本日も晴天なり。
カーテンの隙間から漏れる太陽は眩しく、未だぼんやりと定まらない思考を容赦なく照らす。薄目で見た布に手をかけて欠伸を噛み殺しながら引けば、飛び込んできた光が瞼の裏を刺激した。強い日差しを浴びて輝く街は美しい。少し先に見えるアルファマは、はっきりとしない意識の中でもフォトジェニックに映る。コメルシオ広場からはもしかしたらアルマダが綺麗に見えるかもしれない。少し遠くまで行く予定だったが、もう少しこの辺りでのんびりと散歩するのも良いだろう。昨日の男性が連れて行ってくれた場所は知る人ぞ知る、と言った地元民目線でとても充実していたが、やはりオーソドックスなところも体験しておきたいのだ。
何はともあれ、朝食を摂らねば動こうにも動けないので手早く準備を済ませて部屋を出る。ホテルの食事はその国を知るのに手っ取り早い。けれどポルトガルでは朝食をとる習慣は薄く、だいたいがパンと飲み物だけで済ませてしまうと聞いている。観光客向けにレストランを開けてくれてはいるが、はたして何があるのやらと降りた先、フロントに立つ人物に思わず足を止めた。非常に見覚えのあるその人は、支配人と親し気に話し込んでいる。
ふわりとした触り心地の良さそうな鳶色の癖毛と形の良い唇に、優し気な面持ちを見せる柔和な眉毛。豊かな睫毛が縁取る不思議な瞳は揺らめく海と鮮やかな若葉を混ぜて切り取ったかの様。そこへひと掬い蜂蜜を落としつつ、時には夕日が射したかの輝きを持つ、それは美しいものだった。まるで一流の職人が丹精込めて作り上げた繊細な細工が使われているみたいだ。極めつけの泣きぼくろで柔らかさの中に色香を交えてくるのだから凄いとしか言いようがない。これで落ちない女はいるのだろうか。どこか気だるげで退廃的な雰囲気を纏う魅惑の人。滑らかな肌から香る甘いイランイランにも似た匂いに完敗してしまう。女性はあまり好まないと聞くが、この人に限ってはそれも無いものにされてしまうかもしれない。
そんな作り物めいた人が何故か観光案内を買って出てきたのだから首を捻ったものだ。商売や詐欺ではないと言ってはいたが、やはり請求にでも来たか。この人になら高い金額を払ってでも案内してもらいたい人はいるだろうが、こちらとしては手痛い出費は避けたい。ホテルを教えてはいないのに、そういう人たちには関係ないのかもしれない、なんて知りたくなかったことを知ってしまった。物凄く降りたくないがこのま全日ホテルに缶詰めになるのは嫌だ。さっくりといくらか払いさようならをするに限る。話の切れ目を狙い声を掛けようとした矢先、ぱっと振り向いた彼が微笑みで持って迎えた。あまりにも艶やかな笑みに固まる。嬉しい、という感情を前面に押し出したそれは酷く眩しく、同時にときめいてしまった。
「おはよう。覚えてくれとうん?」
「そんなすぐ忘れられないですけど?」
「嬉しいわぁ。ほな、行こか」
息をするか如く自然な動作で手を取られ、疑問を口にするよりも早く歩き出した彼に引かれるままホテルを出てしまった。何か言って止まってもらわなくてはと思うも混乱した頭では正常に動くことが出来ず、ただ小さく朝食と単語だけがようやっと絞り出せた。何だそれ、と自分でも思うから彼も同じだろう。小さく笑った気配がした。大丈夫、と言われ少し前を歩く彼に小走りで並ぶ。胡乱気な視線を投げたら甘やかな瞳に見下ろされ狼狽えた。宝石を思わせる輝きの中に差し込む艶やかな蜂蜜色は、まるでこちらを絡めとり溶かしてしまうような視線を投げかける。暑いのは夏の鋭い太陽のせいだけではない。絡んだ指先から互いの体温がひとつに混ざり同じになっていく感覚がした。このままくっついて離れなくなったらどうしよう、だなんて思ってしまった恥ずかしさにまた暑さが増した。
