弟の稼ぎが安定し始め、家計に余裕が出てきたので育てている野菜を少し、売りに出られるようになった。町の中にある知人の家に持って行くだけではあるが、店売りよりも僅かに安いため案外重宝しているらしい。今日もそのために足を運んだ帰り道、酒場の常連に囲まれているあの人を見付けて足を止めた。遠巻きでも分かる美丈夫は、少しだけ余所行きの恰好をしているように見える。普段は見慣れない飾りが、陽光を浴びて煌めいていた。同じ船の乗組員だろうか、町の人とはまた違った装いの者も数人いた。ふたりきりで会うことしかないので今の様相は物珍しいものがあったが、貴重なものが見られて得をした気分だ。邪魔をしてはいけないと思い踵を返した瞬間、聞こえてしまった言葉に肩が跳ねた。多くの人が行き交う中で、その声だけが嫌に大きい
「若いころから変わらんなぁ」
「お前はすっかり老け込んどうね」
「祖国よ、歳をとるとはそういうことや」
何てことは無い、ただの親し気な会話は、けれど鈍器で殴られたかのような衝撃で持ってこちらへ届いた。祖国。咥内で幾度か転がし、飲み込む。すとん、と腹の内に落ち着いたそれに、ひとつ頷いた。だから、どれだけ経ってもあの人は初めて会った時と姿が変わらず美しいまま。海に出ているのは事実だが、それでも出ていると思っていた間にも彼は陸にいて、人との時間の感覚と差が上手く把握出来ていないから訪問も疎らで、数年経てどまるで昨日会ったように言う。いくら気持ちを、身体を重ねても一緒に暮らそうとは言わないのは生きる歩みが違うから。そもそも、今共にいる時間さえも彼にとってはただの暇潰しなのかもしれない。片目を明け渡すまでの時間は、あの人の中ではきっと瞬きの合間と大差が無いから待っていられる。それまでは全部貰う、なんて言葉は短い間なら人を可愛がるくらい造作もないからに違いない。思い返せば、彼から明確な言葉を貰ったことがなかった。彼を好きだと、恋をして愛しているというのは、結局はひとりで盛り上がっていただけ。気付いてしまえば、乾いた笑いが漏れた。
国は恋をしない。個人を特別愛さない。皆を等しく愛するもの。知らないままでいたかった。そうすれば、幸せを抱いたまま終われたかもしれないのに、彼を疑うことがなかったというのに。
雑踏に紛れるようにして家路をひた走る。用事が済んでいて良かった、と思うくらいには頭は回っていた。息が上がり、胸が苦しい。心臓が早鐘を打つように激しく、うるさかった。深く、より一層深く息をして、せり上がりそうになるものを押しとどめる。目の奥が、酷く熱かった。
「泣いては、駄目だ」
目元が腫れていればあの人が気付く。あの声で、どうしたのかと問われたら洗いざらい吐いてしまいそうだ。何も知らないまま、彼の望む自分でいつもの様にいる方が良い。どれだけままごとであろうと、まやかしであろうと、恋でもなければ特別でもないけれど、上辺だけでも愛を与えて貰えるのならそれで良いと思う。好きになってしまった。愛してしまった。もう、何があっても以前の自分には戻れないのだから。たった一瞬でも良いからあの人の瞳に映っていたい。
この目を手にするか、飽きてしまうかするまでは彼は隣に来てくれる。何故これを欲しているのかも何を思ってのことかも分からないが、その間だけは特別なようなものでいられるはずだ。
「頭の良い子ならもっと上手くやるんだろうなぁ」
呟きは誰もいない部屋に溶けて消える。たったひとりの決意は、静謐と空気に混ざっていった。
「俺とおるんに、考え事?」
いつもは鮮やかに輝く瞳が、まるでがらんどうの器のようにのっぺりとこちらを見ている。凪いだ海と言えば聞こえはいいが、その正体は全てを飲み込む底の無い何かだ。今日はあまり機嫌が良くないのか、掴まれた手首が軋み悲鳴を上げるのもそのままに感情の読めない双眸を見詰める。不貞でも疑われているのだろうか。食い込んだ爪に血が滲んだ。そのまま背後へと押し倒され柔らかな敷布に沈む。僅かに迷った後、少しだげ緩んだ手から抜け出して、目の前の頬に手を添えた。幾度か撫でるように動かせば、態度が軟化した彼がすり寄ってくる。この嬉しそうな様子も演技なのかそれとも、などと淡い期待を抱いてしまうのは止められない。重症だ、と小さく笑った。
閉じていた目が開かれたときにはいつもの煌とした緑に戻っていた。息を吐いて、切り出す。
「この前のこと、聞こえとったんやろ?」
「この前?」
