いつかその果てに辿り着く

終戦の兆しが見えながらも未だ続く戦火から逃れるため、生まれ故郷を離れ早数年。どこか故郷よりも慣れ親しんだ感覚のするこの国でひとり、細々とではあるが穏やかに暮らしている。どちらの側にも手を貸さず、ぼろぼろになりながらも中立であろうとし続けるこの国は確かに貧しかったが、平和には代えられない。誰しもが家族や大切な人と共に笑顔で暮らせる未来を願っていることだろう。町の人々の話によれば、その日ももう間もなくとのことだった。
生憎、自分にはそのような未来を共に見る相手はおらず、さしょに頼った親戚とも離れ独り身である。いつまでも親戚の元に居られないことは預けられて直ぐに理解出来た。上の子は既に嫁ぎ家にいないのでまだ良いが、下に幼い子がふたり、将来を考えると居候に金を掛けているのは惜しいはずだ。気にすることは無いと言ってはいるものの、本心までは分からない。疑心暗鬼の中で精神をすり減らし続けるのであれば家を出た方が自分のためにも、相手のためにもなる。渋られはしたが、近所に住むことを条件に独り立ちをしたのが去年の話だ。今は両親が持たせてくれたいくらかの財と自身の稼ぎとでようやっと生活している状態だった。先のことを思い、両親の金には極力手を付けたくはない。使えば幾分かの余裕のある生活が出来ると分かっていながらも、やはり手を出すことは出来なかった。そういうこともあり、未来を思うより明日を考える方が何倍も重要である。誰かと、などとは選択肢にはなかったのだ。彼と出会うまでは。




