「急ぐことないのに」
「魔女さん、直ぐどこかに行ってしまいそうで…」
「傍に、いてほしいの?」
「え?」
「なんでもないわ」
大きな瞳の直ぐ下、頬と目尻を親指で優しく擦るように撫でる。擽ったそうに肩を竦める彼は少しだけ不思議そうな視線を投げた。警戒心のまるでない、飼われた仔犬のような様子を見せるのに苦笑する。振り払われることのない手に触れる滑らかな肌に少しの名残惜しさを抱きながら離れ、立ち話というのも味気ないので休憩室を示す。都合良く人のいないそこは静かで、話すにはとても丁度いい。その方が彼も気が楽になるだろう。素直に後ろをついてくる姿は、髪型も相俟って雛チョコボのよう。気にしているかもしれない、と内心で笑うだけに留めた。
数人掛けのソファーに腰を下ろし、おいでと隣を叩いて促す。何のてらいもなく、戸惑う素振りも見せず座った彼は少しだけ身体をこちらに向け、ふにゃ、と口元を緩めた。硝子をはめ込んだ様なきらりとした双眸に見える好意的なものが、甘く胸を擽る。あまり変わらない高さにある目線を合わせて表情を和らげ、目の前の柔らかな髪を撫でた。
ほんの少し手を伸ばせば届いてしまう距離で微笑み頭を撫でるその人に目を細める。心地の良い体温と感触は、なかなかどうして抗い難い。まだ会って間もないというのに、何故か触れられることに嫌悪も戸惑いも無く、心があたたかいもので満たされるようだった。神秘的な紫の瞳は逸らされること無く自身のものと合わさり、触れている手は安心を生んだ。
そんな、初めて会った時と変わらない、自分を見てくれる彼女の事を聞いたのはあの集まりの後に上官に呼ばれたときだった。彼女が言ったからか、遅れたことへの叱咤は無く、逆に何もなかったか等と心配するような声を掛けられたのは記憶に新しい。それから、彼はある噂を告げた。
端的に言うと、あの人は魔女だった。上官曰く、神羅が出来る前からその容姿は変わらずまるで時が止まっているかの様だと。社員ではないが神羅に自由に出入りしていることから協力者というのが推測されるものの、真相は上層部しか知らない。そして、念を押すように言われた言葉は、目を丸くしてしまうには充分過ぎるものだった。
『あの人は、人を食べて若さを保っている』
あくまで噂に過ぎないが、気を付けろ。そう言って去っていった上官にひとつ瞬いたのを覚えている。にわかに信じがたい事だが、社員のほとんどが知っているらしいその噂を、彼女は一度たりとも否定していないらしかった。ただ、静かに微笑みを向け、不思議な光を湛える紫玉の瞳を細めるだけなのだという。
そのようなことをする人ではない。彼女が姿を見せなくなって数週間、そんな気持ちがずっと心の中に渦巻いていた。
「魔女、さん」
「ん?」
「え、と…」
本当のことが知りたくて、けれど直球に聞けるほど親しくない現状に口から出かけた言葉を飲み込む。彼女にとって自分は一度会ったことがあるだけの一般兵。もし自分がソルジャーだったら変わったのだろうか。変わらず髪を撫でる細い指の感触に浸りながら、ひとつ、思った。
呼んだきり口を噤み、視線をさ迷わせる少年の言わんとしていることは大方分かる。噂の真相を知りたいのだろう。迷いを孕んだ眼を向けてくる彼に小さく微笑む。
「否定をしたとしても、信じる人はいるのかしら」
「魔女さん?」
「正直に聞いてくれる人は、どれだけ?」
はっと顔を上げ見つめてくる鮮やかな瞳に笑みを深め、撫でていた手を離す。追うように一瞬動いた視線は直ぐにこちらに戻ってきた。膝の上で自身の手を握り指を絡める。落とした視線、けれど、彼の言葉によって直ぐ上げることとなった。
「でもね、事実ではないから、肯定もしないわ」
「俺は…魔女さんを信じます」
虚を突かれた。真っ直ぐな言葉はそのまま届き、逸らされることのない双眸に見えた強い光に瞠目する。そう言い切ったのは少年が初めてなのは言うまでもない。嬉しいような恥ずかしいような、何とも言えぬ感情を抱き思わず動きを止めた。動揺しているのは自分でもよく分かった。徐々に頬へ熱が集まるのを感じ、気付かれぬよう自然な動作で頬に手を当て誤魔化すように口角を上げる。
「そういえば、名前を聞いていなかったから教えてくれる?」
「クラウド・ストライフ、です」
「ありがとう、クラウド」
応えた声は震えていないだろうか。そっと握った彼の手に、ほんの少しだけ力を込めた。