いくつか月は過ぎ、雨の多い日が続く頃へとなっていた。
酷くはないが少なくもない雨が絶えず地面を濡らしていくのを見詰め、温めた牛の乳を啜る。高価なこれは、以前あの人が置いていった石と交換したものだった。有り難く飲んでいるが日持ちするものでもなく、今日の内に消費しなければ全て駄目になってしまうだろう。大半はケイジョにしたので残りは、などと窓の外に視線向けたまま考える。この天気であれば畑に行く必要もなければ外での仕事も出来はしないため、家に引きこもり衣類等を繕うくらいしかやることは無い。まだ晴れた内に漁に出た父も引き上げているだろうか、寄り合い所に行った母と合流して雨宿りしている可能性もある。何にせよ暫くはこうしてぼんやりとしているしかなさそうだ。寒さを凌ぐために火を点した暖炉に木をくべる。ほんのりと暖まってきた部屋に目を閉じかけたところで視界を掠めた人影に立ち上がった。こんな時にいったい、と思うよりも先、暗く灰がかった中でも鮮やかな瞳のその人を認識してからは早い。身体を拭くべく大きい布を持ち、残っている乳を火にかけ扉を開ける。流石のこの人も雨には思う所があるらしく小走りで駆け込んできたので入口で受け止めた。濡れ鼠状態で上がられても困るので、大雑把に水気を拭き取っていく。衣服は脱いで火の傍に置いておくしかなさそうだが、雨の滴る髪は人の手でどうにかなるものだ。獣の様に身震いしようとするのを制して頭を拭いていけば、大人しく目を閉じている。粗方終えた後、預かった上着を火の近くに掛けて椅子へと促した。柔らかな匂いを立て始めた乳にほんの少し酒を垂らして器へと注ぐ。ぼんやりと眺めていた彼は、ふわりと香る酒にか、器を手にしたまま布の下で笑った。
口を付けるのを見届け背後に回る。触る、と一言かけたのは保身のためだ。死角から触れられることを好む人はいないだろう。ちまちまと中身を舐める彼の湿った髪からしっかりと水分を取り除いていく。なるべく揺らさないようそっと包めば、擽ったいのか声を漏らして笑っていた。火が、舐めるように照らす肌は普段よりも赤みがかりどこか艶めかしい。長い睫毛が頬に落とした影と相俟って、何とも言えず息を飲んだ。そんなこちらの気も知らぬまま、うとうとと安心しきった様子でいるから、庇護欲まで掻き立てられてしまう。守られるとは程遠い空気を纏っているというのに。器を空にして一息吐いた彼はしばらく目を瞑り、されるがままになっていたが、何かを思い出したらしく服の中を探った。
「せや……土産」
「はい?」
手を出せ、と求められるまま髪を拭くことを止めて差し出す。後ろからはし失礼かとも思ったが、それよりも失礼なことをしている記憶は有ったので今更か、と改めはしなかった。その通り、気にすることもなく何でもないものの様に彼が手のひらに転がしたのは見事な細工の装飾品だった。鮮やかであるの深い色をしたそれは火にあてられぬめるように輝いている。美しい切り口には鮮明に炎が映り、まるで踊っているようだ。一対のそれは適度に重く、しかしその価値は実際の重みの何十、何百倍にもなるはずだ。これをどうしろと、そう思いながら見下ろした彼の耳には以前自分が選んだ石がいた。そうして、握らされた石が前回彼が持ち帰ったものだと気付いたのは、艶やかな瞳に見上げられ視線が交わった時だった。仄暗い明かりが僅かに朱を射し込んだ真っ直ぐな眼差しに射抜かれる感覚は鳥肌が立つ。思わず握りしめてしまった装飾品に何を思ったのか、うっそり微笑まれ顔が熱くなる。火の爆ぜる音が遠く、目の前の美しい人しか頭に入ってこない。ゆったりとした動作で上げられた手が頬に触れ、それからこめかみをくすぐり耳に戻る。確かめる様に耳たぶを揉まれ身を捩った。
「やっぱ空いとうへんか」
両耳を確認した彼のその言葉を一瞬で理解した、こういう時だけ優秀な頭が今は憎い。そう、彼のくれた飾りは耳に付けるもので、つまり穴が無ければ使えないのだ。後ずさろうと逃げ打つ身体はあっさりと抱え込まれてしまった。先ほどまで繕い物をしていたため、机の上には都合よく針が置いてある。それに気付かない彼ではなく、当たり前と言わんばかりに手にして火にかけている。こうなれば行き着く先はひとつしかあるまい。痛いのは嫌だ。窺い見上げた彼は止める気はないらしく、身体に腕を回せと言われ慌てて抱き着いた。逃げるという選択は、彼の懐に入れられた瞬間から無いにも等しく、例えそれでも逃げを選んだとしても力の差からあっさりと組み伏せられてしまうことは目に見えていた。こうなれば爪を立てても文句は言わせない、と歯を食いしばる。強張る身体に笑った彼が僅かに屈み、自身の唇でこちらのを塞いだ。瞬間、皮膚を裂く音が嫌に大きく聞こえた。悲鳴は形になる前に彼の咥内へ吸い込まれていく。縫い物をしていて針を刺したのとは違う、深く刺し入れられたそれに放心している間に飾りが通され重みが増した。空けられた、という実感がじわじわと湧いてくる。患部が熱く燃えているみたいだ。滲む涙がとうとう溢れて衣服を濡らしていくのを止められずにいたが、もう一度唇に吸い付いてきた彼があやす様に頭を撫でるので引っ込んでしまった。
「似合うとる…ええね」
あまりにも満足そうに言うから、胸を撫で下ろしたのと同時、無慈悲にももう片方の耳たぶを針が貫通した。かくして、外すなと言い聞かされた両耳に、卒倒しそうなほどの飾りが揺れることとなってしまった。