海から抜ける冷えた風は幾分か湿度を孕み、徐々に体温を奪っていく。騒がしく飛び回る海鳥の群れが、まるで今日は大量だと言い触らしているかのようだった。強い風が暴れて、容赦なく揉まれながら、それでも港へ顔を出すのは馴染の漁師から売れない魚を貰う為だ。食べるところが無い魚でも料理の足しにはなる。少し仕事を手伝えばしっかりしたものを分けてもらえることもあった。最初のうちはよそ者で女ということもあり冷たくあしらわれていたが、人間は根負けすることも多い。諦めた漁師たちは体の良い廃棄処理という建前の下、譲るようになり、気の良い人はこっそり魚以外のものを混ぜてくれた。時世のせいで過敏になっているだけで、本当は穏やかでおおらかな気質なのだ。
いつもの籠を携え向かった港からの帰り道で、いつもは素通りする路地からやけに猫が鳴いているのが聞こえで思わず足を止めた。今の荷物を思うとあまり行きたくはないが、鳴き方が気になって仕方ない。何かを訴えかけているかのようなそれらに呼ばれている気がして、少し躊躇した後、結局そちらへ向かった。薄暗い路地はお世辞にも安心とは言えず。早く立ち去りたい気持ちで堪らない。自分とは違い家も手にすることの出来ない人たちが自ずと集まっている。質はどうであれ食べ物を持った女ひとりなど恰好の餌食となるだろう。急いた気持ちのまま猫の声を辿る。段々と近くなる鳴き声はもう目と鼻の先、角を曲がった行き止まりに、その原因はいた。
たむろする猫たちに混ざって見えたのは人の脚と、無造作に投げ出された手だった。完全に弛緩しきったそれは死んでいる様にも見え、生きているのか一瞬判断に苦しんだ。けれど辛うじて上下する肩に胸を撫で下ろす。汚れが目立つものの上等な衣服に身を包んだ青年はまるでぼろ切れの風体だった。息が有るとは言え決して安心出来ないのは胸元を大きく染めている黒の所為だ。だいぶ時間が経っているそれは十中八九、血だろう。髪にもこびりついているのか、緩やかな癖毛の一部は無残にも固まってしまっている。しっかり呼吸を確認しようと近付いて、鼻につく錆びた鉄のにおいに顔を顰めてしまった。このまま放っておくことは出来ない。自分ひとりで手一杯な生活をしていることも、女のひとり暮らしで男を招くことの危険も全て承知の上だった。それでもこの人をこのままにしてはおけないと本能が訴えかけていた。この手を離してはいけないのだと、そう強く感じたのだ。籠の中の魚に釣られて群がる猫たちに小さな魚を取り出し見せつけてから遠くへ投げる。追いかけ離れていったうちに男性の下に身体を滑りこませ、肩を貸す要領で持ち上げた。その辺の女性よりは力が有ると自負しているが、流石に意識の朦朧とした成人男性を担ぐには足りない。声を掛けたら辛うじて足を動かしてくれたのは幸いした。半ば引きずるようにして向かった自宅がそう遠くはない場所に在ることをこれほどまでに感謝したのは後にも先にも今だけだろう。
時間をかけて運び入れた時点で既に疲労は大きいが、ここで終わりではない。汚れた衣服を脱がせ寝具へと放り込む。元々は真白だと思わしき服の染まり具合から外傷の心配が大きく占めていたが、一瞥した肌には古傷が残るばかりで胸を撫で下ろした。となれば内傷が酷いと考えられるが、呼吸は落ち着いているのでその線も薄い。それでは、と顔をまじまじと見てひとつ気付くことがあった。顔の汚れを拭いながら、完全に意識を落としている青年を見る。間違いはない。固く閉ざされた今、瞳の色は窺えないものの豊かな睫毛が縁取るそこはきっと美しい緑をしているのだろう。凪いだ海と若木の鮮やかさをひとつにした至高の一品。目元のほくろと、柔らかな癖毛は今でこそ血を浴びて首に張り付き固まってはいるが結わえた姿を想像することは容易く、そこから導き出される人物はひとりしか知らない。
愛すべき祖国。移民でありながらも受け入れることを是とした、美しい国。外傷がほぼ見当たらないのも既に治ってしまっているからだと考えられる。その美しい顔に苦悶の色を浮かべながら深く眠りにつく姿は、街の人々が話していた雰囲気とは異なり、今にも手折られてしまいそうな花を思わせる儚さと細さだ。如何にこの国が疲弊しているかを如実に表していた。まさに虫の息と言っても過言ではない国が何故あの場所で、まるで死を待つかの如く倒れていたのかは分からないが、拾って正解だ。
取り敢えず今は意識の回復を待つしかない、と濡れた布で髪に付いた血を拭いとろうとしてみたが上手くいかず、顔を顰めていたところで不意に彼が目を開けた。本来であれば煌めく眼も、今は光の届かぬ海の底を思わせるほどに虚ろでありこちらを認識しているかすらも怪しい。何も映さないがらんどうのそれがゆっくりと動く。どこまで意識がはっきりしているのか確認のため覗き込んでみれば、かさついた唇が音も絶え絶えに呼んだ。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声に間違いかとも思った。けれど確かに、彼は呼んだのである。まごうこと無き、こちらの名前を。 驚きに瞠目したことも気付いていないのか、彼はとろけるような微笑みを向けた。その、うっとりするほどの艶やかさを持つ笑みに眩暈のする思いだ。どうして、と問う前にまた眠りに落ちたその人を見下ろしながら、真冬に海に投げ出されたかの如く冷えた身体を擦り後ずさる。国とは民の名をひとりひとり覚えているものなのか、とも考えたが、そのようなことは有り得ない。先ほどよりも格段に落ち着いている様子のその人は、けれどこちらの疑問に答えることは、ないのである。

