やらかした、と目が覚めて真っ先に思った。酒をどれだけ入れても記憶を失くさないことを憎く感じたのは後にも先にも今日だけだろう。しっかり服を着ているので思い描いた大変な事態にはなっていないものの、やらかしたことに変わりはない。隣を見れば未だ深い眠りの中にいる彼がいた。詐欺師や物盗りではないことはこれで分かったが、それなら何故ここまでして構うのか疑問が浮上したが、今は横に置いておく。これは金持ちの暇潰し、そう何度も言い聞かせ深呼吸を繰り返す。まだそれで片付けられる範囲かと問われたら力強い肯定は出来かねるがしかし、金持ちの考えは一般市民には理解し難い。そういうことにしよう。あどけない寝顔を見下ろし、今度は溜め息を零した。
今の自分のような体験談をいくつか聞いたことはあるが、よもや自分もそうなるとは全くもって予想していなかったので人生とは何が起こるか分からない。自分は大丈夫、という慢心は良くないことを身をもって学習出来て良かったと思うべきか、それよりも相手がこの人で本当に助かったことだけは神に感謝すべきだ。教徒でもないのにこういう時だけ祈って申し訳ないが今日だけは許して欲しい。
旅行も折り返し地点を過ぎ、残すところも片手で足りる辺りに差し掛かった所となれば彼への警戒心も薄くなっているか。今回連れて行かれた店の食事も酒も美味しく、店員の愛想も良いとくれば気分は良くなるもので、変に酔いこそしなかったが心地よい気持ちにふわふわとした意識でいたのも確かだった。水の様に流し込んだワインの数々を思うと良く最後まで歩けていたなと感心してしまう。2店梯子で済んだのは本当に意識が限界だと彼が判断してくれたからで、送り届けてくれたこともそれはもう感謝しているが何故泊まっていったのかは謎である。普通に考えて帰宅手段が無くなったからだろうが、それで同じ部屋にという考えに至るところが分からない。
ううん、と頭を悩ませている間もしっかりと身体に回った腕は重く、まるで甘えるかのように絡められた脚は暖かく確かな存在を持って主張していた。美丈夫の添い寝などあり得ない体験は、もしかしたらこれから起こる悪い事までの少しの間で良い夢を見ろよという神からの慈悲なのだろうか。そうなら先ほどの感謝を返していただきたい。抽選で特賞が当たったことも初日から彼に出会ったこともその布石だとしたら納得出来てしまう。日本に帰った後が怖い。ここまで良い夢となると天からのお迎えの線が濃厚だ。
「いや、地獄の可能性も高い…」
「ほな、俺も一緒に行くよぅ」
「ひえ……」
至近距離から直接、耳に吹き込まれるようにして届いた声に身体を揺らす。吐息のくすぐったさに逃げ打つ身体をしっかりと抱き留めたままぼんやりと微笑むその人に、飛び出しかけた心臓と悲鳴を飲み込んだ。華やかな緑の瞳はより一層艶を孕み、濡れて揺らめく様がまるで海を思わせて美しい。何、と首を傾げた彼の目元にはこちらの指が有り、触れてみたいという気持ちから無意識に出た手を慌てて引いた。寝起き特有のまだ熱い肌は指に吸い付く感触をこちらの指先に残す。触れられたことが嬉しいのか、もっと触れと言わんばかりに手を取って頬を寄せる彼に何も言えず、再度滑らかな肌を堪能した。まるでここにいることを確認して安心しているともとれる仕草と雰囲気に胸が苦しく、心臓を掴まれている気分がする。そうして、心に直接触れるような感覚を与えたまま、彼はうっそりと微笑み甘やかな声でこちらを呼ぶのだ。考える隙を、冷静な判断を取り上げられてしまう。好意を持たれていると錯覚してしまいそうな触れ合いに、彼氏が居ない歴と年齢が等号で結ばれるこちらはもう何が何だか分かっていない。
「もっとこっち来てや〜」
「もう無理です」
これでもないくらいに抱き込まれている状態でどうしろと言うのか、目に見えて機嫌の良い様子で彼が腕の力を込めてくるので気が気でない。まるで恋人にするかのようなそれは、やはり帰国後に起きる悪い事への布石に思えてならなかった。これといって特別なこともなく、ありきたりで普通の人生を送ってきた自分が何故、という疑問は密やかに空気に溶けて行く。今日はどこへ行く、などと当たり前に聞いてくる彼の頭を撫でながら、心の隅にひっそりと積もっていく好意から目を逸らした。
