故郷から遠く離れた大陸の端では、このご時世であっても日本人がひとりで来ているというのは珍らしく映るようだった。一般的に日本人の多くは団体で行動するという意識がどの国、特に年配の方々の中では強いのだろう。団体旅行が減ったとは言え、確かに複数で行動する人は多い。ひとりでいる事が物珍しく目に留まるというのもよく分かる。やはり印象の残りやすいのだろうか、そのお陰で市場などでは顔を覚えてもらい易く、気に掛けられたり仲良くしてもらえたりとメリットもあるため良い思いをすることもまた事実だった。勿論、良からぬことに巻き込まんとする輩もいないわけではないが、そこは自衛と運次第である。そういった良くも悪くも視線を投げるのは何も現地の人々だけではない。旅行に来ている同郷の人達からも向けられることもあった。日本人は何故か海外で同郷に会うと嬉しくなり声をかけたくなる魔法にでもかかっているのだろうか、結構な確率で話しかけられる。言葉が通じれば写真なども頼み易いのかもしれない。概ねその場で別れるが、時折行動を共にしないか、飲みに行かないかと誘われることもある。店にいたその場であれば笑いながら杯を傾けることもあるが、連れ立って行くことはしなかった。面倒という理由が第一ということと、彼がどう思うかが心配だった。大らかで優しく、ふわふわとした性格の彼であれば気にせず笑んで終わるかもしれないが、あれでいて我の強いところもある。
いつだったか、どこかで見たポルトガル人男性は独占欲が強い、浮気を許さない人が多いという記事が頭を過るのだ。当てはまる可能性は大いにある上に、そもそも500年近くたったひとりを想い続けているという時点でその深さは察して知るべしである。あの笑顔が悲しみに染まるところは見たくはない故に、断る以外に選択肢は持っていなかった。
しかし、いくら自分が回避しようと相手によっては面倒なことになる、というのを今、身をもって体験していた。地図を広げている同郷の集団を見かけたため、迷っているのかと親切心が鎌首を擡げてしまったのだ。お人好しだと彼に言われたこともあるが、だからと言って見て見ぬふりはあまり出来ない。大学生だろうか、見事に男ばかりの集団に声をかけてそのまま引き留められているのだが、早く解放して欲しいという気持ちしかなかった。ここまで来て引っ掛けるのが日本人というのは寂しくないのだろうか、というのは飲み込んでおく。現地の危ない人たちに囲まれることは最悪の事態として想像出来たが、まさか同郷にされるとは予想するのは難しい。距離をとりつつ彼に連絡をと考えたが、無慈悲にも出掛ける際に彼の端末を机の上に見ていた。携帯しないで何が携帯電話か、と何度も説いているものの、改善される目処は経っていない。彼がそれで困らないのであればこちらが諦めるしかなかった。
待ち合わせの時間まで少しあるが、今日に限って少し早めに来る奇跡は起こらないものか。自然と深い溜め息が漏れる。先ほどから距離を詰められることが不快で仕方なく、元々パーソナルスペースが広く初対面で近付かれることは嫌いだ。諦めてどこかへ行って欲しいが、全くもってこちらの拒絶には気付いていないようだった。はっきりと断れど、良いからや遠慮しないでとしか返れないので会話をすることは不可能なのかもしれない。女のひとり旅は大変などと言われたとして、既に籍をこちらに置いているので何も問題はなく、何かあった際に大変なのは向こうの方なのだ。
もう一度盛大な溜め息をひとつ。時間を確認すれば約束まであと数分ある。仕事が長引けば時間通りに来れないかもしれない。仕事先から電話でも入れてくれないだろうか、と考えていた所為で伸びてきた手に反応が遅れた。肩を掴まれ、背中に悪寒が走る。流石に怒り振り払おうと腕を上げた瞬間、後ろから出てきた手が腰に周り抱き寄せられた。嗅ぎ慣れた甘い香りに安堵の息が零れる。にこやかな面持ちを上目見た一瞬でしか捉えられていないが、その目の奥は決して笑んでなどはいなかった。嵐が来る前の嫌に静かな海に似ている。そのまま顎を掬われ、挨拶代わりの口付けは相手への当てつけでもあると、言わなくても分かった。