仕方なく、肝の冷えた思いは胸の内に仕舞い込み汚れを拭っていく。答えのない疑問を抱いている暇があれば他にすることを優先すべきだ。直ぐ濁る水がその酷さを具現化している。何度か繰り返した間も意識が戻ることは無く、ただされるがままに身を預けて穏やかな吐息を零していた。身体の心配は彼が目を覚ましてからするとして、後は衣服が問題だった。この家に男物はなく、脱がして転がしてある彼の持ち物が全てである。綺麗にして着れる状態に戻すまで下着でいてもらうしかあるまい。本来であれば下着もきちんと整えたい気持ちでいっぱいだが、そこまで脱がす勇気はなかった。無造作に散らばった上質な布たちに安物の糸を通していくのは何とも言えない気分になるものの、だからと言って衣服が無いことはそれ以上に困ることは明白である。背に腹は代えられない。溜め息を零し、まずは洗濯をと手に取った下穿きの中から落ちた何かが硬質な音を立てて床に転がり出た。大ぶりのそれは一目見て高価だと分かる艶やかさと華やかさを持っている。生い茂る木々と揺らめく水面の境のような、それは美しい様相だった。飾り気のない、だからこそ色が映える形状はぬめるような輝きでもって存在を主張している。触れることも戸惑う耳飾りを拾い、対ではないのかと下穿きを探った。指先に当たった感触をそのまま挟んで引き上げれば、ささやかな部屋の明かりを浴びて薄らと煌めいた飾りが手に収まる。まったく同じ形をしたそれはきっと彼の大切なものなのだろう。肌身離さず所持しているところが何よりの証拠だ。起きた際に慌てないよう枕元へと置いて家を出る。盗まれて困るものは貰ってきた魚介くらいか、溜めてある金は床を外さなければ見つからないので大丈夫のはずだ。共用の洗濯場で洗うには良くない汚れは、けれど自宅に設備が無いので致し方ない。来世ではもう少し良い暮らしが出来ることを祈るしかなかった。
洗濯の帰りに親戚と鉢合わせて苦虫をみ潰したような顔をしてしまったが、脱水機えお借りれたことは大きく、安いからと男物を着るのではなくきちんと女物を使いなさいと変に勘違いしてくれたことは助かった。適度に相槌を打ってから戻ってきた我が家は変わらず静まり返っている。まだ目を覚ましていないのか、覗き込んだ寝台の上で彼の胸は規則正しく上下していた。火を起こし、近くに衣服をかける。少しでも早く乾いてくれると良いが、果たして彼が目覚めるまでに補修まで何とかなるだろうか。様子を気にしつつ魚の処理に取り掛かる。時折、服の具合を確かめながらいつもの日課をこなしていった。



結論から言って彼は日課が終わるまで起きることも無ければ、服の修繕が終われど身じろぎひとつせず、就寝時となっても微動だにしなかった。いくら火を焚いているからと言って寒いだろうと服を着せても、うんともすんとも言うことなく滾々と眠り続けている。一生目覚めないのではと心配になるほどの彼は、こちらの杞憂も構うことなく、数日経てどその美しい瞳を拝ませてはくれないのだ。その間、床で寝ていた所為で身体のあちこちが痛んだが、自分でこの状況を作った手前文句は言えない。動くと変に節々が鳴る身体を擦り台所に立つ。彼がいつ目を覚まして食事が必要になっても良い様に味の薄いものを用意しているが、果たして今日こそはその役目を全う出来るのだろうか。また自分の胃に収まってお仕舞、ということも有り得た。中身をひとつかき混ぜて蓋をする。残りは余熱で火を通して、と手を伸ばしたところで寝台の軋む音が飛び込んできた。慌てて蓋をして様子を見に顔を覗かせた先、緩やかな陽を浴びてその輪郭を金に染めたその人が上半身を起こしてぼんやりと窓の外を眺めていた。その何と絵になることか、淡く陽に照らされた姿はまさに宗教画だった。頬に影を落とす豊かな睫毛を震わせ、こちらに気付いて顔を向ける仕草さえも言葉に出来ないほどに美しい。光が乏しくこちらを見ていた彼が大きく瞬き目を見開く。信じられないものを見るような眼は、こちらがしたいものである。