まだ午前のうちに身支度を整え、未だベッドの中からこちらを見詰めてくる彼を振り返る。もう直ぐ出掛けると言えば、やっと重い腰を上げて床に足をつけた。
旅行の計画を立てていた時から決めていたポルトへの滞在は、例にも漏れず彼もついてくるという。宿はどうするのかと遠回しな拒否も、別宅があるからの一言で脆くも崩れ去った。なんと無慈悲な、と内心で手を組んでしまう。金持ちというのは国内各地に別宅を持っていても可笑しくないことを失念していたこちらの敗北だ。
色々と詳しく会話も飽きない彼との行動は嫌ではなく、むしろもっと案内して欲しいと望んでいる事でもある上に誰かといるだけで事件に巻き込まれる確率も下がるため願ったり叶ったりが本音である。現地の人となれば余計にだろう。けれど、これ以上は本当に勘違いしてしまいそうになるので悩ましい限りだ。有耶無耶にして目を逸らしていた彼への好意が明確なものへと昇華していくことが怖い。叶わないものに熱を上げ身を焦がすのは苦しいだけである。勿論、恋とはそういうものであるし、そうでなくては薄っぺらく感じもする。身も蓋も無く言えばそこが醍醐味であり、相手を想う充実感もあった。けれど、だからと言ってこの異国の地で、あと数日しかない中で二度と会うことはないだろう人が相手だと言うのなら、認めたくはなかった。恋など、したくはなかった。蝉ですら2週間の命があるというのにそれよりも短い恋だなんて、自分には耐えられそうにない。出会った日から見たら2週間ではあるものの、それはそれこれはこれである。
ひと夏の恋、だなんて美談で終わらせられるほど強くない。だから、気付かないまま、何も無いままでいたいのだ。そのようなことを考えている時点で手遅れな自覚もありはするものの、それを指摘する人はいない。いるのは、煮え切らない気持ちでぐらついている自分だけだった。
リスボンとはまた違った港街は、息をのむほどに美しく異国情緒で溢れていた。小さく漏れた感嘆の息は、穏やかな海風に攫われていく。心地好い気候に浸る後ろでは、どこか懐かしそうな眼差しで街を眺めている彼がいた。哀愁と憂いを帯びた緑の瞳は今まで見た中でも一等色を孕んでいる。ただそこに立ち景色に視線を投げているだけでも、横切る人々の視線を集める何かを彼は持っていた。かく言う自分も、その横顔から目を離せないでいる内のひとりなのだ。
美しい青の世界でもって迎え入れたサン・ベント駅を、後ろ髪を引かれる思いで後にしてまず向かったのはこの街の象徴と言っても過言ではない場所だった。市街を一望出来る橋は夜景も綺麗だと言うが、やはり日の出ている内の鮮やかな街並みを堪能しておきたい。のんびりと歩き、彼の話に耳を傾けながら着いた丁度真ん中あたりは、まさに絶景という言葉で表さざるを得ない景色が広がっている。朝から夜まで様々な顔を見せてくれるであろう街は、一日を過ごせるほどに魅力的だった。爪先から頭の先まで駆け抜けた得も言われぬ感覚に肌が総毛立つ。なんと美しい街なのだろうか、勢いのまま振り返った先に見た彼が驚いたように目を丸くしていたのに構わず手を強く握った。直ぐに握り返される手が嬉しい。
「そんな気に入ったん?」
「ここに住みたいくらいには」
「そうかぁ」
ふにゃり、緩んだ唇から零れた声は表情とは裏腹にどこか硬く、気に障ることを言ったかと気になったが、纏う雰囲気は柔らかいままだ。また夜に来れば良いと笑う彼に引かれて橋を下る。尋ねさせてくれはしないみたいだが、その後ろ姿は嬉しそうで、鼻歌でも始めそうだったので自分の気の所為ということにしておこう。
この街でもまるで自分の庭然とした様子で歩き、触れ、言葉を紡ぐ彼に手を引かれながら巡る。美術館や博物館でも音声ガイドなど必要が無い。まるで全てを見てきたかの様だ。そんな彼が時折、ふとした瞬間に懐かしそうな、優しくも胸を締め付けるような面持ちで通りを、建物を、店とを見詰めるので何とも言えない気持ちになる。特別な思い入れがある街と思うだけに留め、何も気付いていない振りをして観光を楽しむ。教えて欲しい、知りたい、閉じた蓋をこじ開けんとする気持ちを押さえなければならなかった。今よりも踏み込んでしまえば本当に引き返せなくなってしまう。まだこうして意地を張れている内は良いが、その先はもうどうしようもなくなってしまう。
