掴んできた。乱暴な挙動に確かな焦りを見る。
ひとりではなくふたりでならば良いかもしれない。彼に訪れることの無い死という概念を、今ここであれば自分だけのものにすることが可能である。現実では決して出来るはずのないことは酷く甘美なものに感じるが、頭を振って思考の隅から追い出す。
頬を掴んだままの手を外し、指を絡めた。少しだけ冷たいそこを温めるように、強く握る。
「帰ろう」
「うん」
微笑む彼の口付けが降ってくる。軽く触れた途端、はっきりとしていた意識が急激にぼやけて曖昧になり、視界も滲んでいく。繋いだ手の感覚だけが確かだった。
美しく鮮やかな景色も今は色が混ざり渦巻き、全てを飲み込まんとしていた。上か下か、立っているのか寝ているのかすら判断の付かない空間に放り出され、これで目が覚めるのかと確信めいたものを抱く。
不意に頭上辺りから差し込んだ光に目を向け、手を伸ばす。指先まで触れた暖かなそれに引き上げられる感覚は、きっと気のせいではないのだろう。
呼ばれている。微睡みに身体も意識も委ねている中で、応えることも億劫に思う気持ちを押しやり口を動かす。掠れた声は彼を呼べただろうか。
まだ暗い部屋で近くにある緑が淡く煌めいて見えた。揺らめく海にも似たそれに吸い寄せられるようにして手を伸ばそうとして、握り込まれているため持ち上がることすらなかった。覆い被さる体勢で覗き込む彼の解いた髪が肌に触れてくすぐったい。もう一度、呼ばれた。
「おきたよ」
「目ぇ覚まさんかと」
「ルアが呼べば大丈夫」
「ならいくらでも呼んだる」
鼻先を触れ合わせ甘える彼が握った手に力を込める。性差からくることもあり、元の強さもあり、と痛いほどのそれを咎めようとしたものの、眼前の双眸に宿る真剣な光に何も言えなくなってしまった。不安であるのは自分だけではない可能性に行き着く。飄として掴みどころが無く、手の内に留めたくともすり抜けてしまいそうな、何も響かず柳の様な雰囲気を纏う彼が、自分という存在に対して儘ならない感情を抱いている、と。
こちらがあの人を想う彼は自分を見ていないのだと不安になることと同じで、向こうもあの人の存在が自らの元を離れて行く要因にならないか気にしている。そのようなことは全くないとは言い切れないのは、自分も彼も何も言わないからだ。恐れるだけ恐れ、何も言わず仕舞い込んでいる。どちらかが踏み込まなければ一生平行線だろう。
睫毛が触れるほどに近い双眸は、ただただこちらだけを映していた。
「わたしは、あの人みたいに貴方の気持ちを上手く汲み取れない」
「うん?」
「だから、言えることは教えてほしい。何を不安がっているのか、とか」
「お前に?」
「そう。わたしも、なるべく言うようにする」
ぱちり、瞬いた彼が間の抜けた声を上げ、それから目を泳がせる。ばつの悪そうな、悪戯が知られた子供のような顔をした。何故この提案をしたか、真意に気付いているのだろう、だから知られたくなかったと目が言っている。
手の力が抜け、倒れ込んできた身体を抱き留める。どうやら喃語しか話せなくなったらしい。顔の直ぐ横の枕に埋まったままではそれすらも聞き取り難いため顔を上げて欲しかった。
「あー」
「ルア?」
「……あいつと仲良うしとぉたん見て、冷めてたらどうしよ、て思っとぉ」
「やっぱりわたしよりあの人が良いのね!もう知らない!って?」
「そう」
応える声は弱々しく、いつも心の内を引っ掻き回していく人とは到底思えない。愚図る背中を撫でてやりながら、嫌いになれる筈がないので安心してくれて良いと考えて、平素から彼も自分に対してこう思っているのではないかということに気付いた。何かにつけてはあの人の影がちらついて、自分よりあの人がと勝手に決めては悲しくなる。今の彼と同じだった。
「嫌いになんか慣れないよ」
「俺も」
「何がっても、最期までこうしていたい」
「これからも、離しとうない」
実際にしがみ付きながら言うので少し笑ってしまう。それから、目を合わせてと頼み額を重ねる。潤んだ瞳は薄らと膜が張っているように見えた。
「次の子たちにも伝えてあげてね」
「約束?」
「そう、約束。お互いが不安にならないように」
神妙な顔で頷く頬に自分のを寄せる。安心したのだろう、普段の輝きを灯す瞳が細まる。
不安になることはない。けれど、言えど言われどその気持ちを抱くことは止められない。今も理解していると思っていても、ふとした瞬間に胸の内で大きく膨らみ抱えきれなくなってしまった。
出来ることならそうやって不安がり意地を張り逃げようとするのは今の自分で終わりにしたい。彼の言う次があるのなら、その時は、不安に思う時間は勿体ないと早々に気付きこの人を愛することに使ってほしいと思う。記憶を持って次へと行けるのならばそれ以上に簡単なことは無いが、今の彼は今の自分だけの存在であり、いくら自分と同じ存在だとしても与えたくない。次は次だけの彼との想いを育てて行くのが良いだろう。その為にも今回の様なことが起こらぬよう、起こったとしてもすれ違うことがないように、気持ちを形にして伝えあってほしかった。
優し気に微笑む彼は約束を交わしたことが嬉しいのか、頻りに頬擦りをしてくる。微睡みに優しい温もりの中で心地好い触れ合いに全てを委ね、目の前の髪に指を差し込む。絡むことなくすり抜ける柔らかい手触りのそれに、飽きることはきっと来ない。何度も梳いている間に、気の抜けた声が届く。まだ起きるには早い時間だ。もうひと眠りしたいのだろう。
「あいつも、ずっと撫でてくれとぉた」
「好き?」
「ん、すき」
「そうやって好きなことやしてもらったこと、出来る範囲で教えてもらえると嬉しい」
「なるべく、いう」
「出来ることは、したいから」
あの人には出来ず、ここまで繋げられた自分だからこそ出来ること。そう思うと悪くない気分だった。
既に意識の半分を眠りの淵の向こうへと追いやっている背中を軽く規則的に叩き、徐々に穏やかで密やかになる呼気に目を閉じる。深く息を吐き、呼吸を合わせていく。鼓動が重なり、静かな部屋ではよく聞こえた。
きっと、もう夢が交わることはない。それは胸を撫で下ろすものではあったが、それと同時に少しだけ寂しい気もした。