「大丈夫ですか?」
「っ、あ……」
「水、どうぞ」
「あ、りが……とう」

数日間飲まず食わずではそうにもなるだろう。器を受け取り力なく微笑む彼に待つように言い、やっと出番の訪れた鍋の中身を掬う。具はほぼ無いが、弱った胃腸にはと丁度良いはずだった。湯気の立つ器を見下ろし、少し考えている様子の彼がそっと口を開ける。控えめながらも、確実に飲ませろと訴えかけられては病人ということもあり断ることは出来なかった。誰かに甘えられることも無いため断り方が分からないとも言う。乞われるがまま食器を口元へと運べば、何の躊躇いもなく、与えられるものに警戒することもなく当たり前に飲み下したその人は嬉しそうに表情を緩ませた。伏せられた睫毛が僅かに震え、少し弧を描いた唇が艶めかしい。いたたまれぬ気持ちのまま目を逸らせないでいれば、口を開いて残りを催促される。食欲が有る様で安心する反面、器が空になるまで続くのだろう一種の拷問じみた行為に肩を落とすのだった。

「ん、ごちそうさま」
「気持ち悪かったりしません?」
「平気」

全てを綺麗に腹におさめた彼は満足気に目を細め身体を伸ばす。痛みなども無いのか、平然としているので世話を焼くこともあまり無いのかもしれない。空いた器を片付けるべく立ち上がったのを追う緑の瞳が、どこへ行くのだと問い掛けてくる。捨てられた犬猫にも似たそれにむず痒い気分になって良くない。器を示して納得がいったのか何も言わず再度、寝具へと沈んだ。深く息を吐き目を閉じる様子にひとつ額を撫でて踵を返す。胃の為にも今日はこれだけとなる人を目の前に自分だけ固形物は食べにくいな、と皿を洗いながら溜め息を零した。どこまで人と同じ造りをしているか分からないので、もしかしたら明日には何でも食べられる体調になっているかもしれないが、直接聞くには失礼過ぎる。いくらか考えてはみたが、答えの出ないものにいつまでも頭を抱えているのは時間の無駄でしかない。明日また考えることにして鍋の残りを飲み干し寝室に戻れば、微睡みに身を委ねる彼が美しい瞳を睡魔に溶かしているところだった。伏せられた睫毛が影を落とすまでに豊かな睫毛を羨む反面、この人だからこそのものだろうと声もなく息を吐く。気配に敏感なのか、覗き込んで直ぐこちらに気付いて顔を上げた彼の眼は玩具を見付けた子供の如く輝き、先ほどまでの気怠さは露と消えた。こちらへ、と言葉無く乞われ、断る理由も持てず彼の意志のままに歩み寄る。それでも身体を起こさないことから察するに、落ち着いたとは言え体調が全快とはなっていないのだろう。国の状況からして体調は少し眠ったくらいでは誤差の範囲ということか。
けれど折角意識が浮上しているのだから気になっていた髪を何とかしたい。彼には悪いが、すっかり張り付いている髪をそのままにしておけないことは明白で、けれどこの安部屋に風呂場などあるはずもなく、現状は洗濯用の大きな桶に湯を張る手立てしかなかった。きちんとした湯浴みは彼が自宅に帰るまで我慢してもらい、今は簡易的で妥協して欲しい。本当に、もう少しましな部屋に住みたいものである。
枕に顔を埋めながらぼんやりする背を撫でて起き上がるように促す。視線だけを向けたあと、寝台の淵に腰掛けていた太ももへと這ってきた彼の頭が乗せられ甘えた仕草で擦り寄られた。甘やかにとろけた色の双眸を見てしまえば飛び出しかけていた小言も途端に大人しくなってしまう。このまま好きにさせていたい気持ちもあるが、やはり指先を掠める髪の感触を放置してはおけない。例え湯で流したとしても綺麗になるのか期待は出来なくても、だ。上等な石鹸があれば違うのだろうが、生憎とそこまで贅沢はしていられない。その金が有れば肉を買う。
うとうととし始めた頬を軽く叩く。身綺麗にしなければと頭を撫でて言えば、気付いた様子で自身の二の腕に鼻先を押し付けていた。確かめるみたく数度鼻を鳴らすので苦笑していたら拗ねた表情で身体を起こして盛大に眉を顰められてしまう。整った顔立ちのせいでとても迫力があることを自覚していないのだろう、思わず後退ってしまった。けれどその気になってくれたことは好都合でしかなく、これ幸いにと湯を沸かすために立ち上がる。目で追い縋るのでもう一度頭を撫でた。ゆったりと細められた瞳と柔らかな面差しはまるで猫が喉を鳴らしているとも思えるほど機嫌が良いことを示していた。素直に可愛いと思う。何も知らないこの人をすっかり懐に招いていることを自覚しないほど鈍感ではない。愛すべき国だからだろうか、どうも彼には負の感情を抱くことは出来なかった。以前から知り合いのような、ともすれば親しい間柄だったと言われても納得してしまうほどだ。一挙一動、仕方ないなと受け入れてしまう不思議な感覚が胸の内に渦巻き身体を巡っては満たしていくようだった。火にかけられた鍋の中、徐々に煮立つ水面にもにている。
ぼんやりと考え込み、それから我に返って湯を桶に移す。沸騰までさせるのはやり過ぎてしまった。新しく湯を沸かしながら溜め息を吐いて鍋を覗けば、情けない顔の自分がいる。ここ数日慣れない事ばかりで疲れが出ているらしい。確かに、他人が居る空間で寝るのは怖いものが有り、いつ容体が悪化しないとも限らない中で常に気を張っていたところも加算点と言える。そして何より月に一度にお金をかけてきちんとした食事をする日をすっかり忘れていたこともまた、追加点だった。厚めの肉は精神を回復させる効果があるに違いない。けれどこれは自分が決めたことであり、彼の所為にするものでもないことは重々承知していたし、手を取ったあの時の自分を後悔したくもなかった。街の人々が言う彼の、凛と美しくもあたたかで親しみのある姿を見せて欲しい。良かったと、笑顔で見送らせてくれればそれで良いのだ。
淡々と湯を作り桶に移すことを繰り返していたため、いつの間にか彼が背後に立っていたことに気付かなかった。無言のまま手元を覗かれ驚きに肩が跳ねる。とても心臓に悪いので顔が良いというのを考えて行動してほしいと思う。

