月と太陽はまた巡る

何ということはない、流行り病だった。治る手立ての無い、よくある話。貧乏ではないが裕福でもない家では費用の掛かる医者にはそうそう世話になれない。ましてや他の大勢も命を落とす中で、医者すら最初から匙を投げているだろう。街中が、明日は我が身と怯え暮らしている。
家族に移らないよう隔離された部屋で小さな窓の向こうを眺めながら、仕方ないと自分に言い聞かせつつも、心の隅では酷く荒れていた。何故、とみな必ず思うことを例外なく抱え、そうして遺していくあの人を思い浮かべ唇を噛んだ。誰も予想していなかった。ただでさえ一緒に居られる時間が少ないというのにこの仕打ちである。あの人と自分では同じように歩いてはいけない。同じ一歩も、あの人にとっては瞬きひとつですら怪しい。初めて出会ったあの日から変わらず美しい人。穏やかな容貌の内に熱い鋭さを秘める大海の覇者。愛しき祖国。決して交わらない歩みの中で、立ち止まり待っていてくれるあの人にやっと追い着いたところだったが、どうやら神様はその先の道を用意していてくれはなかったらしい。
最期まで見ていたかった。この手に皺が増えて、自由に歩き回れなくなって、あの人が好いていてくれる保証はどこにもないけれど、あの人が手を差し伸べなくなりその背を見つめるだけになったとしても、それでも、海を駆け輝く姿をずっと。
しばらく会っていないあの人を思う。きっと海に出ているのだろう、と小さく笑った。果てなき海とさざめく若木の葉を混ぜて煮詰めた色を鮮明に覚えている。そっと名前を呼ぶ低く甘い声も、柔らかな鳶色の髪も、ゆったりと指を絡ませる仕草も全てが焼き付いて離れない。まだ一緒に居たいと思う。あの人の一瞬で在るだけで良いと思っていた筈が、未練がましくもその温もりに触れていたいと強く。嘲笑が漏れる。あの人に出会わなければ知り得なかったであろう感情は、あの人も同じだと良いのに。不明瞭な意識の中、定まらない思考を持て余しながら考える。年を重ね衰えていく前にあの人を鮮明なまま持っていけるのだな、と。そうして、あの人の中で自分は年老いた姿を見せることなく、華やかなままでいられるのなら、それはそれで良いことなのかもしれない。

鼻先を擽る潮の香りに意識が浮上する。小さな窓から差し込む月あかりが僅かに辺りを照らしていた。どれだけ寝ていたのか、というのはもう考えないようにしている。久しく感じなかった他人の体温に、視線だけでそこを辿る。まるで神に祈る敬虔さを纏い強く手を握る人がいた。癖のある濃い髪を結わえ、長く豊かな睫毛が縁取る宝石を薄い瞼の裏に隠したその人は、固く引き結んだ唇を手の甲へと押し当てていた。微かに震えるそこに、大丈夫だと触れることが出来たのなら良かったのに。残念に思いながら褐色の頬を見やる。涙こそ溢れていないが、ともすれば流れ落ちてきそうだ。指先でその人の手を撫で、驚きに緩んだ手から抜け出し頬に触れた。温かく滑らかなそこにある見えない涙を拭うように、目尻へ指を宛がう。こちらを見つめる盛大に歪んだ双眸に少し笑った。

「泣かないで、Meu lua.」
「行かんといて、Meu sol.」

その言葉に頷くことは出来ない。曖昧に微笑んで、また目元を拭った。うわ言のように名前を口にしながら胸元に額を擦り付けるその人の髪に指を通す。船からそのまま来たのだろうか、肌に触れるそこからは海の気配がした。
かみさま。か細い声が耳に届き、泣きそうになった。

「聞いて、愛しい人」

努めて優しく、いつもこの人を甘やかす時のようにそっと言葉を降らせる。ひとつ、額を擦り付けてから顔を上げて、返事の代わりに軽く唇を押し当ててきた。今まで一度たりとも見たことのない面差しだ。こめかみに指を滑らせ、頬に手を当てる。もっと、と言わんばかりに肌を押し当ててくるのが堪らなく愛おしい。またひとつ、伸びあがって唇が重なる。

「わたしはもうここには居られないけれど、また会いに来るから。必ず、何度でも、会いに。だから、次のわたしも、その次もずっと先までみんな…愛してくれる?」

何ということもない、この人を慰めるための言葉遊び。ただの例え話。この場限りの、有り得はしない与太話だ。

「待っとう…ずっと待っとうよ…やから、絶対に会いに来て」

あでやかな宝石から雫が零れ落ちる。指先を濡らすそれは何よりも温かく感じた。またね、と重なる唇に直接吹き込む。返事はなかった。ただ、触れた唇が小さく震えた。
ああ、自分は今まで、これからも、この人の一瞬になれただろうか、なれるだろうか。ほんの僅かでも良い。この人の傍にいても良い存在に。




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