それが何かと気が付いたのはつい最近の事だった。両方の耳たぶにひとつずつ、よく見なければ分からないそれは、飾りを付ける為の穴である。何もしていないのに在るそれを開けた記憶は、当たり前だが持っていない。本来であれば日が経つにつれて閉じてしまうだろうそれは、試しに針を通したら引っ掛かることなく通ってしまった。何とも不思議である。痛みを感じることなく存在していることを運が良いと考えるだけにしていた。深く考えたところで答えが出るわけでもない。ただ、惜しいと言えば着飾る余裕があるくらいに裕福な家庭では無いということだった。
温かな湯気の立つパンを並べ一息吐く。どっしりと重いそれらを運ぶことは意外と重労働だった。開店前の今は次から次へと焼き上がるため休む暇は無く、出来上がりを知らせる父の声に返事をするだけで精一杯だ。
また一日が始まる、と澄んだ空を盗み見た。
「こんにちはぁ」
「いらっしゃいませ」
初めて見るその人は簡素な身なりだが上等な生地の衣服を纏っていた。緩やかに跳ねる茶の癖毛が窓から差し込む陽を浴びて煌めく様は自然と目を引かれる。内側から輝く様にも見える美しい瞳は海と木々を映したようで、見る角度によって他の色が見え隠れすることが不思議だった。眼下に影を作る豊かな睫毛は、さぞ女性たちが羨むに違いない。物腰柔らかとも、掴みどころが無いともとれる微笑みが印象的でもある。あまりにも一般人離れをしているので、お忍びで遊びに来ている貴族なのかもしれないとひとりごちる。まじまじと見つめ続けることも不躾なので、慌てて顔を背けた。
気にしていないのでどうぞご自由に、という気遣いは低すぎない柔らかな声のその人から壊してきた。少しだけ間延びした口調がこの人の気質を表しているようだった。
それは、真綿で包むような心地よさを伴い耳に馴染んだ。ずっと昔から聞いていた感覚すらする、不思議な気分を起こした。
彼が口にしたと言えば、どのパンがお勧めかという至極当たり前の言葉で、それ以外にはないと分かっていても身構えてしまう。この店は長く続いているが一般家庭向けであるため、飾り気もなければ何の変哲もない、普通の物しか置いていない。
しかしそれが逆に珍しく映るのかもしれないこともあるのだろう。
「どういったものをお探しですか?」
「ずっと前から居るやつ」
「ええと……これ、ですかね?」
どこかずれた言い方ではあるものの、言いたい事は開店当時から作り続けているものということだと解釈し、棚の一角を示す。朝から並べていた想いそれらは看板商品と言っても良い。一瞥し、それをひとつと微笑んだその人から代金を受け取り、籠を持っていないので軽く包む。手元を見つめられ、緊張から居た堪れない気持ちになりながらふと顔を上げた瞬間に目が合って驚く。手元ではなく顔を見ていたと知って時計に冷や汗をかいた。
輝く神秘的な瞳が瞬き震える睫毛に得も言われぬ気分がこみ上げる。美しい人は狡い。視線だけで簡単に人を惑わす。
普段より少しだけ時間がかかりながらも包んだ商品を渡す。重さを感じさせることなく受け取ったその人は立ち去る様子もなく、やはりじっとこちらを見ていた。顔に何か付いているのを言いたくとも言えないでいるのか、と頬に触れるが特に何か付いているわけでもない。他に何か有るだろうかと彼を見上げて重なる視線は嬉しそうだった。大輪の華の蕾が綻び、咲き開くかの様な艶やかな微笑みに居た堪れない気持ちになる。一生分の良いものを見ていると言っても過言ではなく、もしかしたら明日自分は死んでしまうのかもしれない。その分、良い思いをしろと神様からの施しだとしても可笑しくはないだろう。
心の内で祈りを捧げている間に伸びてきた手が頭に乗せられた。優しく数度撫でて離れた手を目で追う。
