瞳にうつる景色を僕に見せて
うとうとと微睡みがやってくる昼下がりに、いつもの通り夏の暑さなど微塵も堪えていないような良く聞こえる声が飛び込んでくる。何やらいつもよりも気分が上がっている彼に少し驚いた。席に通すのも忘れてどうかしたのか問えば、興奮冷めやらぬ様子で詰め寄ってくるから、勢いのまま先ほどまで座っていた椅子に逆戻りする。大きな両手で手を掴み身を乗り出す様子に、余程良いことが有ったのだと察せられた。形の良い唇から淀みなく繰り出される言葉の波に飲み込まれてしまいそう。学術的なことは分からないし大半は呪文に聞こえてしまうが、彼がとても嬉しがっていることだけは凄く分かった。満たされているのなら何より、と相槌を打つ。少し引き気味なことに気付いているのかいないのか、それともそれどころでは無いのか、話は30分は続いたと思う。これくらいで済んだと思うべきか、今まで見た中でも一番と言って良いくらいに満足気な彼に苦笑した。ようやく定位置に落ち着くのを見届けていつものセットを用意する。今日のクッキーは貝の形をしていた。
「ナマエと潜っていたら写真に収めてくれたでしょうか…」
どうやら相当らしい。残念そうに肩を落とすので、今度行った時は重点的に探すと伝えれば、子供の様にきらきらした目で見上げてきた。あまり見ないもの、なんて言われるとそんなに興味が無くても撮ってみたくなるのが不思議だ。笑顔を返したら、何かに気付いた彼に手を握られた。
「一緒に潜りに行きませんか?」
名案、とばかりの表情に申し訳なくなる。基本的に休みが無いのが自営業の悲しい所だ。しかも今は繁忙期の稼ぎ時。人手は欲しい。休憩時間だけでは何も撮れずに終わるだろう。夜に店が終わった後では暗すぎる上に危険も伴う。早朝に行く事もあるが、研究のこともある彼をそんな朝早くから呼び出すわけにもいかず、朝から潜るとなると自分の体力のこともあるので難しいのが現実だった。また、手伝いの為に帰省をしているのに休みを、とは切り出しにくい。そのことを伝えれば申し訳なさそうな顔を見せられ良心の痛む思いだ。こちらこそ、と謝罪を述べるのに、彼が慌てた様子で首を横に振る。
「また機会を作ったその際は、一緒に潜ってくれますか?」
「もちろん!」
大きく頷けば、にこにこと笑顔の戻った彼に小指を差し出される。それの意図することは直ぐに分かった。小さいときに戻ったみたいだと思いながら自身のを絡める。長い指がしっかりと、絶対にと云うように繋がれて、その想いの強さに胸が締め付けられる。どれだけそうしていただろう。そのまま離される筈の指を引かれ、祈るかの如く彼の額へと導かれる。
「私は、貴女の見る海を知りたい」
乞い願う声色に息を飲む。自分以外の他の人の見る海が知りたいのか、それとも。問いかけることが出来たのならどれだけ良かっただろう。言葉を飲み込むしか選択肢が無いのが現実だった。口を開いて、閉じて、どう言葉をと考えているところで何事も無かったかのように離された指が熱い。こちらの気など全く知らずにレポートを広げる彼の肩を小突く。きょとりと見上げてくるその幼さに、悪態を吐いていた心が萎んでしまった。
「約束、絶対だよ?」
「ええ!忘れませんよ!」
嬉し気な表情につられて笑う。誰かと約束することがこんなにも心躍るのは始めたかもしれない。
ああ。もうすぐ夏が終ってしまう。