「何、しとうの?」
「絡まれてた」
「ふぅん」
そのまま蟀谷に頬擦りをする彼の頭を撫でる。こちらに向く視線は満足気であり、いつもの様に暖かなものであるのに対して集団に向けるのは冷ややかで、ともすれば凍り付いてしまうのではとすら思う。現に、威勢の良かった集団はひとりたりとも微動だにせず、流石元ヤンは視線が強い。悪いことは言わないのでここで早く去って欲しい。彼のこういった態度は初めての為、こちらもどう動いたら正解なのか分かりかねる。腕の力は緩むどころか強まる一方で、骨の軋む音が聞こえてきそうだ。その間も彼の視線は集団に向けられていた。少しして、誰かが行こうと口にしたのを皮切りに他が後退り始めるが、目の前の子だけは面白くなさそうに動かないでいた。否、可哀想なことに睨まれ動けないのだ。冬の海を思わせる冷たく鋭い眼差しに射られ、逸らすこともままならないのだろう。これにはほんの少し同情するが、肩を掴んだのもこの青年のため自業自得だと思えばそれも露と消えた。
「"身の程知らず"」
囁きと同時に金縛りが解けたと言わんばかりに弾かれた様に身を揺らした青年が大きな舌打ちをして踵を返す。今の時代で良かったな、としか言えない態度だった。世が世であればその顔面は大きく腫れ上がっていることだろう。
こちらの安堵を意に介さず得意気な彼は満面の笑顔で別れの挨拶を送っていた。黙って見上げていれば、気付いて視線をくれる。すっかり普段の、揺れる海と若木の葉を混ぜて作られた一等美しい瞳に戻っていた。
「よくそんな言葉知ってたね」
「日本に教えてもらっとう」
「日本語を?」
「お前の言葉も知りたいよぅ」
昔は貿易で一時的に深く交流があったことは学生の時分に授業で扱われて知っているが、今も個人的な交流を続けているのだろう。少し意外だと感じるのは、彼が隣人以外と話している想像がつかないからだ。会議などで他の国と言葉を交わすこともあるとは思うが、親しい所までというのは知らなかった。その言葉の通り、何も知らないだけで、彼には彼の交流があり、抱えているものがある。自分に対する彼しか知らないと気付くと少し胸が苦しくなった気がした。一瞬のそれは気のせいかもしれない、と言い聞かせ息を吐く頬に彼が甘えた仕草で自分のを合わせてくる。安心した、と言われているようで、しばらくは好きにさせた方が良さそうで、旋毛に額を押し付けてくるのがくすぐったくとも甘んじて受けよう。彼が来なければあれよりも面倒なことになっていたに違いない。猫に似た仕草で懐いていたが、ふと離れて静かに見下ろしてきたと思えば、普段から困り気味の眉を更に困らせながら唇を歪めている。言いたいことがある顔だというのは一目瞭然だった。いくどか泳いだ瞳の鮮やかさは成りを潜め、翳りを見せていた。背に回された腕に込められた力は縋る様で、言葉を探していると伝えて来る。どうしたのか、と背を撫でてから抱き締め返したところで言葉を見付けたらしく、ひとつ頷いてまた旋毛に頬を押し付けた。
「知り合いやと思うた」
「さっきの?」
「こんなとこで話すんやし、よっぽど親しいんかな、て」
同じ日本人とくれば彼からすれば異国に来てまで声を掛けるほどに親しい知人に見えてしまったのだろう。納得して頷くこちらの手を取り歩き出す後ろを素直についていく。いつまでもここにいる必要も無いので当初の目的である店へと向かっているに違いない。道すがら、同郷を見かけるとつい声を掛けたくなる性質を少なからず持っているのだと言えば、ただ不思議そうに首を傾げられてしまった。こればかりは分かりかねるとは予想出来る。自分もまたその心境はあまり理解出来なかった。今回は迷っていそうだったので人助けとして声を掛けたが、ただそこにいるだけでは気にとめることも無かっただろう。進んで見ず知らずの人に関わりを持ちに行きたくはない。
分からないことは分からないままで良いと、腕を組んで歩く気分らしい彼に誘導されたまま自分のを絡め見上げる。目を細め満足そうにするところが愛らしい。そのまま額にキスをされて身を捩った。
「何で俺以外にあんな近くにいるん許しとう?」
「ん?」