「手間かけさせとう……堪忍なぁ」
「これくらいしか出来なくてすみません」
「優しい子ぉやね」

うっとりと微笑んだ彼が頬へ唇を寄せ、軽いだけのそれがかなりの衝撃を伴って届いた気がした。取り落としそうになる鍋を慌てて桶の上に持って行く。いくら調節してあるとは言え湯を被るのは御免被る。恥ずかしさに赤く染まっているだろう頬を隠す術はなかった。照れているのかと問う彼になかったを押し付けて、ついでに用意していた大ぶりの布を持たせる。

「石鹸とかもそこにあるので狭いですけどどうぞごゆっくり!」

脱兎の如く逃げ出して寝室へと駆け込んだと同時に崩れ落ちる。恥ずかしいことより、驚いたことより何より、嫌ではなかったことが一番衝撃的過ぎたのだった。


言葉通りゆっくりと湯を堪能した彼がすっきりした様子で顔を見せた頃には陽は傾いて冷えた風が入り込んできていた。最後のあたりはすっかり水になっていたのではないだろうか、本人が満足そうなので飲み込んだ言葉の代わりに、新しく整えた寝台に招く。これだけはしっかり替えを用意しておいて良かった。汚れた敷布は明日洗濯に回すとして、これではとうとう自分の寝場所が無くなってしまったな、と小さく息を吐く。新しいと言っても昨日まで床に寝る際に使用していたのでそこまで綺麗とは言えないものだが、替えないよりは断然ましだろう。土や血で汚れたものとは比べられないはずだ。
まだ少し湿った髪をそのままに腰掛けた彼を傾きかけた陽光が淡く照らし、朱の射した緑の瞳が薄らと金に光り燃えるようにこちらを見た。火矢が刺さったかの如く熱く痛い。居た堪れなさに逃げ打つ身体を止める声が静かに響く。何もない部屋だからか、邪魔されることなく真っ直ぐに届くそれに抗う術など、持ち合わせてはいなかった。

