再会の鐘の音は遠く

「大当たり!特賞のポルトガルの旅2週間です!」

一体に鳴り響く大きな鐘の音は多くの目を引く。他のテーブルで抽選に参加していた人たちから落胆の声も聞こえる。場の状況によっては居心地が悪くなるというのを知る切っ掛けとなった。取り敢えず残りも回してみたが全てティッシュに早変わりだ。正直言うとその下の海鮮盛り合わせが良かったが、転職活動中の息抜きに丁度良いとは思う。未だ踏み入れたことのない国は高揚を誘った。欧州は制覇したいとかねてよりの夢でもあるし。幼い頃から行って見たいと思っていた国へ渡れるとは運が良い。忙しない日本とは違う、穏やかな時間の流れるヨーロッパ最後の田舎。幼い時分に見た番組の、鮮やかな空と海の交わる場所。
けれど何故、こんなにも行きたいと思うのだろうか。答えは出ない。


青い空白い雲。大陸が終わり海が始まる場所。楽しみと興奮で鳥肌が立つ。太陽が降り注ぐ中、大きなスーツケースを転がす。土産を詰めるために半分は空のそれは見た目よりずっと軽い。ホテルまでの道のりを調べながら時折立ち止まってはシャッターを切る。この国を沢山持って帰ろうと新調した真新しいこれには大いに仕事をしてもらわなければならない。予備のバッテリーもメモリーにも抜かりはなかった。
初夏と云えど日差しが強いのは流石か、けれど不快にならないのはやはり湿度か、さらりと肌を撫でる風は心地好い。空港から街中はさほど遠くなかった。折角だからとバスに揺られながら近付く街を眺める。新しい国、新しい文化、経験、考えれば増していく気持ちに心が逸るばかりだ。これだから旅行はやめられない。今すぐにでも賑わいの中に繰り出したい気持ちを抑えながらバスを降りれば、異国の匂いが鼻をくすぐる。バス停から思いのほか近くにあるホテルに荷物を預け、最低限の持ち物で飛び出した。身軽な方がスリなどに遭う確率が少ない気がするのは経験則だ。大通りへ向かい人の流れに乗る。明らかに観光客だろう集団の後ろを、澄ました顔で少し離れてついて行けば、地図が無くても主要な名所に辿り着ける。時々は違う所へ行く結果になるが、旅行を楽しむための一種のスパイスだと思えば良い。
いつもの様に便乗していた矢先、小さな路地に後ろ髪を引かれ立ち止まった。初めてのはずがどこか既視感のある細い道は、女が1人で行って良いとは言い難い。けれど、それとは裏腹に歩みはそちらへと向かっていた。何も知らない路地が、何度も通った感覚がして気味が悪い。心ではそう感じでいるものの、まるで何かに取り憑かれるようにして進んだ先、小さくひらけた場所にひっそりと佇む小ぶりの噴水にようやく足を止めた。雨風で僅かにくすんだそれに手を伸ばし触れる寸前、後ろから強い力で腕を掴まれ背中に悪寒が走る。駄目だ、と思った。今はまさに鴨が葱を背負っている状態だ。強張る身体で息を飲む。手を払い大声を、と振り返った先に見た鮮やかな色に時が止まった。海を切り取りひと掬い、揺れるそこに新芽を混ぜたような不思議な色。少し息を切らせ肩を上下させるその人に、恐怖ではない感情に心臓がざわつき落ち着かない。宝石をはめ込んだような目を見開き、こちらを見下ろすその奥に宿る様々な感情に圧し潰されそうだ。微かに漏れた声と、安堵と悲しみ、歓喜の混ざった表情に何故か泣きそうになる。離せと言わなければならないのに声が出ない。耐えきれなかった息だけが漏れた。
少しして、我に返ったらしい美丈夫が視線をさ迷わせる。人違いだろうか、けれど腕は掴まれたまま。

「あ、の…」
「…堪忍な」

少し癖のある英語が耳に心地好い。もっと聞いていたくなる声の持ち主は、腕を掴んでいた手から力を抜いたかと思えば、そのまま、流れるような動作で手を握ってきた。この気候だからか、あたたかい手はどうしてだか不快を生まず。まるでパズルのピースがはまるようにぴったりと手を包んで落ち着いた。鼓動が早まる。顔の良い男に騙される世の女たちの気持ちが分かった気がする。
先ほどとは打って変わって気だるげな雰囲気を纏うその人は、濃い茶の癖毛を揺らして首を傾げていた。緩やかに弧を描く唇が数度、開いては閉じる。見上げた不思議な緑は、豊かな睫毛の奥からしっかりとこちらを捉えていた。

「案内、しよか」
「え?」
「俺と、行こ」

機嫌良さそうに微笑んだその人に手を引かれるまま歩き出す。本当ならこの手を振り払い大通りの人の多い所まで出なければならないが、どこから来るのか、この手を離してはいけないと思ってしまった。妙に馴染んだこの手を握り返していないと駄目だ。目線の少し上で揺れる癖毛としっかりした背の向こうは何を考えているのか分からない。敵意を感じさせないのは詐欺の基本ではあるが、だとしても目の前からは何も感じ取れなさすぎた。痛いくらいに握られている手がただただ熱い。離さない、とこの人も自分と同じ思いなのだろうか、知る由もない。
深入りしてはいけないと分かっている。それでも、この人のことが知りたかった。軽く手を引き注意を向ける。

「名前…教えて」
「ん?……ルアでええよ」

この国の言葉で月を意味するそれを口の中で幾度か転がす。しっくりと馴染む不思議な感覚のまま音にすれば、ぼんやりとこちらを見ていた彼が、まるで花が咲き誇るように、あまりにも幸せそうな表情になるから思わず固まった。生きてきた中で向けられたことのないものに顔が熱くなる。手離しに愛情を向けられた気分だ。先ほどの雰囲気からは想像出来ない華やかさについ目をそらしてしまう。

「ああ……おかえり」

だから、その人の言葉を聞き逃してしまった。




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