こちらを見下ろす美しい双眸の奥は知らなくて良いのだ。何故、と手を握る彼の注意を引き問うことは簡単で、けれどその簡単が今の時間を呆気なく終わらせるのだと、知っている。そこまで考えて気付いてしまった。むしろここまで来なければ認められない自分の我が儘さにいっそ笑いすら出そうだ。
知らなくて良い、好きだと認めたくない、情が湧くのが怖いのであれば今この瞬間にでも問い掛けて彼との時間を終わらせれば良いはずである。嫌だと言うのなら一緒にいなければ良い話で、けれどそれをしないまま言い訳がましく理由を述べて、彼がどこかへ行かないからなどと人の所為にしてしがみついたままで彼という存在を手離せないでいる。もう既に失くすことが怖いのだと、心の内から聞こえてくる声に、何も言い返せない。全てが混ざり合い渦巻いて、自分の事が分からなくなる。矛盾を抱えていても、それをどうこうする余裕すらもなかった。
「どないしたん?」
「あ、いや……」
「気分わるなった?」
「あ〜っと、喉乾いたなって」
心ここに在らずで返事がないことを不思議に思ったらしい彼に覗き込まれ我に返る。不安を滲ませる瞳に変な顔をした自分が映り込んでいるのが嫌で僅かに逸らした。大丈夫だと言ってもきっと信じてくれはしないだろう。驚くほどに洞察力の高いこの人はこちらの心境をつぶさに察してくる。下手に誤魔化して直ぐに分かられるのであれば最初からしない方が良い。幸いにも気候はこちらの味方をしてくれた。晴れ渡った空には雲ひとつなく、地面を照らす太陽は全てを焦がさんばかりの輝きに満ちている。そのため、建物が作り出す影は色濃く、まるで絵のようにあたりに散らばっている。日陰へ入れば幾分かは過ごしやすいが、湿度が低いこともあり水分は必要だった。暑さを示して見せれば、彼はややあって小さく頷き手を引いて歩き出す。今回だけは騙されてあげると言わんばかりの態度に思わず苦虫をみ潰した顔をしてしまった。横目で見ていた彼がきょとりと瞬いて、声を上げて笑った。それはとても小さなものであったが、だからだろうか、不覚にもときめいてしまった。
「この先に馴染みの店があるんよ」
あやすみたく指先で頬をくすぐられ、何とも言えず唸りながら頷いた。
落ち着いた店内はレコードの音が密やかに溶けて、少しだけ古い時代の品々が秘密基地の様な空間を作りだしていた。話し合うことが場違いにも思えるここは、なるほど彼が好みそうであった。賑やかな所が嫌いという訳ではなさそうだが、どちらかと言えばゆったりと静かな方を選ぶだろう。隠れ家的な店は、時間帯もあってか自分たち以外に客は見受けられず、店主も直ぐに奥へと戻ってしまった。顔馴染みだと言ったが本当らしく、来店した際から店主はカップを取り出していた。人を連れて来るとは思っていなかったのだろう、後ろから顔を出した自分には少しだけ驚いた顔をしていた気がする。
目の前で頬杖を突いたまま微笑む彼を見ながらグラスに手を伸ばし、軽い音を立てて崩れた氷をストローでかき混ぜては手を止め、またかき混ぜる。行儀の良い行為とは言えないものの、この停滞した空気に耐えかねたのだ。じっとりと舐める様な眼差しで唇で弧を描くのこ人は、何かとんでもないことを言おうとしている、そんな気がして頭の中で警鐘が鳴っていた。こういう時だけ、妙に当たるので嬉しくはない。冷えたグラスに凍り付いたみたいに、握りしめて動かせないそこを、滴がひとつ、伝った。
「もう俺んこと好いてくれとう?」
「な、にを……」
「どう?」
あっけらかんと、さも当たり前かの様に、夕飯の内容を聞くほどの軽さだった。下手したら、今日はパスタなどと答えてしまうくらいにあっさりと肯定してしまいそうになる。問い掛けを噛み砕いている中、手元のコーヒーには一切触れないまま彼はただ微笑んで返事を待っていた。人の気も知らず、最後まで意地も張らせてくれない、まるでこちらの心の内を全て見透かしているかの様な問い。楽しんでいたのだろうか。今まで必死になって気付かない振りをしてきたのも、それでも抑えきれなかった好意を滲ませながら接してきたことも全て知っていて振る舞っていたのだとしたらなんて酷い人だろう。その衝撃から乾いて言葉の張り付く喉を震わせ、やっとの思いで息を吐いた。知っていたのか、酷いなどと怒り喚き嘆くことは簡単で、きっと直ぐ楽になれる。けれど、心のどこかで彼の思惑はそういうことではないのかと思い薄ら考えていた自分がいることも事実だ。その上で乗ってしまっていたことが悪いのであり、彼を責める資格は無い。