「何をそんな話すことある?」
「うん」
「そう考えたら、胸が嫌な感じになっとう……」
空いた方の手で胸元を押さえ顔を顰めては何とも言えない面持ちをしているのに目を丸くする。馴染みのない感情を持て余し、どう消化して良いか決めあぐねているのだろうその横顔には、苛立ちや不満といったものの他に疑問の色も浮かんでいた。所謂、嫉妬だろう感情だが、今まで抱くことはなかったのだろうか。それこそこちらが疑問を抱いてしまうものの、今まではこうも強く感じたことが無いのかもしれない。国であるこの人が人間を妬む理由はどこを探してもあるはずがなかった。同じ国相手であればその限りではないが、それとはまた嫉妬の種類や意味合いが違う。今までの自分はよっぽど異性だけでなく他人との交流がなかったと見える。そうでなければとっくの昔にこの感情に出会っているはずだ。
恋や愛が真白で柔らかく温かいだけではなく、今の様に暗く重いものを伴うものだと知れば嫌になってしまうのだろうか、無くても良いものだと切り捨ててしまうだろうか。未だ柳眉を寄せる整った横顔を見た。
「話すなとは言えん」
「うん」
「けど、あんな近く寄るんはあかん」
「わかった。気を付ける。」
どうやら心配は杞憂に終わりそうで、返された眼差しには甘えが含まれている。彼も子供ではないので自分の我が儘で制限を掛けることは出来ないと分かっているらしく、距離を保つ妥協案を提示され苦笑する。確かに接する人を限定しては生きていけないためその申し出は全力で肯定させてもらう。頷き、手を握り返し見た彼は安心した様子で笑んでいた。その瞳にはもう先ほどの負の色は見えなかった。それどころか、何かに気付いて嬉しげなものに変わっている。眩しい夏の日差しにも似た輝きを持つ生き生きとした双眸に見下ろされ、訳が分からず眉を顰めて少し高い位置にある鼻先を摘まんだ。
「堪忍」
「なんですかーその顔は」
「ちゃんと人を好きになれとう」
「ああ、そういう」
「この嫉妬は、お前んこと愛しとう証拠や」
「うん。愛されてるよ」
それはまるで無垢な子供の笑み。知りたいと、抱きたいと思っていた感情を用いなければ知り得ないものを手に入れたからこそのそれだった。蕩けるような蜜を惜し気も無く使用したかの如く甘やかな微笑みは、こちらを見つめる美しい緑に籠められ真っ直ぐに届く。気圧されてしまうまでに煌めく中にある情に気付かないほど間抜けてはいない。これが長年積み重なってきたものかと思うと、以前の自分たちは凄いものを遺してくれたとなるばかりだった。
「前のわたしたちのときはなかったの?」
「あった……かもしれん。けど、お前が一等ふらふらしとうもん」
「つまりわたしがかなり自由ってことね」
「今のお前も好いとうよ」
「分かってるよ〜」
少し慌てる彼に笑う。ここで比べられたりしたとしても悲しむことも嫌うこともないが、彼の方はそうは思えなかったらしく、以前と比べられて自分から気が離れてしまうかもしれないと思ったようだ。甘えた仕草で擦り寄り機嫌を取ろうとするところは人間よりも人間みがある。懐くことを止めない頭を撫で、大丈夫だと言えばゆっくり瞬いて嬉しそうな顔を見せてくれた。豊かな睫毛の奥で揺れる輝きに眩暈がしそうで、この顔に弱いのだと零れそうになる悔しさをそっと飲み込んだ。
今の季節、ポルトガルはとても過ごしやすく、外にいたとしても不快感はあまりない。
穏やかな海風が通り過ぎて行くのを感じながらビッカを啜る。折角だからと選んだテラス席は正解だった。目の前の彼も機嫌良さげに菓子を頬張っていて、たまに常連らしき人たちと楽しそうに言葉を交わしている。年配の方が相手でも歳の差を感じさせないあたり、やはり彼らの祖国なのだと改めて納得した。やれあの時はこう、あの年はああだった、けれどどうだったか、そんなことは忘れてしまったなどと言いながら彼はその美しい顔に懐かしさと愛おしさを浮かべている。時折、寂し気な色が混ざるのは所謂サウダーデと称するものか、それでも満ち足りた空気を纏っていた。
