心に在るということ
ふ、と意識が浮上し、見慣れない天井に幾度か瞬く。気怠い身体を起こし、何が、と記憶を辿れば、必死に自分を呼ぶ令嬢の声が頭の中に木霊した。それから、彼との約束を果たせなかったことが、じわじわと心の中を占めていく。士官の得物に一突きされたことよりも、痛い。額に手をやり深い溜め息を吐いたところで、転がり込むようにして部屋に入ってきた彼と目が合った。こちらを凝視しながら肩で息をする彼に頭を下げる。
「ごめんなさい、クラサメ。約束、破ってしまった…」
彼の顔が見れず、かといってそもままでいるわけにもいかず顔を上げようとしたそれよりも先に影が差し、暖かいものに包まれる。視界に入るものは焦点が合わずぼやけてよく見えないが、彼に抱き締められていることは直ぐに理解出来た。良かった、と小さな声が耳に届く。どうして良いか分からず、取り敢えずあやすように彼の背を撫でれば、肩を揺らした彼の腕の力が強くなった。頬を擽る髪の感触に目を細めつつ、肩に額を寄せまるで何かを乞うような彼にひとつ息を吐いた。こうしてあげる相手は自分では無いだろうに、何をしているのだろうかと苦笑を漏らす。
「わたしのことは良いから。やること、あるんでしょ?」
「…すまない」
両肩を掴み引き離したが、彼の手はこちらの腕を掴んだままだ。迷子の子供のような目は、窺がうようにこちらを見てくる。落ち着かせ、傍にあった椅子に座らせながら令嬢の安否を問へば、まだ思い詰めた節はあるもののいつもの様子を取り戻した彼が小さく頷くことで応えた。彼女が無事ならば心配事はひとつ消えた。深く息を吐き身体を横たえる。高い天井のみを映す視界に入り込むその人の、鮮やかな双眸に心配の色が滲んでいることに気付き、問題は無いと軽く手を振り応えれば、胸元までシーツを引き上げられた。
「いつまでもここにいちゃ駄目でしょ」
「ナマエ」
「ほら、いってらっしゃい」
近くにある膝を叩いて促す。やらなければならない事、必ずやると決めた事があるのは明白で、時間が無いことも雰囲気から察せられる。その中でも会いに来てくれたことが何よりも嬉しく感じた。彼の中に自分がいるということが分かったから。
詳しくは教えて貰えなかったが、彼が何か大きなことを成し遂げ、ひとつ成長したのはその雰囲気から感じ取れた。その結果なのだろう、盛大に開かれたパーティー会場の、賑わいから少し離れた場所に椅子を置いてもらい、華やいだ空気に浸っていれば、椅子を用意してくれた本人であるトンベリが膝の上に登ろうとしていたので抱えてやる。居心地の好い場所を探して暫く動いていたが、落ち着いたのか凭れ掛かってきた。つるりとした頭をゆっくりと撫でながら話しかけ、応えるようにこちらをみた丸い瞳の中に自分が映る。
「トモダチ、遅いねぇ」
仕方ないとでも言うように、腹部に回していた腕を軽く叩かれて、トンベリがひとつ頭を振る。遅れている理由は、令嬢とふたりで歩いていくのを見たので分かっていた。やっと落ち着いたのだから穏やかな時間を楽しむべきだと思う。彼が幸せなら自分も満足だ。機嫌良く鼻歌まじりに身体を揺すれば、膝の上のトンベリもゆらゆらとしたが咎められることは無く、寧ろ楽しそうにも見えた。
不意にトンベリが膝から飛び降り駆けていくのを見つめ、その先の彼に気付く。てっきりふたりで来ると思っていたのだが、予想に反してひとりだけ。彼女の姿は見当たらず首を傾げたが、こちらが追求することも無いだろうと、トンベリを追いかけるべく半ば浮かべていた腰を下ろす。話題の人物に会場はざわめきを増し、一層賑わいを見せた。あっという間に囲まれた彼は些か困り顔だ。
「ただいま、ナマエ」
「おかえり、クラサメ」
いつの間に来ていたのか、照明を背負う彼を、眩しさに目を細め見上げる。差し出された手を取れば、しっかりと握りしめられた。