ここで肯定をしたのならば、彼はどう反応を返すのだろう。嬉しいと受け入れるか、騙されたとあざけるか、そういうテレビ番組の企画だと暴露されることもあるかもしれない。何にせよ前者の確率は無しに等しいに決まっている。上手い話があるはずもないのだ。逆に否定をすれば違った反応を見せてくれるかもしれない。開きかけた唇は、けれど結局何も言えずまた閉ざしてしまった。嘘は、言えなかった。グラスを掴んでいた手を離し、震える手を隠そうと拳を作る。すっかり冷えた手は、今の心境を表しているみたいだ。何が正解か答えは出ず、目の前を見ることが怖くて視線を落とすしか出来ない。
「……嫌い?」
不意に、酷く怯えた声が耳を打った。幻聴かと咄嗟に上げた視線の先、不安げに柳眉を寄せた彼が歪つに微笑みながらこちらを見ている。所在無さげに宙をさ迷った手が、取り敢えずといった様子でカップを掴んだ。海が波打つみたいに怯えて揺れる緑の輝きに胸が締め付けられて苦しい。なんて顔をしているのだろう。これが演技だとしたら今すぐにでもハリウッドに行くべきだ。
少しだけ迷う素振りを見せてカップから離れた手が伸ばされ、固く握った拳を包む。どれだけ意地を張っていたとしても振り払うことなど出来るはずも無く、その暖かい心地好さに浸った。固いそこを解き、一回りは大きな手指に自身のを絡める。直ぐに応えて返された手はほんの少しだけ震えていた。窺い立てる美しい双眸は、真っ直ぐにこちらだけを捉える。
「俺は、お前を好いとう」
青天の霹靂。寝耳に水。ありとあらゆる驚きと信じ難さの言葉を並べたとしても足りない。形の良い唇から零れたそれは、混乱を誘うには十分過ぎた。絡めた指先からこちらの動揺がきっと伝わっていることだろう。音の無い店内に響いて消えた言葉を聞いたのが自分だけで良かったと思うくらいには優しい声だった。蜂蜜を纏う果物を砂糖で煮詰めた様で、絡みつく感覚に背筋が震える。酸素を求めて喘ぐ魚の心地だ。明るくは無い店内で、窓から差し込む光を一身に受けた煌とする眼に射抜かれ何も出来なくなる。角度により黄にも朱にも輝る緑は、やはり至高の一品だと場違いにも思ってしまう。不安と怯えが嘘みたく強い意志を帯びた視線は未だこちらにだけ注がれていた。豊かな睫毛が影を落とす奥に潜むのは凶暴なまでの美だ。同じように捕らえて離さない手を引かれて我に返る。
またひとつ崩れた氷が、嫌に大きく聞こえた。
お前は、と問い掛ける眼差しは輝きに似合わずひたすらに優しく、瞬き揺れた。促す為に長い指が皮膚を撫でる感覚に、こんなにも鼓動を早めるものとは思わずただされるがままに肩を竦めるしかない。彼はとても狡い人だ。これ以上を望まない為に認めないままでいようと、意識をしないでいたいと決めた矢先にまるで全て知っているかの如く言葉と態度を与えてくる。甘い声に脳内を揺さぶられている気分だった。逃がすまいと力が込められていく手は熱く、このまま溶けてひとつになるのではと錯覚してしまう。
「わた、しは……」
「うん」
「直ぐに離れるのに、好きになるのは嫌で……」
「寂しいから?」
「それよりも、離れている間に他に良い人が出来て無かったことになるのが、つらい」
緩やかななジャズが背を押すかの様で、心の内に仕舞ったままでいたかった気持ちを溢れさせていく。こんなはずではなかった。そう思っても止まらない言葉は小さくとも確実に零れ落ちて行く。彼は頷きながら相槌を打っていた。その声は好意を打ち明けたときと同じくらい優しい。
「知らない間に要らなくされるなら、最初から何もないままで終わりたい」
「終わらせんといてよう」
「でも、」
「俺はお前がずっと必要や」
泣いてはいない目尻を、涙を拭う手付きで彼の親指が撫でた。柔らかな皮膚しかないそこをなぞる指は、どうしてだか恐怖を感じない。たった一瞬あれば光を失いそこで抱いたのは、確かな安心感だ。懐かしい感覚がする。それほどまでに彼を内側に入れることを許していた。
「なあ、俺んこと好き?俺は、お前をずっと好いとうよ」
身を乗り出し、額を重ねて囁かれる。ぼやけた視界で、けれど美しい緑だけははっきりと視えた。優しい眼差しに促されて目を閉じる。答えはひとつしかない。