「逃げんといて……お願い」
「ゆっくり休んでもらおうと思って、」
「傍におってよぅ」

甘える猫のようなそれ。ゆるく手を広げられ、幾分か迷った末に隣へ腰を下ろす。僅かに残念がる素振りを見せながら肩に頭を預けて深く息をするその人の手を握った。ひとつ瞬いてから破顔するので、何とも言えない気分になりながら横目見る。この人とは初対面で間違いは無く、普通に生活しているだけでは会うことも無い人だ。それなら何故、こうも甘えられる事を当たり前の様に受け入れられているのか自分でも理解が出来なかった。あたかもこう在ることが正しい形だと言わんばかりの彼の態度が余計に混乱をさそう。隙間なく肌を寄せられ体温が混ざっていく。同じ石鹸を使用しているはずであるのに、どこか甘い香りに包まれて思考が鈍り、首筋をくすぐる柔らかい癖毛にもうどうにでもなれとすら思えてきた。極めつけの優しい声に対して脳は警鐘を鳴らして正気を保てと訴えかけているが、それもあまり意味を成していない気がする。これは非常にまずい。まずいが、こちらへ越してきてからの寂しさも相俟って抗えない。人の温もりがこうさせるのか、それともこの人だからこそなのか、答えは考えるまでもなく後者だろう。あっさりとそう思わせるほどにこの人の存在が既に心の内に居座っていた。最初から居たことを気付いていなかっただけの様な、感覚すらした。
見上げてくる魅惑の色を湛えた艶めく緑に降参をするのは早い。

「もう少しだけですよ」
「ずっとがええ」
「なんでそんな……」
「甘やかしとうなるやろ?」

肩を揺らして彼は笑う。甘い声が心まで揺さぶるようで、顔も声も良い男は怖いと唇を噛んだ。危惧していたことよりも別の意味で恐ろしい人である。けれど、盗み見た顔は些か不調の色が滲んで、湯を浴びたはずの身体はあまりにも冷たい。体調が優れない時は誰しも不安で人恋しくなるものだ。今この状況で縋れるものが自分ひとりしかいないと思うと拒否もし辛い。横になるよう促し、寝台の淵に腰をかけたまま髪を梳く。力なく笑うその人に合わせてそっと笑んだ。

「一緒に寝よ?」
「そ、れはちょっと」
「寒いんやもん」
「すみませんね、薄くて」
「やから、ね?」

寝るところも無いだろうと追い打ちを掛けられ目を逸らす。確かに何もない床で寝ることは決定しているので寝具を使えることはあまりにも魅力的だが、だからと言って添い寝出来るほどの関係ではない。この人はただ暖をとりたいだけでそれ以外に何も考えていないことは分かっているものの、やはり肯定はしきれなかった。寝入るまでなら良いだろうか、などと悩んでいる時点で何の説得力も無いことは見ない振りだ。ついでに彼の視線からも逃げるべく床を見る。あの瞳で訴えかけられると確実に負けてしまう。遠い海の煌めく色はどうも浮足立って良くない。薄暗い部屋の中でもはっきりと分かるそこは、こちらを絡めとらんとしているとも思えた。
「ただ傍におって欲しい」
「ここにいますよ」
「ここに、来て?」