彼の言うこの前とは一体いつのことだろう。自分にとっての数年前も彼からしたらついこの前のことになる。状況から察するに心当たりしかないが、何も覚えがないと装う。曖昧に笑って首を傾げて、上手くやれたつもりだった。けれど、うんと長く生きているからか、彼にはほとんど通用しなかったみたいだ。強い光を帯びた眼差しで覗き込んでくる。
「俺の正体、知っとうね」
今度は疑問ではなかった。絶対的な肯定で以て、いいえと言わせない物言いに黙ってしまえば、それははいと同義だ。少しの間は上手くやれていたと思っていたが、お見通しのようだった。それとも、あの場にいた自分に気付いていたのか。そんなもの、今となってはどうでも良い。全部終わってしまったのだから。まやかしの関係も、ここで幕引きになるだろう。
覆いかぶさっていた身体は意外にも簡単に押し退けることが出来た。彼も終わらせるつもりなのかもしれない。決して引き留めようとも縋ろうともせず、あっさりと釣った魚を海へと返すみたく、もうこの手を掴んではくれないのだろう。この目を渡すまでで良かったのに、愛を与えられていたかったのにそれが叶わないと思うと鼻の奥が痛み、目元が熱くなってきた。泣かないと決めたのに、感情とはままならないものである。視界が薄ら滲み歪む。それでも、零してはいけないとその淵で耐えていたところに、彼の指が触れた。もう、駄目だった。このままではみっともなく縋りついてしまいそうで、早くここから出なければいけないのに、この手と温もりを拒めない。
零れたそれが指先を濡らした。人間に面と向かって泣かれたことが無いのか、少し慌てている。そういう顔も出来るのだなと思いつつ、震える手のまま耳飾りに手をかけた。優しい彼は持って行って良いと言うかもしれないが、あれば思い出して辛くなる。それなら手元に無い方が精神的にも楽なため、置いていこうと外す手を不意に掴まれた。弾かれるようにして彼を見れば、信じられないものを見ているような瞳の、見開かれたそこにありありと浮かぶ驚愕の色にたじろぐ。外すな、と言わんばかりの握力に思わず顔を顰めてしまう。
「な、に……」
「それは俺の言葉やって…どうしたん」
「え、だって、もう終わりなんでしょ?」
絞り出した声はみっともなく震えていた。喉がからからに渇いて小さく喘ぐ。完全に逃げ腰の自分に、身体を起こした彼の手が伸びてくる。
「俺が人やないから嫌になった?一緒に暮らせんのはやっぱりあかん?」
窺い覗き込む緑の輝きは不安に揺れていた。悲しみに染まる面差しに、何故、と声が漏れる。この人は何を言っているのだろう。どうして、自分が嫌われた体でいるのか分からず首を傾げてしまう。手離されるのはこちらの方で、捨てないでと縋りつくのも、やはり自分であり彼ではない。だと云うのに、今まさに捨てられんとしている子供の様子で見つめて来る。予想外のことで涙はすっかり引っ込み、溢れることのない滴に、目元に触れた彼が安堵の息を漏らす。けれど、また悲し気に眉を顰めるのだった。
「俺、上手くやれてへんかったんかな……」
「何を?」
「恋をして、愛すること」
気落ちした静かな声が空気に溶ける。分からないのだと、続けて彼が呟いた。ずっと昔からこの感情が理解出来ないので知りたかったのだと、悲痛すら感じさせる面持ちで、揺れる双眸でもってそれでも真っ直ぐ見据えたまま吐き出された言葉に息を飲む。
「お前に会って、初めて人が欲しいと思った」
「……うん」
「お前のならこの感情を分かるようになっていくかもしれへん、て思って……利用しとって堪忍な」
泣きたくなるほどに穏やかな声だった。大きな手が頭を撫で、それから頬を包む。慈しむような手に、止まっていた筈の涙がまた溢れてしまう。目の機能が馬鹿になったみたいだ。酷い顔を見られるのが嫌で逃げ打ったら逆に抱き込まれた。しっかりと回された腕は痛いほどで、けれど嬉しかった。
「ただの暇潰しだと思ってた」
「ん?」
「貴方のことを知ってしまったから、もうおしまいだと」
「おしまいにせんとって。隣に、おってよぅ」
目の前の生地が涙を吸って濡れていくのが分かった。不快なはずのそれを気にした様子も無くただ抱き締める彼の声も少し震えている。
恋も愛もまだよく分からないけれど、大切に想う気持ちは沢山ある。ずっと一緒にいたいと、触れていたいと確かに感じているから、これからもこの想いを抱かせて欲しい。そう囁いた彼を力いっぱい抱き締める。どう言葉にして良いか分からず、何度も頷くことしか出来なかった。
「教えたって……他でもないお前が、愛してると言わせてよう」