水平線の最期を望むそのとき
その日、彼が店に訪れたのは抜けるような青さが成りを潜め、包むような鮮やかな朱が広がる頃だった。昼間の苛烈さが嘘のように、けれどその存在を確かに感じさせながら差し込む穏やかであたたかな光の中で、彼はそっと微笑んでいた。朱を浴びて煌めく髪が緩やかな風に揺れて、まるで金の尾を引いているようだ。いつ、いかなる時でも絵になる人だ、と少し場違いなものを抱いた。
「お時間、いただけますか?」
酷く穏やかな声だった。小さく頷くだけで答えカウンターを出る。その目に宿るものに気付いてしまえば、断ることなど出来なかった。日は落ちかけていても肌を舐める熱さは健在で、冷えた体温を混ざり合いどこか生温ぬるい。差し出された手を取らない理由は見つからず、指先を掴めば丸ごと包み込むように握られた。どこか満足気な彼に連れられ、固い足元が柔らかくなっていく。熱さの感じられないそこで、どうせならと素足になる。まだほんのりと温かさのある砂が冷えるところへ足早に向かった。打ち寄せる波が足をくすぐって、さりさりと砂を攫って行く。繋いでいた手はあっさりと解かれ、彼の手は放り投げたはずのサンダルを拾い上げていた。咎めることもなく彼は何も言わず隣に並んで、ざあざあと寄せては返す音を聞きながら歩いてくれる。あたたかな橙の陽の中、ふたつの影が揺れ動いている。間を通り抜けた風は未だ熱を孕んでいたが、けれど確実に夜の気配を帯びていた。夏の間では見たことのない寂し気な面持ちのまま彼方を見つめていた彼が視線を投げてくる。どうかしたのか問うのは、野暮というものだろう。
「明日、帰ります」
「寂しく、なるね…」
その言葉にか、僅かに微笑んだ彼は遠く水平線の向こうを見やり頷いた。別れ難いと素直に思う。彼のいた夏はいつも胸のいっぱいになる思いだった。幼い頃の、毎日ひとつずつ、クリスマスのアドベントカレンダーを開けるときのような気持ち。この想いはきっと、光を浴びて煌めく海の様に、あまねく色に染まる空のようにずっと心に添うのだろう。
自然と止まっていた歩みが、彼に手を取られたことで動きだす。ゆったりと握られたそこから体温が混ざり合い、馴染んでいく。ふ、と彼が今どんな顔をして揺れる海原を見ているのかが気になり目線を上げた。それと同時に、ぱちり、と目が合う。優しく甘やかな、空と海の境を見つめる時の、煌としたものではない蜂蜜色はしっかりとこちらを映していた。海風になびく長い髪も相俟ってまるで絵画のようだ。そうして僅かに見惚れていたが、瞳に映るものを再認識して顔が熱くなる。全てを照らす夕日が頬の赤みを分かりにくくしてくれているのが幸いした。そうでなければ手に取るように分かるに違いない。この人は本当に心臓に悪いな、とひっそり息を吐いた。
「この一か月はとても充実していました。貴女がいてくれたからでしょう」
「私も、貴方と会うの嬉しかった」
一際強く手を握られる。嬉しそうに細められた双眸に、自分の心も握られていると錯覚してしまう。きゅう、と胸が締め付けられる思いだった。砂浜を滑る波が足元を攫っていく、くすぐったさにも似ている。言葉に出来ない不思議な感情を心の内で持て余しながら、微笑む彼に同じものを返す。微かに驚いた彼だったけれど、直ぐに甘い笑みを浮かべた。
陽が落ちる。濃紺が朱を下へと押しやって、交わる菫色の境界が海の向こうへ消えていく。少しの間この空気を感じて、それから示し合わせたようにお互い何も言わず元来た道を戻る。帰り道に時間をかけたのは、まだ一緒に居たいから。
「遅くまですみません」
「それはこっちの台詞でもあるから…」
店の前まで送るという彼に甘えた。店先に着いても繋いだままの手はそのまま、別れの言葉を切り出せないでいる。この手を離してしまえば、さようならだった。
ナマエ。名前を呼ばれて顔を上げる。まるで離すのが惜しいと言わんばかりに強く握られて、次いでそっと引き寄せられた。額に感じた熱は一瞬で消えていく。
「また、」
そう言って彼は今までで一番綺麗に微笑んだ。