だからと言って、その魔性の色を見なかったとしても結局負けてしまうのを知るのは直ぐ後だった。


知人に譲ってもらった机には、ありがたいことに椅子がふたつも付いていた。その内のひとつに腰掛けながら頬杖を突くその人が楽し気に口を開く。すっかり馴染んだ様子で今夜は何かと尋ねるのだ。顔色は良く、表情も豊かになった。足取りもしっかりとして、走ることも跳ぶことも出来るだろう。鍋を火にかけて、零れそうになる溜め息を呑んで振り返る。机の上には大きくどっしりとしたパンがその存在を主張し、皿の上には今まで並ぶこともなかった大きな魚がこんがりと焼けている。かき混ぜている鍋の中身もたっぷりの野菜が顔を覗かせていた。月に一度の例の日はとうに過ぎたが、夢でもなければ日にちを間違えているわけでもなかった。彼が目を覚ましてからというもの毎日の様に夢のような食卓が広がっている。
所持金を全て、何の躊躇いも見せず寄越した彼は世話になった礼だと言うが、貰い過ぎている気もする。精々、濡れない場所と寝床か。ここまでしてもらえるほどではないが、彼は問答無用だった。おおよそひと月、共に過ごして分かったが彼は自分自身にはあまりにも頓着が無い癖に、こちらの身の回りに関してはその限りではないらしく生活面に対して色々と小言をくれた。その所為で食事だけでなく衣類や日用品まで全て揃えさせられたのは言うまでもない。度が過ぎていると訴えたところで聞く気は無いと笑顔で黙殺される。ただ、いつ風邪を引いても可笑しくなかった薄い寝具が厚みのあるものになったのは嬉しかった。 頑なに外へ出ることのなかった彼が今日の買い物について来た結果がこれだということは、そろそろ潮時なのだろう。機嫌良さげにビッカを啜るその人を見た。視線が合わさり、そっと細められる。

「お前は大戦が終わってもここにおる?」
「他国の人は帰った方が良い?」
「そうやなくて、」
「確かに、故郷や家族のことは気になるけれど、貴方のとこも気に入ってるんだよねぇ」

決して楽とは言えない生活だが、逃げたいともやめたいとも思ったことはなかった。戦火の及ばぬ土地で死に怯えることなく生きていけるということは、今の世では何ものにも代えがたいものだろう。他国の人間だからと虐げられることもなく、穏やかに過ごせるこの国から出て行く理由は見当たらない。家族に関しても、故郷を出たときから割り切っている。両親は生きてほしいと望んで送り出したのだから応えることが恩返しなのだ。
机に頬杖を突いて見上げてくる彼に首を傾げ、突然どうしたのかと問えばはぐらかす様に微笑まれる。以前まで見せていた力の無いものとは違い、ほんの少し余裕を湛えたそれに瞬いた。血色の良い頬は未だ痩せた印象ではあるが、いくらかふっくらとして丸みを帯びて見える。早々、体調に影響を及ぼすとは思ってはいないものの、落ち着いた様子を見るからに終戦が近いのかもしれない。精神的に楽になっているのは確かだった。やはり、色々と理由を付けて居座っていたこの人が去って行くのも時間の問題だろう。仕事は良いのか、と聞くには酷な状態だったため強く言うことは出来ず息抜きの為に好きにさせていたこともおしまいだと自覚すると寂しいものがある。ひと月の間ずっと甘え倒されていれば、拾った猫に湧く情とは違う欲の孕んだものを抱くことは想像に容易い。相手が国だとか、向こうにその気がなくとも関係は無いのである。しかしそれは隠し通さねばならないことも、事実だった。国と人では生きる場所が異なり過ぎている。いくらこちらが好きと伝えようが、彼が人に対して同じものを返すことはない。実際に口にしたところでいつもの微笑みで以て、それ以上を返さないのだろう。故に、自分に許されたことと言えば気の済んだ彼があっさりと去るのを何でもないように見送ることだけだった。初恋が国とは自分も立派になったものである。

溶けて煮詰まる蜜を思わせる視線が注がれる。何とも言えない気持ちで受け止めたそれは最近になって一層艶めいたものを孕むので、ついうっかりどういう意味かと問いそうになってしまうので良くない。きっとからかわれているだけで変な意図があるわけもなく、うっかり聞いてしまえば芋づる式的に余計な事まで言ってしまいそうだ。洗いざらい吐いて楽に、などと考えるが実行する勇気は出ず終いだった。