「また来るよぅ」
返事を待たずひとりで満足して帰っていった背を、瞠目したまましばらく眺めていた。閉じた扉に阻まれ見えなくなって初めて我に返り、傾いだ身体を作業台に手を突き食い止める。驚きはしたが嫌ではなかった。それどころか、またとはいつになるのかと思ったところで頭を抱えた。
重苦しい雲が空を覆い、今にも大粒の雨を零しても可笑しくはない様子を見上げ窓枠に頬杖を突く。今日は来客の少ない暇な日となるだろう。酷い雨の中を出歩こうとする人はそうそういない。降らないうちにと近所の人はいくらか来たが、それ以外はめっきりである。
パンの匂いに包まれながらぼんやりしている間に、と、と、と地面を叩く音が聞こえ始める。長い間隔のそれはあっと言う間に短く強く地面を叩く数を増やしていった。やがて水の纏まる音に変わり町を包んでいく。目を開けた先、色を変えたそこを尚も雨が打ち付け弾けた。鼻先に触れる湿った匂いにもう一度目を閉じる。
どれくらいしただろうか、激しさは息を潜め、細やかな雨音へと移り始める。耳に心地よいそれをもう少し聞いていこう、と開けた視界の隅にずぶ濡れの人影が入り込んだ。
「えらい雨やねぇ」
雨宿りくらい、と思っていたところに掛けられた声に弾かれる様にして顔を向ける。柔らかな茶の癖毛は濡れて形を失い、力なく輪郭に添って大人しい。日に焼けた肌を滑る滴は何かいけないものを見ている気分にさせた。上から下まで余すことなく水の滴る彼は柳眉を寄せながら肩を竦めている。目が合い、微笑んだ。濡れて輝きを増す宝石を思わせる瞳が穏やかに細まるのとは反対に、こちらは驚きに目を大きく見開く。悲鳴が出なかったことを褒めたい。まじまじと見た彼は本物であり、こちらの造り出した幻覚などではなかった。
毛先から落ちた雨粒が頬で跳ねる。それを合図に漸く生きた心地がした。今、思い出したと言わんばかりに息を吸い、慌てて拭くものをと奥に引こうとしたのを止めたその人に首を傾げる。そのままで構わないと笑う彼の髪から滑る粒を放っておくことは憚られ、逆に手を掴み室内へと引きずり込んだ。
驚きに瞬く瞳が幼く見える。こういった表情も様になるので本当に狡い人だと思いながら布を被せて水気を拭っていく。されるがままのその人はいたって大人しく目を閉じている。今にも寝てしまいそうなくらいくつろぐ様子は、こういった行為に慣れているともとれる。やはり良い所の人なのだろう。侍女というものがいる生活とはどのようなものなのか想像はつかない。
これ以上は乾きようがないと思い布を取る。すっかり乱れた髪を指で梳いて整えている傍から嬉しそうに擦り寄られてしまう。もっと、と言いたげに上目遣いをするのは卑怯だ。甘やかに揺れる双眸の内は期待が孕んでいる気がして、恐ろしいほどに甘え上手な彼に甘えられ慣れていない自分が勝てるはすもなく、乞われるがままに頭を撫でた。
どうも初めての感覚がせず、胸の内に引っかかりを覚えて眉を寄せる。彼はこうされることを慣れていて、自分はこうすることを覚えている、そう感じた。
「前に会ったことありますか?」
「え?」
「あ、いえ……何でもないです」
思わず零れた言葉に勢いよく顔を上げた彼に後退る。今までで一番期待に満ちた眼差しに気圧され尻すぼみになる声と共に視線を落とす。何故その目を向けるのか問うよりも先に、自分の失言に対しての意識が先にきた。流石に不快にさせただろうと反省し、雨が止むまで好きにして構わないと言おうとして目を戻した瞬間、強い光を宿した眼を向ける彼が居た。鋭いそれに心臓を射られた気分がする。
「そう、て言うたら、どうする?」
「いつ、と問います」
「前世」
その言葉は驚くには十分すぎたが、返答に時間はかからない。間髪入れずの答えに笑みを深めた彼が言う。
