それはまるで神への懺悔だ。
吹きすさぶ海風と、寄せては返す潮騒のざわめきの中でもはっきりと届いた声は硬く、断罪を待つ信徒の雰囲気を持って光の射すスフェーンの瞳に見詰められる。熟れたアレキサンドリアの様な美しい輝きは強く、ひたりとこちらを射抜いた。何を言われても受け止める覚悟は出来ている、そう言われている気がした。何も怯えることはないのに、と彼を引き寄せ長く豊かな睫毛が震えるそこへキスをしてから額を合わせる。覗き込み重なる視線は悲痛を隠しもしない。なんと可哀想なのだろう。最も愛した人が遺した言葉に囚われ、似て非なる者を待ち愛し続けなくてはならないなんて。別人とは言え、我ながら酷なことを強いたものだ。そこまでしてこの人といたかったのだろうか、それとも。考えてはやめる。どうしたって答えは出ないのだから不毛なことはしなくて良い。言葉の通り律儀に待つ彼も大概だが、本当に何代も生まれ変わってくる辺り自分も執着が凄く肝の冷える思いがする。恐ろしいと思うと同時に羨ましいとも考えてしまう時点で自分も同じ穴の狢ではあるが。
ひとつ目を閉じて深く息を吐く。決めたのは彼だけではない、自分も同じだ。確かに昔の約束で待ってました愛します、では自分を見ていないのではと何も言えず腹立たしくなる部分があるものの、そのお陰でこの人と出会えたという事実は大きい。怒りややるせなさの感情に身をを任せ彼に当たり散らすのは簡単だが、それをして何になる。この調子では彼が姿を消して次に生まれ変わるのを待つのは想像に容易い。となれば今の自分がすべき事はただひとつ。自分を捨てようがここに繋ぎ止めておく、それだけだ。
「貴方が幸せなら何だって良いよ、ポルトガル」
曇りひとつない本心だった。この人が幸せを抱き、心満たされる場所がここであるのならば、自分にとってそれはとても幸せなことだろう。長く果ての見えない歩みの中で、一瞬、足を止めていてくれるのなら、何だってなってみせよう。それが覚悟だ。
一際大きく目を見開いた彼がまた直ぐに眉を寄せ、今にも泣きそうな顔で見下ろしてくる。熟れたマスカットに蜂蜜を混ぜた甘やかな瞳が揺れていた。その奥にあるものがあまりにも様々で、全て読みとる前に隠されてしまう。縋るように回された腕は強く、そうして額を押し付けられた肩が少し、痛かった。
こんな筈ではなかった。あやすように背を撫で、こちらを見上げる輝きに泣きそうになった。全くもって、肝心なときに上手くいかないのは昔からで嫌になる。彼女がどこで正体に勘付いたのかは知らないが、こうも物分かり良く振る舞われると考えていたことが全て足元から崩れていく。順を追って話しをするつもりだったのに、こういう所はあいつにそっくりだ。いつも、何も言わなくともこちらの意図を大方汲み取ってひとりで解決しようとしていく。置いて、行こうとする。額を合わせて囁いた彼女は酷く優しい眼差しで、穏やかに微笑んでいる。それはまるであいつの最期のときを彷彿とさせて胸が苦しい。このままでは今の彼女が死んでしまう。どこにも行かないと言っていたのに行ってしまうことがとても恐ろしかった。今の彼女を失くしたくない。絞り出した声は、笑えるくらい震えていた。
「行かんといて」
「どこも行かない」
「お前のままで、俺とおって……」
我が儘なことを言っている自覚はある。昔と重ねて、生まれ変わりだなどと宣い本人の気も知らないで好き勝手言って、本当のことを伝え混乱させた挙句、そのまま一緒に居てくれだなんて。愛想を尽かされても、さようならをされても仕方のないことなのに、それでもみっともなく縋りついている。ずっと愛して欲しいと願われたからだけではない。あいつが、たったひとり自分の為だけに繋げた一瞬が、ずっと傍で、他の誰でもない自分の隣で笑って、自分だけを想い続けて欲しいと望んだ、ただの我が儘だ。手を離してやらなければと何度も思い、その度にもう少しだけだからと実行出来ないでいる。あの時過ごしたあいつの意志は無いが、その魂は繋がっているから、手を離せるはずが無かった。
結局のところあいつを望んでいるのか、けれど、彼女があいつになるのは違う。あいつだけを愛しているのではない。やっと分かりかけてきた、長年分かりたいと思ってきたあの感情を、今の彼女と育んでいきたいと思っている。我が儘で欲張りな自分は、どちらかを選ぶだなんて出来そうにない。どちらも手に入れていたい、だなんて酷い男だなと喉の奥で笑った。
「貴方が不安なら何度だって言うけど」
「な、に?」
「貴方が満たされるなら何だってする。貴方は私を見ていないかもしれないけれど、それでも良い」
だって、もう愛しているから。
その声はただ静謐に、そっと心に落ちた。考えの纏まらない思考を持て余した中に、言葉が深々と刺さっていく。もう決めているのだと気付き、強い響きを持ったそれに不覚にも泣いた。
大の大人を、それもうんと年上の男を泣かせたことにぎょっとしてしまった。慌てて目元に手を添える。いくら拭っても零れる滴を吸って袖が重くなっていく。溢れるそれが陽を浴びて綺麗だ、なんて現実逃避をしていたら愚図るように頬を寄せられた。
「俺、我が儘や」
「ちょっとくらい我が儘で良いよ」
「あいつとの約束は一生守りたいと思っとう」
「うん」
「けどお前んこと欲しいんよう」
それは確かにとても我が儘だ。端的に言ってしまえば前の女も想っているけど自分も好きで付き合っていたい、ということだ。普通ならば拒否するなり怒るなりするが、前の女が自分の前世で魂が同じときているのだから何とも言えない。加えて彼が国であるから冗談にも出来ない。どうやったって死人には勝てないから狡いなと思う。他の女ならその人よりも自分を見てだとか、それなら別れましょう、とか言うのかもしれないが、自分の中にはそんな選択肢とっくに無かった。今ここで別れて彼からの愛情を失くすくらいなら、愛される方を選ぶ。惚れた弱みって凄い。
「どっちも手にしよっか」
「え?」
「まーた言わせる気?」
人の覚悟と一世一代の告白を何度も口にしろと言うのか、そう視線で訴えれば涙の引っ込んだ顔で彼が首を横に振った。後のことはこれからふたりで考えていけば良い。
この、海が始まる場所で新しく始めるのも悪くはないと思う。
「愛しとうよ」
「私もだよ、ルア」
陽が沈む。穏やかな橙の光を浴びて朱を帯びた艶やかな瞳が愛おし気に煌めく。そのまばゆい光を背に微笑む彼にそっとキスをした。