こういった時間が好きなのだろうことが何をしなくても分かるので、人を集めては更に盛り上がる彼らの声に耳を傾けていた。その中に紛れる彼の声だけが異質で、けれどこれほどまでに馴染むものはないと、そう思った。とうとう酒まで姿を見せ、鎮まるところは暫く見込めない。当初の目的は済ませている為、どれだけ足が伸びようともさした問題ではなく、飲んでも良いかと窺いたてる大きな子供にひとつ手を振った。
そう言えば、と輪の中でも年配の部類にいる老人がこちらを向いて言葉を投げかけてきたので紙面に落としていた視線を上げる。深い皺の刻まれた目尻が下がり、やっぱりとその人は笑った。何がという言葉は飲み込み続きを促す。話を遮ることは良くない。栞代わりの紙を挟み閉じた本を机の隅に寄せた。
「あんた、俺がガキんときもこの人とおったやろ」
「ワシも見た事あるなぁ」
口々に言われたとして、どう返すことが正解だろうか、唯一理解している彼を見れば、先ほどまでのほろ酔い気分をどこへやったのか柔らかだった表情を硬いものにしていた。その様子に気付かない老人たちは呑気に昔話を始めるので、滅多に聞くことが出来ないそれに続けて、と手で促す。彼らがまだ幼い頃ということは前回の自分から今までの期間はかなり早いことになる。今までがどのくらい間を空けていたか知りもしないので何とも言えないが、短い間で会え良かったと思う。百年単位で彼をひとりにすることが無かっただけでも安心している。もう駄目だと言わんばかりに顔を覆い天を仰ぐ彼に思わず笑ってしまったことを許して欲しい。自分の過去を話されていると云うよりも、以前の自分の話をこちらの耳に入れたくないからに違いなかった。それでも強く止められないのは、彼がこの人たちのことも大切に思っているからなのかもしれない。楽しい時間を阻害することは、本意ではないと。
酒も手伝い淀みなく紡がれる内容に頬を緩ませ相槌を打つ。全ての話を聞き終わる頃にはすっかり机に伏してしまった彼が居た。そこまでされたくないことがあったのだろうか、特に引っ掛かる話は無かったので素直に聞いていたが、当事者にとってはそうもいかないことも混ざっていたのかもしれない。
酒も無くなり時間も気にする頃合いか、気分良く解散していく方々を見送った今、残されたのはまるで世界が終わりを迎えると言われたかの如く悲壮感を漂わせた彼と、苦笑いをする自分しかいなかった。嘘の様に静まり返った空間がどこか寂しくて、すっかり閑散としたテラス席は哀愁を帯びているとすら見える。テーブルに伏せた頭を横目見て、少し迷ってから手を伸ばして癖毛を撫でた。
「別に、前の話を聞いたからって、何も変わらないよ」
「……そうなんやけど」
「まだ信じてないな?」
「俺かて不安にもなるんですぅー」
「私はね、結構早く会いに来られて良かったと思ってる。貴方とはなるべく沢山一緒にいたいからね」
伏せたまま顔だけをこちらに向けていた彼の髪に指を通して頬杖を突く。酒精を摂ったからか、ほんのりと温かい。よっぽどのことが無い限り手酷く酔わないらしく、帰宅の心配はしておらず、気の済むまで駄々を捏ねさせてから帰ろうと見下ろした緑色が驚きを孕みながら丸くなっていた。何をそう驚くことがあるのか検討もつかず、髪を撫でる手もそのままに首を傾げて彼を呼んだ。ぱちり、と瞬きをひとつ零して、茫然と見上げていた彼の表情がみるみるうちに綻んでいく。嬉しいような擽ったいような、そんな顔だった。安心もあるのだろう、この人は以前の自分の話をすると愛想を尽かされると思っている節がある。彼自身からすれば全て同じ存在で大切にしているが、こちら側からすれば知らない過去の女と重ねて見ていると考えても可笑しくはなく、彼が忌避すべきと捉えていても間違いはない。それは確かに相手の顔色を窺うだろう。いくら事情を知っているとしても、嫌なものは嫌であり、拒む可能性もある。しかし自分を相手にしているのであれば心配は無意味でしかなかった。以前、似た問答をした際に気にしなくて良いと伝えていたが、こちらが気を遣っているか我慢をしているかとでも思っているのだろうか、可愛い人である。
妙に神妙な面持ちでこちらを見上げる瞳に微笑んでいることが気に食わないらしく、ますます柳眉を寄せた。