「ずっとここにおるん?やりたい事とか無い?」
「何でそんなことを」
「恩返ししたいと思っとう」
「もう充分貰ってるけれど?」
「やけど、」
「大変なこともなかったしね」

気難しくされるよりも素直に甘えてもらった方が対応はしやすく、それでいて本当にこちらが困る要望を彼はひとつたりとも言わなかった。大丈夫だと肩を竦めて鍋の火を止める。不服そうな目で抗議する様子はあまり詮索をしないこの人にしては珍しく、つい笑ってしまう。何故そうしてまでここにいる事ややりたいことを聞きたがるのか分からないが、堪えて満足するのであれば何か考えても良いかもしれない。

「そうだなぁ……大陸の端には行ってみたいかな」

鍋の中身を器に移しながら呟く。その答えが意外だったのだろう、大陸の端と聞いて美しい緑の瞳を数度瞬かせゆったりとした顔を不思議そうなものに変えて彼は繰り返し口にした。形の良い唇から零れる声も同様に驚きを含んだものだった。どうしてと問い掛けを視線に乗せて言葉無く尋ねるので、そこまで気になる解答だったのだろうかと今度はこちらが首を傾げてしまう。特に大きな理由も目的も無かった。ただ、前に一度だけ聞いたことのある詩が記憶に残っていただけだ。わざわざ詩に記すくらいなので、さぞかし絶景で印象深いのだろうと、想像出来そうで難しい景色は一体どういったものか気になっただけの、それくらいでしかない軽い気持ちだった。真面目に考えるほどのものではないことに気付いてほしい。そういえば、真剣な面持ちで何か考え込んでいる彼の目はどこか海に似ていると思う。青みがかった色もさることながら、光を取り込み煌めき揺れる様はまさに海と称するに相応しい。

ぼんやりと眺めている間に立ち上がった彼の伸びてきた手が腕を掴んだ。そのまま引き寄せられ収まった腕の中は暖かく、抱き締められていると気付いてしまえば身体は途端に動かなくなる。思考もままならず反応が出来ないうちにされるがままになったのを良いことに、髪に頬ずりした彼の吐息に前髪が揺れた。どこか懐かしく胸の締め付けられる感覚に目の奥が熱くなっていく。確かめる様に背を撫でた手が、直接心臓を撫でた気がした。

「ポルト、ガル……?」
「いつか連れてったる。あの岬に」
「大陸の端?」
「約束、な」

吐息が零れる優しい声は真綿で包む心地を与え、ともすれば泣いているとも聞こえるそれに居ても立っても居られなくなり、あやすべく背に手を回した。ぐずる子供にするように撫でさすれば、もっとと言わんばかりに抱擁が強くなった。規則的に聞こえる穏やかな鼓動とは裏腹に熱く生を主張する身体を抱きしめながら、きっと明日にでも去って行くのだろうと、漠然と考えが浮かぶ。全く以て、もうすぐなどと不確かで曖昧なことはない、ただひたすらに明確なものだった。だからこうして、まるで惜しむかの如く腕の中におさめられている。情が湧いたのは彼の方も同じだとしたら、これ以上にない喜びなのにと有り得ないことを思った。

「愛しとうよ……」

落ちてきた言葉に瞠目する。彼の方も思わずと言ったところか、眼前の服の下で僅かに身体が強張ったのが分かった。これはきっと、国が国民に対する当たり前の感情であり、個人に向けられたものなのではない。驚きから緩んだ手が離れて行こうとするので、引き留めようとこちら側から力を強めた。

「わたしもだよ、我が国」

彼が詰めていた息を吐いたのが分かり、重ねて大丈夫だと続ける。悲し気に寄せられた柳眉のまま、目元をくすぐる指に力が込められた。目のすぐ下を撫でる親指は、急所に触れられているというのに全く怖くはない。熱く焼けそうな視線を注ぐ一流の宝石は、安い電球の下でも艶めいて美しい。そっと細まる瞳に入り込んだ光が揺れる中、いつか未来に望む海を見た気がした。




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