彼の行きつけだと言う店で朝食となった。さっくり注文を済ませた彼が嬉しそうに見てくるから思わず視線を逸らしてしまう。随分と短い注文だったので、もう少し色々と食べたい気もしたが、昼はしっかり食べると言うで大人しく従うことにした。
チーズとハムのホットサンドかな、などと思っていたところに出されたのはたっぷりの野菜の挟まったバゲットサンドで瞬いてしまう。わざわざ作ってもらったのだろうそれは結構な大きさがある。これは彼に手伝ってもらうことになるのが必須だ。零れ落ちそうになる玉ねぎと格闘しているしているのを、どこか懐かし気に見詰める瞳に宿るのはどこか愛しさにも似ている。それと同時に寂しそうでもあるのに気付いた。どうかしたのか、何故その目を自分に向けるのか、切り出すよりも先に彼が口を開く。
「今日はどこ行くつもりやったん?」
「少し足を伸ばしてシントラかコインブラ……」
いずれポルトにも行くつもりだと言えば、珈琲に口をつけたまま目を細めて頷かれた。そう言えば代金を支払いさようならをするつもりがどうして朝食を共にし、あまつさえこれからの予定を話合っているのだろう。しかも昼食の約束まで既に交わされている。これは不味い。不味いのだが、どうもこの人を無下に出来なかった。こうしよう、ああしよう。これはどうなどと言われるとつい素直に返してしまう。初めて会うのは確かであるし、共通の友人がいるわけでも無い。それなのにまるで長年一緒にいたかのような空気感に居心地が良くなってしまう。昨日から何度どこかで会ったことがあるかと問い掛けそうになったことか。
「けど、この辺のメジャーな観光地を巡るのも良いかな、と」
ほらまた、言わなくても良いことが口から滑り出てしまうので困ったものだ。けれどその度に彼が嬉し気に表情を緩ませるものだから、結局のところ絆されてしまう。
「ん、そうしよか。ちゃぁんと案内するよう」
「おいくらになるんですかね」
「やから、詐欺とかちゃうて」
楽し気に珈琲を飲み干す彼を見詰め、こちらも残りのバゲットと飲み込んだ。
コメルシオ広場からはやはり向こう側が良く見えた。穏やかな海風は太陽を纏い、いくらか生温も思うが、湿度のお陰か不快感はそれほど無い。隣に立つ彼もまた、通り抜ける風に真白のシャツを遊ばせながら遠くを見ている。何とも絵になる、というのも先ほどから行き交う観光客らしき人達が視線を寄越しているからだ。黄色い声を上げるのは主に日本の女子たちで、その気持ちは分からなくもない、と心の中で同意した。
不意に彼が振り向いて、自然な動作で耳に顔を寄せてきたので、周りからきゃあと悲鳴が零れる。端から見ればキスのひとつでもしていると見えるのだろう。
「なんやついとう?ばり見られとうやん」
「日本人女子はかっこいい外国人を好む傾向があるんで」
「……お前も?」
「かっこいい人はかっこいいと思います」
「俺は?」
「美人、かな」
神妙な顔をされてしまった。唇を引き結んでしまう彼に小さく笑い踵を返す。嬉しいようなそうでないような、何とも言えない表情のまま並んだ彼に腕を取られ、そのまま組まされてしまった。急な距離の詰め方に思わず身を引きそうになるも、強い力には敵わない。がっちりと固定されてしまえば抗う気も失せた。またとない美丈夫とタダで腕を組んでもらうことなどこれから先一生凪いだろうて、有り難く良い気分を味合わせてもらうことにする。これで金を取らない彼は一体何がしたいのか疑問が増すばかりだが、金と暇を持て余した者の遊び、そいう結論で今のところは落ち着いた。