うっとりした、それはそれは甘い声だった。果物と砂糖とを煮詰めたものよりも更に、蜂蜜よりも絡みつく、この世の甘いを全て混ぜたそれで彼は名前を口にした。
教えたはずのない名は確かに自分のものであり、当たり前のことの様に、何度も呼び慣れた響きをしている。呼ぶ側だけではない、呼ばれた自分もそれが当然とすら感じた。熱の籠った眼差しのまま距離を詰めたその人を見上げ、一番強く思うことはどうして彼を覚えていないのかということだった。混乱よりも何よりも、覚えていないことが寂しいと感じる。
手を伸ばし頬に触れ、輪郭をなぞる。やはり、懐かしい感覚が生まれる。ずっと昔から知っている気がした。
「本当、に……」
「嘘やないよ。ここは、覚えとおね」
彼が触れた耳にあるものは覚えのない、飾り付けるための穴だ。どういうことかと問う前に取り出された飾りに意識が向く。その石はどこかで見たことが有る色をしているが、それはいったいどこでだっただろうか、答えの出ぬ前に耳へと飾りが通された。重みの増した両耳は、けれど違和感はなくまるでここが有るべき場所と言わんばかりであった。如何にも高価な飾りの下がる様を眺め満足そうに頷いた彼の親指が目尻をなぞる。思わず閉じた瞼へ唇が寄せられ、次いで強く抱き締められればなすすべはない。
どうして開いていたか分からない存在の答えはこれだったのかと、寸分違わぬ大きさで、あつらえた様に揺れる石を思う。安堵すら覚えてしまえば、疑いは消えて行った。
「わたし、何も覚えていない」
「受け入れてくれとぉ。十分やよ」
「思い出せるように頑張る」
「ええよ。また好きになって……それだけよぅ」
髪に頬を寄せ囁く彼を抱き締めなければいけないと思った。本来であれば酷く慌て、狼狽え、拒絶しても可笑しくはない状況を何の障害もなく受け入れられることも不思議だったが、魂が覚えているとでも言うのだろうか。この手を離してはいけないと強い気持ちが心の内を支配している。
彼が頬擦りするたびに視界の隅で揺れる深い色の髪紐すら、懐かしく愛おしいと感じた。この人は自分のものであり、誰のものでもない。この美しい人は、他でもない自分だけの美しく愛しい人なのだ。
雨は止まず、強さを増していく。軽やかに地面を跳ねるだの粒は、やがて大きく叩きつけ、濃い雨の匂いを扉の隙間から差し向ける。じっとりと濡れた地に滴が滲み込む様に、彼という存在が自身の内へと入り込んでいくと感じた。ぽっかりと空いていた穴が埋まるかの如く、満たされるとはこのことかとすら思うほどに、無くてはならない存在へと塗り替えられていく。もう少しこのままで、などと言わずとも離す気はあまり見えない彼の胸に頬を寄せた。
しばらくしてお互いに落ち着き、身体を離すのは同時だった。甘くとろける輝きを纏う双眸に見下ろされ、豊かな睫毛が震え細められていく。負けずとも劣らない甘い声で呼ばれて視線を向ければ、嬉しいのだと形の良い唇が弧を描いた。抱擁は解かれたが距離は詰めたまま、少しだけ乾燥している手が腰に回されている。今日が雨で客が全く来ない日で助かったと思う。もし晴れていたならば彼は訪れることがなかったとも考えられるが、わざわざ尋ねるほどのことでもないと言葉を飲み込んだ。
そのことよりも話したいことや聞きたいことは山積みだった。そっと見上げれば、気付いたらしい視線が落ち、その優しさにくすぐったい気持ちになる。
「捜してくれていたんですか?」
「約束したからなぁ」
「わたしとも約束してくれますか?」
「もちろん」
「ああ、それよりもまず名前、教えてください」
緑の瞳を丸くしたと思えばすぐに破顔する。満足そうに、少しだけ気恥ずかしそうに微笑んだ彼がそっと耳元へ唇を寄せた。