岐路に立つ

ふわ、と漏れた欠伸をそのままにスポンジを滑らせる。洗い物が好きではなく億劫すぎて食洗機でも買うか思案してしまうほどだが、機械が苦手な彼が慌てそうだと思うと最後の一歩が踏み出せない。一体どれだけ甘いのか、帰ってくる保障も無いのにとひとり笑った。帰国予定から一週間は経っていた。残った一枚を濯ぎラックへ立てかける。固まった身体を解しながらリビングへ向かえば、ニュースが日付を教えてくれた。こんなにも長く会っていないのは不思議だ。思えば、ここへ初めて来たときから隣には彼がいてくれた。そう思いつつも、彼には彼の歩みがあり一から十まで全てをこちらに合わせていられるわけではない。寂しいと感じこそすれ、責めることはお門違いだ。終わりの見えない生の間で退屈凌ぎの一瞬にはさして意味はないのだろう。彼が国民を軽んじているとは思わないし、愛していないとも考えてはいない。価値観の違いとでも言えば良いか、あちらの数日間とこちらの数日間とでは大きな差があるのだから、もう一瞬でも一緒にいてくれても罰はあたらないだろう。そもそも、こちらに引き留めたのは彼の方なのだから最後まで構ってくれないと困る。どれだけ物分かりの良い女の振りをしていたって、会いたい人に会えないものは辛いものがある。どれだけ彼を信じようとしても不安を全て取り除くことは出来ないのだ。
開け放たれた窓から麗らかな午後の気配がする。日を浴びて煌めく水面はここからでは覗けないが、きっと穏やかに凪いでいるのだろう。賑やかな声を聞きながら目を閉じた。それでも気分は晴れてくれない。

「……シエスタするか」

あれから思いのほかぐっすりと寝ていたらしく、寝室の小窓からは月明りが差し込んでいる。夕飯は諦めてしまおう、と寝汚くもまた目を閉じようとして違和感に首を捻った。仰向けのまま視線を巡らせれば、視界の隅に人が入り込んだ。決して離すまいと握られた手が違和感の正体だった。起きているのか眠っているのか判断に困る彼は顔をシーツに向けて、まるで祈りを捧げる信徒の様相でこちらの手を握りしめている。少し動かせば撫でられる位置にある癖毛は、けれど今のままでは触れることすら叶わない。
「ルア」

小さく呼ぶ。微かに反応したその人は緩慢な動作で顔を上げた。揺らめく海の瞳は文字通り薄らと水の膜を張って揺れ。混ぜ込まれたひと掬いの蜂蜜の甘さが増しているようにも見える。なんて顔をしているのだろう。普段の優し気で物憂げなものでもなければ、軽やかに笑んでもいない。悲壮感漂う面持ちは、何かを耐え忍んでいるともとれた。形の良い唇を引き結び、一歩間違えれば噛んでしまいそうな彼に首を傾げる。

「泣かないでよ」
「行かんといて」
「どこに?」
「……どこにも」

口をついて出た言葉に動揺を隠せず噛みつくように声を被せた彼の頬を撫でる。力なく絡むだけになった指では動きを制限することは出来ない。そうしてこめかみをくすぐり髪に指を通せば、少しぱさついていた。どれだけ面倒なことを考えていても顔を見ればどうでも良くなるのだから恋とは本当に凄いものだとひとりごちる。言いたいことは沢山あるが、今はただ黙って豊かな睫毛を震わせて瞬くのをぼんやりと眺めていたら、伸びあがってきた彼の口付けが降ってきた。確かめる様に一度長く、少し離れてもう一度、今度は軽く。何度も何度も、猫が構えと催促してくる仕草にも似たそれに、飽きもせず落ちてくる唇を受け止めた。

「おかえり」
「……ただいま」

額を合わせて微笑む。安心しきった表情で、彼はとろけるように微笑みを浮かべた。




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