定期的に訪れている彼の家に向かったら先客がいた。彼よりも明るい茶の癖毛を揺らした、若葉のように鮮やかで、それでいて深く吸い込まれそうな瞳のその人は、どことなく彼に似た面差しをしていた。一瞬しか見れなければ間違うこともあるだろうが、ぱっちりとした柔和なたれ目は彼と正反対だ。人懐っこい笑顔のその人は、溌溂とした声音で挨拶をくれる。この国の人ではない言葉は、けれどラテン系だというのは教えてくれた。身内だろうか、私生活を明かさない彼がどのような家庭環境と交友関係を持っているのかは知らない。珍しいタイプだと思うこそすれ、合わないとは思わなかった。それもこれも目の前の人の雰囲気のせいだろうか。
「お姉さんポルトガルの知り合い?あ、もしかして州?初めましてやんな!俺、スペイン言うねん。よろしゅうな!」
ずい、と顔を寄せられ差し出された手を勢いのまま握る。言葉は分からないが、きっと自己紹介だろう。聞いたこともある単語もあった。それから、何故かトマトを差し出され、真っ赤なそれとその人を見比べていたら騒がしさからか家主がのそりと顔を出してくる。確実に寝ていたと分かるぼんやりとした目が、玄関先にいる組み合わせの異常さに見開かれた。熟れたマスカットを彷彿させるそこに驚愕の色が浮かぶ。珍しいものを見た、と思った瞬間に表情は陰りのあるものへと一変し、どう言えば良いのか決めあぐねているものになった。
「どないしたん、ポルトガル」
隣の男性が彼を覗き込み肩へと手をかけた。正確には最後まで口にされていないその名前は、完全に形になる前に眼光の鋭さに消えていった。唇だけが示したそれを頭の中で幾度か転がす。ポルトガル。あだ名にしては少々不自然で、けれど良く馴染むそれはずっとそうして呼ばれてきた証拠だ。かねてより何かしら隠している節あったが、ここにきて新たな謎が追加されてしまったようで、果たして全て解き明かすことが出来るのだろうか。なんてどこか他人事のように思った。
スペイン、と自らを称した男性との用事は終わったのか、封筒を手にした彼がバツの悪そうな顔で頭を掻いている。またしても珍しい表情に瞬いてしまった。
「こいつ面倒な奴やけど仲良うしたってや。あと、今度俺ん家にも遊びにおいでな?」
屈託のない、太陽を思わせる笑顔の眩しさに思わず後ずさりしてしまう。造形は似ているのにまるで違う男性の手が頭に乗せられ数度軽く叩かれた。優し気に微笑んだままあっさりと去っていった背は直ぐに見えなくなる。残された彼の鬱々とした空気に自分も帰る選択をしそうになるものの、確実に後から面倒なことになるのが分かっていて選べる筈もなかった。
静寂と、河岸から来る緩やかな風が通り過ぎる。アルファマの丘にある彼の自宅は街が眼下に広がり景色が良い。一度見やり、それから未だ扉の前で沈黙を貫く彼の頬に手を添えながら指先で長い髪をくすぐるように撫でた。そのまま背伸びをして頬にキスを落とす。丁寧に2回、そうしてしっかりとした首に腕を回し頬を寄せて見れば、反応の無かった身体が僅かに揺れた。脇をすり抜けキッチンへ向かう。存外料理をすることが多い家主のお陰で様々なものが充実している棚からお茶の用意を取り出していく。勝手知ったるなんとやら。隅に水で戻しているバカリャウを見付け、夕飯はこれで何を作ってくれるのだろうか、と小さく笑った。冷蔵庫の中には色鮮やかな野菜たちが眠っている。揃いのマグカップにコーヒーを注ぎ振り返る。
「言える時まで待ってるから、ゆっくりで良いよ」
一緒に住めない理由も、その呼び名の真意も、今はまだ解き明かす必要はない。所在無さげにリビングの入り口に立っていた俯きがちの彼は、小さく頷いて抱き着いてきた。