私のなかに貴方を残していく
すっかり慣れてしまった明るい声で入ってきた彼は、いつもの席ではなくテラスの方へ足を向けた。広くはないが景色の良いそこは、以前紙が風に飛ばされてしまうから、と言っていたのを覚えている。そこに座るということは今日は書き物は無いのだろうか。水とおしぼりを用意しながら窺い見ても、ただ海を眺めるばかりで鞄を開ける気配は無い。あまり詮索するのも失礼かとメニューを持ってテラスに出る。今日は風も程よく心地が良かった。
名前を呼んで声を掛ければ、ぱっと笑顔を向けてくれる。いつもは断るメニューを、これまた珍しく受け取り食事の所を開くから、おや、と瞬く。毎日根を詰めていたら気分も良くないから1日ゆっくりするのだろう。注文が決まったら、なんてお決まりの台詞を言う前に指を差され彼の手元を覗き込んだ。ハンバーグとオムライスのセットにいつものコーヒーと食後のデザートまできっちりと頼むのに、意外と沢山食べる人なんだな、と伝票を切った。潜るのは体力を使うのでよく食べるのは道理ではあるが、体型や顔立ちからは想像が出来ない。身長はとても高いので大きいく見えるし実際そうだが、細身なのだ。
「ナマエもこれからお昼ですよね?一緒にどうでしょうか?」
注文を通そうと踵を返す背に投げられた言葉に振り返る。窺うように見上げてくる彼に首を傾げながら店内を見た。今は忙しい時間も過ぎて人もいないので問題は無いだろう。もしかしてその為に少し時間をずらして来たのか、なんて少し浮かれながら大丈夫だと答える。表情を明るくした彼に笑って手を振った。
父に伝票を渡したついでに自分のも作って欲しいと頼む。特に何か言われることも無く、毎日のことなので当たり前のように頷いた父は僅かに考える素振りを見せ、それから冷蔵庫から取り出したスライスチーズをこちらの目の前に置いた。何、と首を捻れば彼の好きなものはと問い返されるから余計に意図が読めない。首を傾げすぎてフクロウにでもなってしまうかも、などと思いながらヒントになるかもしれないと横目見た彼はずっと海を見ているのか、頬杖をつきながらゆったりとした様子で遠くの煌めきを見つめている。本当に海が好きなんだと思ったところで問いの意味に気付いた。何とも遠回しなことだ。母の使う道具の入った引き出しから魚や貝などの型を取り出していく。チーズを型抜きしてハンバーグの上に飾れば気に入るのではないか、なんて案外可愛いことを思いつく父の横顔を見る。ふい、とそっぽを向かれてしまった。
出来たての料理を手にテラスに戻る。音で分かったのだろう彼が笑顔で迎えてくれた。待ってましたと言わんばかりの態度が可愛らしい。目の前に皿を置けば、覗き込んだ彼の動きが止まる。初めて魚クッキーを出した時と同じ反応だ。それから、思い出したかのように上着のポケットを探り、直ぐに肩を落とす。写真を撮りたかったのだろうが、スマホを自宅に忘れてきていたことを失念していたらしい。しょんぼりと皿の上を見つめるものだから、悪いと思いつつも笑いが漏れてしまった。ほんの少し唇を尖らせてこちらを見る彼に謝りながら、直ぐ戻るからと席ろ立つ。きょとりと目を丸くしながらも頷いていたが、こちらの行動を察したのか暗かった表情を明るいものに変えた。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。彼を撮るのは楽しそうだと思う。カメラを片手に席に戻る。これなら直ぐに印刷が出来るから良い。料理にひとつ、彼を入れてひとつシャッターを切っていく。冷めてしまうからと促して、頬張る姿にもボタンを押した。食後に落ち着いたときにでも印刷すれば良いだろう、と折角なのでもう数枚頂いてしまうことにする。テラスからのロケーションが綺麗で良かった。
「クリス」
「はい?」
「笑って?」
そんな無茶振りにも彼は快く応えてくれる。自分が撮られるのは少々恥ずかしいですね、なんて口にするところもばっちり収めておいた。データを見るのがとても楽しみだ。