始まりの海で君を待っている

彼と出会ったのは、丁度今日みたいな真夏日だった。客の去った後のテーブルを拭きながら窓の外を見る。苛烈に、それでいて鮮やかに全てを焦がさんばかりに照り付ける太陽の下、その輝きを受けて美しさに磨きをかける水面と、どこまでも続く抜けるような青空は1年前と何ひとつ変わっていない。波のさざめきからは少し遠く、けれど僅かに届く海の声が心地よく広がる店内もまた変わりは無かった。有線から流れる緩やかな曲と、光を集めて床に色を映すサンキャッチャーを眺め、凪いだ気持ちのまま目を細める。来客の途切れた店内に、開け放たれた窓から穏やかな風が潮の香りを運んだ。忙しい時間帯を越えてしまえば、待っているのはゆったりとした一息吐ける空間だった。思えば、彼もよくこのくらいの時に来て、いつも同じ場所で同じものを頼んでレポートを広げていた。いつからか付けたサービスのクッキーを入れた貝型の皿は、いつしか彼専用になっていた気がする。だから、また夏を迎えても皿は最期に仕舞った位置から動いていない。両親には分かっていたのだろうそれが何だかくすぐったかった。
そのお気に入りの皿で菓子を摘まみながら用紙に様々なことを書きしたためていく彼は、暫くその美しい瞳を紙に落とし、それから店内に置かれる新しい写真を目敏く見付けてくるのだ。何も言わず吟味してから、ひとつを指差して、あれを頂けますかと聞いてくる。何と無しに撮ってたものではあるが、やはり好かれるのは嬉しくて、大事そうにアルバムに仕舞う彼を見るのも好きだった。今年も彼は来てくれるだろうか。一度レポートを書いてしまえば研究のためこの地域に訪れる理由は失くなってしまうと分かってはいるが、この海を好きだと言っていたからまた来てくれるかもしれない。
良く通る声で楽し気に海の話をするのを聞くのが好きだったな、と今でも耳に残る声を思い返す。綺麗な顔に似合わずしっかりした大きな手が優しく繊細な手つきで貝殻に触れていたことも、しっかり覚えている。夏の間、毎年変わることの無かった日々を、彼は変えてくれた。店の窓から見るだけだった、切り取られた風景しか知らずにいた自分を外へ連れ出してくれた。それが例え彼とふたりだけしかいなかったとしても、手を引いてくれたことを感謝している。もう一度だけでも良いから会って伝えたい。きっと彼は綺麗に笑ってくれるだろう。
人のいないカウンターで頬杖をつきながら外を眺める。変わらない青の支配する光景はどこか目に染みるようで、眩しさから逃れるべく手元に目線を落とした。邪魔になる、と物が置かれることがあまり無いそこに並ぶ小さな貝殻を突く。メニューを入れる枠にはめ込まれたシーグラスも、波を模したフォトフレームもどれも彼からの贈り物だ。この店には思い出が有りすぎて、だからこうして会いたい気持ちが募るに違いない。彼の方も、夏になってここでのことを思い出してくれていたら良いのに、と思った。


窓から入り込んだ風がサンキャッチャーを揺らして色が散らばり、波と海鳥の声も運ぶ。いつもと変わらない日。1年前とは変わった日。
来客を知らせるベルが鳴った。蝶番の軋む音がして、暑い空気が流れ込んだ。半ば飛び降りるようにして席を立ち、外の匂いを持ってきた人を振り返る。お久しぶりです。あの日と同じ彼が、微笑んでいる。時が止まるというのはまさにこのことを言うのだろう。有線から聞こえる筈の音楽も、遠くに聞こえるさざ波も全てが消えた感覚。舌の根が乾いたか、はたまた凍り付いたか。たった3文字の彼を呼べない。覚えていませんか、と首を傾げる彼に慌てて首を横に振った。少しだけ寂しそうにしていた表情が安心したものに変わり、それから、そっと微笑まれる。
彼だ、と何かがすとんと心の中に落ちた。そうすればもう言葉は息を吹き返す。扉の閉まる音を合図に有線が止んだ。次いで流れてくる穏やかなそれはあの時彼と聞いた優しい旋律。去年とは違い荷物の少ない彼がこちらに手を伸ばす。まるで壊れ物に触れる手つきは、記憶の中のものと変わらなかった。大きな手に自分のを添える。笑みを深めた彼が一歩、距離を詰めた。夢ではなく現実であると確信が欲しくて、小さな声で彼を呼ぶ。

「会いに来ました、貴女と海に行きたくて」






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