「なあに」
「理解が有るんはええけど、全く嫉妬されんのもなぁて」
「癪なの?」
「ちょっとだけ。我が儘やなぁ俺」
好きだからこそ嫉妬をする。そういうものだと理解した彼にとって引っ掛かるものがあるらしい。ままならない感情を持て余していることは容易に想像が出来た。確かに、いざ自分がそちら側になったとして全て許容される現状は些か違和感を抱くものになるだろう。実際は自分のことなどどうでも良いが為に許されている、諦められていると受け取ることも出来る。
伝えることは難しい、と首を捻った。もっと一緒にいたいと思い、以前の自分を想うのであればその分今の自分を見て欲しいとも考えた。もしかしたら自分が一番になれるのかもしれないと、思ったこともある。けれどそれは嫉妬と言うには、それ以上に暗く重い欲だ。第三者であるあの人を妬むのではない、彼に対して欲にまみれた重苦しい気持ち。彼には知られてはいけないものだと思う。
黙って抱え込んだことに痺れを切らした緑の双眸が覗き込んで、瞬きの音が聞こえると錯覚するほどに距離を詰めてきた。揺らめくその輝きの内にしかめっ面をした女が映り込んでいる。甘えた仕草で鼻先を擦り合わせるのを甘受すれば、一段と嬉しそうに笑った。いくら待たれても答えを伝えることはないため、帰ろうと頬を撫で蟀谷を辿る。未だほんのりと温かいそこを指で擦ってから髪を梳いた。大人しく頷いた彼が少しだけ拗ねた目をしているのは嫉妬に対する明確な答えを得られていないからか。じっとりとした視線は、言葉が無くとも彼の気持ちを伝えた。
普段の様子を見ていれば気にしなさそうなものだが、と立ち上がった流れで撫でた頭を見下ろす。追いかけてきた視線はどこか幼く、姿勢もある所為で可愛らしいとしか思えなかった。嫉妬、やきもち、と考え目を伏せる。何かしら彼の納得のいくものは無いかと思考を巡らせる辺り、本当に甘い。本当のことは言えないが、他にも出せるものがあるかもしれない、と腕を組む。自分のこと、彼のこと、出会ってから今までを思い出しては何か違うと隅へ追いやっていく。あれこれと案を出してみたものの、やはり以前の自分に対してはこれと云って当てはまることは無かった。あるとすれば昔の彼を知っているという点だが、これも彼の望む嫉妬として見ても良いものか分からない。羨ましいと思うことであるなら間違いは無いが、果たして彼がこれで納得してくれるだろうか。
「さっきのおじさんたちが昔の貴方を知っていて羨ましいと思ったよ」
「あいつらが?」
「昔の私も、私の知らない貴方を知っているのが羨ましい」
「やきもち?」
「私の知らない貴方を持つルアが、妬ましいよ」
「っ、」
見上げる目尻をそっと指先でくすぐり吐き出した言葉は、どうやら彼の目の色を変えるには十分過ぎたらしい。大きく見開かれた美しい輝きは嬉しさと驚きと、少しの興奮を湛えている。紅潮した頬と機嫌良さげに上がった口角で手に取る様に分かった。案外、表情豊かな彼は、余裕を持った状態では驚くほどに読めないが、咄嗟のことであればその限りではないのかもしれない。
笑顔のまま立ち上がり手を取られる。にっこりと、いっそあどけない無垢な少女を思わせる微笑みを浮かべ身を寄せる姿は、ただただ幼く庇護欲を掻き立てるものであった。気に入った解答だったのだろう、先ほどまでの拗ねた様子は露と消え今は喜色を浮かべるばかりである。やきもちというのは面倒事だと考えていたが、国と人とでは捉え方が違うのかもしれない。彼が喜んでいるのであればこれ以上は何も言うことはなかった。
「お前が俺んことしか考えとらん思うと、やきもち妬かれとうんもええなぁ」
「普段もわりとそうなんだけどね」
「え〜ほんまぁ?」
柔らかく表情を崩し笑う横顔を見上げ肩を竦める。足取り軽く数歩前を行く身体は楽し気に揺れていた。西日が強く照らす。街全体を淡く朱に染める中で茶色の癖毛が金に縁取られるのも、その宝石の様な瞳に射し込んだ陽光に輝き色付くもの全てが美しく眩かった。頬に影を落とす豊かな睫毛の奥の強い眼差しを遠くに投げ、満ち足りた面持ちのその人を、ずっと前から知っている自分に少しだけ嫉妬した。