岐路に立つ

あの日から彼が家に訪ねてくることが少なくなった。仕事の関係で国外に出張に行かなくてはならないと言う。準備等で立て込んでいるのだろうと連絡もせずにいたが、終ぞ出国日になってもメールのひとつも届かなかった。元より機械の扱いは苦手だと言っていたので特に気にしていないものの、流石に電話くらいは、と思ったのは悪くない筈だ。とうとう愛想が尽きたか。日当たりの良い場所に置いてある大きめのソファに身を沈めながら、気付いてしまったと唸った。そんなところで勘の良い所を発揮しなくとも良いのに。シエスタをするために彼が選んだソファは自分には大きすぎる、なんて現実逃避をしてしまう。最悪の考えをかき消そうとして頭を振る。真意を聞かないまま決めつけることは早計であるし、その所為で盛大に拗れることがあるとドラマで学んでいた。帰国して数日してから連絡を取って話をしよう。彼の口から聞くまでは望みは捨てない。帰国日を教えてくれていたのは助かった。本当に仕事が忙しいだけの可能性もあるが、けれど以前彼の知り合いと鉢合わせてからというもの様子がいつもと違っていたのも事実だった。それが関係しているのだろうか、彼の口から語られたことは無いが何よりも雄弁に物を言う瞳からして大方間違いはない。哀愁を帯びた面差しの向こう側に何を抱えているのだろう。おいそれと人には言えないもののひとつやふたつあったとしても驚きはしないが、言えないということで彼が苦しむのは嫌だ。自分がいなくなることで解消されるのなら離れることも視野に入れておこう。とてつもなく嫌ではあるけれど。

唸りながら頭を悩ませていたところでオーブンが止まる音が響く。柔らかなソファから飛び起き台所へ向かう。甘やかな匂いが漂うので慌てて換気扇を回した。嗅ぎ続けていたら確実に胸やけをする。結局、作ってあげることが出来なかったパステル・デ・ナタは随分と良い仕上がりになっていた。まだ熱いそれを皿へと移し、第二陣を天板に並べていく。いっぱい食べたい、なんて可愛い我が儘を叶える為に揃えた材料の山にようやく腰を上げたわけだが、言い出した本人は一口たりとも食べれそうにない。皿に盛られたものとこれから仕上がるものを思い、近所に配るという結論に至ったのに時間はかからなかった。これをひとりで消費出来るとは毛ほども思っていないのだ。良くしてくれている老夫婦は甘いものが好きだし、近所の子供たちは食べ盛り、奥様方に茶菓子代わりに試食をしてもらえれば次回へ繋がるものがあるかもしれない。そうと決まれば話は早く、可愛いからと買っておいて仕舞い込んだままのラッピングセットを引きずり出した。



心地の良い午後の一時が身体に染み渡っていく。手土産を持って訪ねた老夫婦に言われるがまま腰を据えたテラス席は穏やかな陽を浴びる特等席だった。作りたてのナタとふんわりと湯気を立てるコーヒーと、テーブルを彩る花束に真白いレースのクロスが見慣れたはずの景色をどこか特別なものにさせる。とびきり甘いそれを手に顔を綻ばせるご主人は、普段は硬く引き結んだ唇を溶かして頷いていた。そっと見守っていた奥さんはコーヒーを片手に皿の上へと視線を落とす。

「懐かしいわ。まだ娘が嫁ぐ前によくふたりで作ったの」

小さく細い枯れ葉のような手がタルトへと伸びる。懐かしむような穏やかな瞳は優しく陰っていた。言葉の通り、老夫婦の娘息子はとっくに家を出ており顔を見せる頻度も以前より少ないと言う。けれど、人の生において不変的なものはないのだと、ふたりは笑った。移ろう中で、今この瞬間を受け入れるだけだと。

「けれど、あの人は変わらないままね」
「ああ、彼か……そうやな」

はっとしてふたりを見る。この人達は知っているのだろう。予感が確信へと変わる、そんな気がした。
あれはまだ自分の若い頃だったとご主人は言う。現役で海に出ていた時に出会ったその人は、緩やかな癖毛を海風に遊ばせながら懐かしむ様に水平線を見詰めていた。のっぺりとした緑の目に、懐かしむ色に混ざって見えた羨望と獰猛さとを覚えている。海に何か置いてきたのだろう、と当時の主人は思ったが、結局の所それが何かをは聞けず終いだったらしい。
それは昔、自分が田舎で暮らしていた頃だったと奥さんは言う。日課である畑に水を撒いていた時、その人はふらりとやって来てさして特別でもない水やりを黙って見ていた。夏の日差しを浴びて煌々とするアレキサンドライトが映していたのは何だったのか。愛しさと哀愁とをない交ぜにした眼差しの美しさを、まだ覚えている。
それから程なくしてふたりは出会い、今のリスボンに越してきたという。目まぐるしく変わる時代の中で、ふと立ち止まるとどこかしらでその人を見た。初めて出会った頃と何一つ変わる事のない姿で、まるで誰かを待つようにそこにいる。

「自分たちとは切っても切れへんもの。あの人がそういう存在だと気付いたんは最近よう」

ご主人は笑って、またひとつタルトを口に入れた。奥さんは微笑んでこちらを見詰めている。彼といることを気付いているのだろう。

家に帰った時は日がとっぷりと暮れ、辺りは街頭で照らされた中で星が僅かに輝いていた。尽きることのない昔話に会話を弾ませ、折角だからと奥さんと肩を並べて台所に立った。優しい眼差しに見送られた頃には午前の鬱々とした気持ちは消えていた。既に答えと言っても過言ではなく確信へと変わりつつある予想は、彼の口から聞くことでその姿を完全なものにする。未練がましくも皿に残ったタルトを一瞥し、そっと電気を落とした。




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