言葉を交わすと音が生まれる
「お名前をお聞きしても良いですか?」
彼の来店が両手の指を埋める頃、おもむろに切り出され目を丸くする。そう言われてみればお互い何も知らないままだった。店員と客という立場から特に何も思わなかったのだ。見上げてくる蜂蜜色は、真っ直ぐにこちらを映している。断る理由も無いのでひとつ頷く。改めて自己紹介というのもなんだかくすぐったい気分がする。
「ミョウジ ナマエです」
「ナマエ……良い名前ですね。私は古論クリスと言います」
彼に名前を呼ばれるのは何だか不思議で、少しそわそわする。屈託のない笑顔にやけに愛嬌があると思えばやはりハーフで、日本人特有の外国人という意識の補正が掛かっていたのかと納得する。補正など無くとも彼は充分元が良いのだろうけれど。あまり褒められたものではないが、彼をまじまじと見る。海に潜る所為か少しパサついているものの柔らかな色の髪と煌々とした双眸、高身長かつ適度に筋肉の付いた細身で頭が良いとくればそれだけで人目を引くだろう。それに加えてこの人懐っこい性格なものだから彼はずるい。いっそ眩しさをも覚える笑顔で見上げられ、あまり他人から向けられることのないそれにたじろいでしまう。周りにいる中では珍しいタイプの人だった。もっとも、男性と接することなんて仕事でくらいしかないのだが。
「古論さんは学生さんですか?」
「似たようなものですが、一応助教授をしています」
「先生だったんですね。お若いのでてっきり…」
「そんなに畏まらないでください。折角出会えたのですから」
お互いの立場がとか年上だから、なんて理由が全て消えてしまうような言葉と微笑みに一瞬固まってしまった。ただひたすらに本心なのだろう。まさかこのような人が存在するとは、などと些か失礼なことを思うがそう言わずにはいられない。
時間が許すのであれば話を、と乞われカウンターにいる父に目を向ける。広くはない店内のため聞こえていたからか、何も言わず片手を上げて奥に引っ込んだ。好きにして良い、の意だろう。有線から流れる密やかな音楽が途切れる。そこまで気を遣わなくとも良かったが、確かに彼には波の音の方が好まれるかもしれない。空調を動かしているためあまり開けることはできないが、近くの窓に隙間を作る。入り込んだ音は有線よりもか細いが、確かにさざ波が届いた。
「ここは海が近くに感じられる素晴らしい所ですね」
「気の済むまで居てください」
「ありがとうございます。貴女の事を聞いても?」
緩やかに首を傾げた彼の肩を細い髪が滑る。少しだけ絡むような素振りを見せるから、自分に対しては無頓着なのだろうなと内心でひとり頷いた。こちらのことなんて聞いても面白いことは何もないが、彼はきっと知るという行為が好きなのだろう。特に隠すことも無いためふたつ返事で応える。嬉しそうに、何にしましょうか、なんて呟くのを可愛いと思った。彼の事も聞きたいと思うが答えてくれるだろうか。うかがうように見つめれば、察したのか勿論だと頷いてくれた。
「貴女はずっとここに?」
「夏の忙しい時期だけ、手伝いに」
「なんと!出会えたのは奇跡ですね」
そんな大袈裟なと思うけれど彼はいたって本気だし、こちらとしてもそう言われるのは嬉しい。研究のためにひとりで来ているので誰かと話すことが無く、彼としては少し寂しい思いをしているようだった。こうして話すことで彼が喜んだり役に立てるならそれも良いかなと思う。聞かれて困ることも隠すことも何もないが、世間一般で言う不躾なことを聞いてくることはなく、大半が海に関係することなのが彼らしい。生徒達にはあまりウケが良くないらしいが、彼の話は聞いていて面白いことも多かった。すっかり、自分も会話を楽しんでいる。通う、と言ってくれた夏の間に、もっと彼のことを知れたら良いのに、と思った。